優れていることと優れていると思っていること。

私は「自分が優れている」と思えないし思わないようにしています。これは(私の場合は絶対的なものという感覚がありますが)特に誰かと比べて、という相対的な意味で優れていると思わないようにしているということを主眼に置いた表現です。


仮に「自分が他の誰かと比べて優れている」ということが自分だけに当てはまるとすると、自分より優れた人は誰もいなくなってしまうわけですが、そのような存在は神様仏様といった超越者しかありえません。しかし私は人間ですから、したがって「自分が他の誰かと比べて優れている」ということが自分だけに当てはまる、ということはありません。


それでは、「自分が他の誰かと比べて優れている」ということが誰を取ってきても当てはまるとするとどうでしょうか。確かに自分はある他者より優れているのかもしれませんが、そのような自分より優れた他者がいることも妥当し、さらに、そうした自分より優れた他者より優れた他者がいることも妥当します(誰を取ってきても、なので)。これを続けていくと無限背進になるわけですが、地球上に存在する(してきた)人間の数は有限なので、矛盾します。同様に、翻って、「自分が他の誰かと比べて劣っている」ということが誰を取ってきても当てはまるということもありません。


ですから、「あの子と比べて私は優れている」とか、「あいつと比べて私は劣っている」とか、考えるだけ無駄ですし、また、そんなことをいちいち「他の人と比べてあなたの優れている点はありますか。また、それはなぜですか。」などと質問すること自体ナンセンスです(これは就職活動における面接官に対する反駁の意味も込めています)。


別に「俺はあいつより優れてるんだ」とか「私はあの子より劣っているんだ」とか思うことは個人の自由なのですが、重要なことは、そのように「自分は誰かと比べて優れている(劣っている)と思っている」ことは、「自分は誰かと比べて優れている(劣っている)」ということを少しも意味しないということです。


したがって、すなわち誰も誰かに対して優れてもいないし劣ってもいないという意味において、人間は平等だと考えられるわけです。


* * *


ところで、無根拠でナンセンスな自己優越感を自己優越と勘違いすると、そしてそれを実体的なものとして許容してしまうと、いじめが、虐待が、ハラスメントが、暴力が、差別が、虚偽が、改ざんが、正当化されます。より深刻なのは、そうした自己正当化によって、いじめ・虐待・ハラスメント・暴力・差別・虚偽・改ざん等々がまさにそのようなものである、という認識自体が破壊される危険がある、ということです。


例えば、ハラスメントは、それがハラスメントだと認識されている限り是正と予防の余地があるわけですが、自己優越感による勘違いとそうした勘違いの社会的許容によって、ハラスメントという概念自体が権威的かつ権力的に隠蔽され、その是正と予防の枠組みもまた破壊される、ということです。そうなると、普遍的な認識の基盤自体が破壊されるので、歯止めが効かなくなります(こうした歯止めの効かない局面の最たるものが戦争であるとも考えられるでしょう)。


* * *


で、結局何が言いたいのかというと、
① 自己優越感は自己優越性と同一でないこと、さらに後者はそもそも原理的に成立しないということ。
② そうした自己優越感に基づく自己優越の勘違いをしないこととそれを許容してはいけないこと。
③ そうした態度を正当化し許容してしまうと、いじめやハラスメントや差別や暴力が横行し、さらに悪いことにそれらがまさにそれらであるという認識自体が破壊されるということ。


以上です。どうにか6月も投稿できました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?