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雑誌『會計』の休刊と「日本型会計学」の終焉⑧戦後編Ⅲ シャウプ勧告と「財務諸表規則」

シャウプ勧告と「財務諸表規則」

 1950年に証券取引委員会規則第18号として「財務諸表規則」が制定されましたが、この「財務諸表規則」の設定は、アメリカの後押しを受けていました。すなわち、「財務諸表規則」の制定に関しては、税制に関するシャウプ勧告が重要な関わりをもっていました。  

 1949年(昭和24年)5月にコロンビア大学のシャウプ(C.S .Shoup)を団長とするシャウプ税制調査使節団(Shoup Mission)が来日した。当使節団の主目的は、日本の租税制度を研究し、その結果として税制改正のための勧告を行うことでした。精力的な調査と数々の政府との折衝の後、当使節団の「第1次報告書」(“Report on Japanese Taxation”)、いわゆる「勧告」が3段階に分けて公表されました。第1が同年8月26日のシャウプの記者会見による「勧告」の概要、第2が9月15日の「勧告」本文の公表、そして第3が10月3日の「附録」(Appendix)の公表でした。「附録」の中に次のような記述があります。

「証券取引委員会も経理基準を向上するために指導的役割を演じなければならない。同委員会は、種々の会計上の書類の様式を規定する権限をもっているから、経理習慣の発展に大いに貢献し得る優れた立場にある。同委員会は会計基準を規則として公布するようにすべきである。(旧字は略字に換えています。)」(神戸都市問題研究所地方財政制度資料刊行会編1983、日本税制報告書、280頁)

 しかし、証券取引委員会に実際に「財務諸表規則」を作る意思も能力もなかったとして、黒澤は次のようにいっています。

「…何分にもS.E.C.(証券取引委員会:筆者)と云う所は、その様な事に対しては全然無知で、我々が作ってくれたらとり入れようと云っているが、実際にはこれは我々がつくるのではなく各会社が民主的にこれをつくるものでなければならないのでありまして、我々としても又そうとなる様に努力しているが何分S.E.C.は証券取引所の幹部と大部分大蔵省の御役人によって構成され、云わば大蔵省の出店のようなものであります。」(黒澤1949)

 なお、黒澤は、事前にシャウプ勧告と「財務諸表規則」の基礎となった「企業会計原則」の間に意思疎通があったとして、次のようにいっています。

「…シャウプ博士は、その報告書に、日本では会計原則の確立のために委員会が設置されている。青色申告の基礎となるものは、確立された会計原則でなければならないと書いているのです。
  このシャウプの言葉は、私どもを大いにはげましてくれました。

…(中略)…

 後年、会計原則(昭和24年7月)とシャウプ勧告(昭和24年6月)とを、歴史的に比較調査する人があるとしたら、不思議に思うかもしれません。なぜならシャウプ勧告のほうが会計原則よりも前に発表されているのに会計原則の公表が織り込みずみになっているかということです。しかしそれは、事前に両者の間に意思疎通があったからですよ。」(番場ほか1974、8頁)

 シャウプは、1950年(昭和25年)7月31日に再来日して、「勧告」の実施状況を調査し、第2次勧告を公表しました。そこでは、「財務諸表規則」に関する、より明確な以下のような勧告が行われました。

「証券取引委員会は、取引所に登録されている株式を所有する法人の貸借対照表および損益計算書の検査を要求する規則をできるだけ早く(おおむね昭和26年4月以前に)施行すべきである。(旧字は略字に換えています。)」(神戸都市問題研究所地方財政制度資料刊行会編1983、第二次日本税制報告書、76頁)

 そして、1950年9月28日に、「財務諸表準則」を基礎に「企業会計原則」の一般原則の一部を取り込んで、証券取引委員会規則第18号として「財務諸表規則」が公布されました。「企業会計基準法」の頓挫(日本型会計制度の歴史⑤:幻の「企業会計基準法」構想参照)で法的裏付けの途を見失った財務諸表の様式標準化が、税制に関する勧告によって可能性が開かれるという「いびつな」形を採って実現するに至ったのです。

文献

黒澤清1949「財務諸表原則及び準則について」口述筆記(成蹊大学附属図書
 館『黒澤文庫目録Ⅱ―第一次史 料-』2000年、整理番号Ⅱ-5 5)。

神戸都市問題研究所地方行財政制度資料刊行会編1983『シャウプ使節団日本
 税制報告書』勁草書房。

番場嘉一郎ほか1974「〈座談会〉企業会計四半世紀の歩み」『企業会計』第
 26巻第1号。

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