墓を掘り起こされたミューズ、その薄幸な生涯は?
エリザベス・シダル、有名な画家たちの傍らでそっとその生涯を閉じた可憐な1人の女性。
彼女の姿形はあまりにも有名だ。
なぜなら、シダルは画家グループ、ラファエル前派のミューズだったからである。
ラファエル前派の1人、ジョン・エヴァレット・ミレーの「オフィーリア」という絵だ。
シェイクスピアの名作、『ハムレット』から題材を取ったあまりにも有名な絵画は、このエリザベス・シダルをモデルとしている。
彼女を描く際、実際にお風呂に浮かんでもらっていたところ、ミレーが熱中しすぎてお湯が冷めてしまい、シダルが肺炎にかかりかけるという事件も起きたという。
このグループでシダルというミューズを射止めたのは、グループの代表ともいうべきアーティスト、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティという男だ。
彼はイタリア詩人、ダンテ・アリギエリに憧れて詩作もこなす才能ある男であった。
ロセッティとの結婚生活が幸せであったかどうかは分からない。しかし、ロセッティは誠実な夫であったとは言い難い。
友人ウィリアム・モリスの妻、ジェーン・モリスとの不倫だ。驚くべきことに、この関係はウィリアム・モリス公認だったらしい。
ただし、シダルの心労やいかにといったところだろう。
1860年にロセッティと結婚したが、1862年にひっそりと彼女は亡くなる。
彼女の美貌の秘訣は病気にあった! そして悲しい死……。
シダルがミューズとなりえたのは、彼女の病弱な体質にも理由があった。
結核を患っていたために青白い肌色、熱っぽく潤んだ瞳や赤らんだ頬が人気を博したとも言えるだろう。
ちなみに19世紀には、結核という病気が女性の間で人気であり、結核患者にあこがれたメイクが流行っていたという。
ロセッティが描くシダルは、伏目がちで静謐な雰囲気を常に纏っている。
病弱なシダルは、1861年に流産する。そのことや、上述したロセッティの浮気で鬱状態となってしまう彼女は、アヘンチンキという薬物を過剰摂取した。
ロセッティの必死の努力むなしく、彼女は悲劇的な死を迎えた。ロセッティは大いに悲しみ、彼女の死を詠んだ詩を墓と一緒に納めたという。
肖像画は死に姿? ロセッティの愛の証?
シダルが亡くなり、ロセッティは悲しんだ。そして描いたのがこの絵だ。
「Beata Beatrix」、「ベアタ・ベアトリクス」というこの絵は、シダルをモデルとした絵画である。
目を閉じ、顎を心持ち上げたこの姿は、「死」を色濃く残した姿である。手元に寄り添う赤い鳥は芥子の花をくわえている。芥子はアヘンチンキの象徴であり、シダルの死因でもある。
ロセッティ自身はこの絵を、ただの死の場面ではなく、シダルが天へと昇るその瞬間を描いていると主張している。
これを愛だと思うかどうか、それは皆さんの考えにもよるだろう。
ちなみに、ロセッティがイタリア詩人ダンテに憧れているということは上述した。
イタリア詩人ダンテの生涯の恋人は、ベアトリーチェという名前だった。
この絵のタイトル、ベアトリクスとベアトリーチェ。
名前はほとんど同一である。
シダルの死に際しても、ロセッティは憧れの人と自分を同一視することを忘れていないのである。
墓の中の詩。その行方は……?
シダルの死から7年後。
ロセッティはなぜか墓に埋めた詩を取り戻したいと考えたらしい。
法的に正しい手順を踏むにしても、亡くなった妻の墓を暴く行為。当時はスキャンダラスな事件であった。
この出来事は、死んで墓に入り7年経った後でも、シダルの赤毛が輝いており、当時の美貌を保っていたという吸血鬼じみた伝説を流布させることとなる。
しかし所詮は紙だ。せっかく取り返した詩も、虫に食われていたり腐っていたりで、まともな状態ではなかったらしい。
その後この詩から出版した詩集が、「Poems」である。
この経験は、ロセッティにとっても思う所があったようで、「ハイゲート(シダルの墓所)には葬ってくれるな」という言葉を残している。
ロセッティのその後。
ロセッティはシダルの死後も浮気相手、ジェーン・モリスをモデルに絵画制作を続けたが、アルコールや薬物に溺れる毎日を過ごす。
そしてシダルの死から20年後、ブライト病で亡くなった。
希望通り、シダルとは違う墓所に彼は眠っている。
19世紀美術の先端を走り、今でも人気のあるラファエル前派の絵画たち。
その背景には美しく薄幸な女性の影があった。
シダルとロセッティがどのような関係であったか、そして彼らが幸せだったのかどうかは私たちには分からない。
しかし、次彼らの絵画を鑑賞するとき、絵画の陰に隠れている彼女のことも想ってみてほしい。
関連書籍
・Millais, John Everette. Ophelia, 1851-1852, Tate Britain, https://artsandculture.google.com/asset/ophelia/-wGU6cT4JixtPA?hl=en-GB&avm=3
・Rossetti, Dante Gabriel. Miss Siddal reclining in a long chair reading, 1854, Fitzwilliam Museum Cambridge, https://www.alamy.com/dante-gabriel-rossetti-drawing-of-elizabeth-siddal-reading-image261654970.html
・Rossetti, Dante Gabriel. Beata Beatrix, 1864-1870, Tate Britain, https://artsandculture.google.com/asset/beata-beatrix/GgHmtzXziFIlnQ?hl=en-GB&avm=2
・Bronfen, Elisabeth. Over Her Dead Body -Death, femininity and the aesthetic, Manchester University Press, 1992.
・ジョン・ポリドリ『吸血鬼』
https://www.amazon.co.jp/dp/4309460240
(私も初めて知ったのだが、ロセッティの叔父は最古の吸血鬼小説を書いたと言われる、ジョン・ポリドリらしい)