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雑誌『會計』の休刊と「日本型会計学」の終焉⑦戦後編Ⅱ 企業会計原則

戦後編Ⅱ 企業会計原則

①   日米の交配型モデルとしての「企業会計原則」

 「企業会計原則」の成立については、戦後占領期という特殊な状況ゆえに複雑な事情が隠されています。戦後占領期の日本に関する著述の中で、ダウアー(J.Dower)は次のように言っています。

「戦後『日本モデル』の特徴とされたものの大部分が、じつは日本とアメリカの交配型モデルa hybrid Japanese-American modelというべきものであったことがわかる。このモデルは戦争中に原型が作られ、敗戦と占領によって強化され、その後数十年間維持された。」(三浦・高杉訳2004、418頁) 

 戦後占領期における「企業会計原則」の成立は、ダウアーのいう「日本とアメリカの交配型モデル」の典型であると考えられます。それは、従来からいわれているアメリカのSHM原則(山本茂・勝山進・小関勇訳1979)等の影響にとどまらず、戦後占領期における日米の事情や思惑の中で成立しました。なお、本稿の引用の一部については、表記を改めています。

 第2次大戦後、7年間、日本は、連合国最高司令官総司令部(General Headquarters Supreme Commander for the Allied Powers;以下ではGHQ/SCAPと略称)による占領下にありました。「企業会計原則」が作成・公表されたのは、この戦後占領期でした。戦後占領期、GHQ/SCAPには、戦後生まれの筆者などには想像もできないほどの絶大な権力があったといいます。
 そのGHQ/SCAPによる占領政策の一環として、大企業の財務諸表の標準化のために後述の「指示書」が公表されました。それは、戦前の商工省「財務諸表準則」の英訳が母体となりました。「企業会計原則」は、GHQ/SCAPの権威を借りながらも、まさに日本側の意図によって行われた戦後改革の典型でした。以下では、その成立の経緯を見ていきたいと思います。

 戦後占領期、連合国最高司令官総司令部は日本の財閥解体に取り組んでいました。そのため、主要な商工業会社のほとんどが「制限会社」に指定され、その目的のために主要企業の財務状況の調査を行うことになりました。その任務がGHQ/SCAPの経済科学局(Economic Science Section; ESS)に与えられました(新井ほか1978、16頁)。因みに、ESSは、GHQ/SCAPに設置された幕僚部(Special Staff Section)の1つであり、GHQ/SCAPの中で最も重要な部局の1つでした(竹前2002、66頁)。

 「制限会社」は、過去10年分の財務諸表、そしてその後も定期的にESSの調査統計課(Statistics and Research Division)への財務諸表の提出を要求され、また各種申請書にも財務諸表の添付が必要とされました。しかし、当時の日本の財務諸表は、様式も様々で、「過去において連合司令部に提出された報告書を見るに、会計処理法中、遺憾な点が甚だ多い」(「指示書」)というものでした。そこで、ESSの担当官と日本人嘱託の協力で財務諸表調整に関する「指示書」が作成されることになりました。

 「指示書」作成の日本人側の責任者は、九州大学教授でESS経済顧問(economic adviser)の高橋正雄、実務担当者は、ESS嘱託(consultant)の橋本雅義と元東京商科大商業専門部教授の村瀬玄でした。そしてESS側の責任者は、調査統計課課長代理(Deputy Chief)マーチ(F.A.March)、実務担当者は、米国で会計士の経験を持つ会計顧問(accounting consultant)ヘッスラー(W.G.Hessler)でした(黒澤1984、6頁)。

 ESSは、村瀬に対して、1934年(昭和9年)に商工省が発表した「財務諸表準則」の翻訳を依頼しました。ヘッスラーが、その翻訳を土台にして修正したものが「工業会社及ビ商事会社ノ財務諸表作成ニ関スル指示書」("Instructions for the Preparation of Financial Statements of Manufacturing and Trading Companies ":以下では「指示書」と略称)であり(田中編1990、357-358頁)、1947年(昭和22年)7月に発出されました。

 なお、CIE資料にある"INSTRUCTIN FOR THE PREPERATION OF FINANCIAL STATMENTS"(CIE 1948)には1947年11月17日、新井編1989や日本公認会計士協会25年史編纂委員会1975に掲載された「指示書」には昭和22年12月と記載されていますが、千葉教授によれば、マーチ宛に提出された"MEMO FOR GENERAL MARQURT”により「指示書」が「制限会社」に昭和22年7月送付されたことが確認できるとされています(千葉1998、104頁)。「GENERAL MARQURT」とは、ESSの局長のマーカット(F.W.Marqurt)少将です。

 1947年(昭和22年)11月に、ヘッスラーは、ESS嘱託の橋本雅義を通して「指示書」の修正を太田哲三(東京商科大学教授)に委嘱しました。その結果、太田を中心として産業経理協会のなかに、今井忍(産業経理協会常務理事)、鍋島達(産業経理協会常務理事)、岩田巖(東京商科大学助教授)および黒澤清(横浜経済専門学校教授)等から成る私設委員会である「財務表標準化委員会」が設立され、その審議にとりかかりました(黒沢1979/80〈4〉98頁)。その後、「財務表標準化委員会」は、後述のように結果として1948年(昭和23年)6月に設置された「企業会計制度対策調査会」の活動に合流しました(番場ほか1974、6-7頁)。

 ②   「企業会計基準法」構想

 「指示書」の改訂がまだ捗らないでいる間に、ESS経済顧問の高橋正雄から東京大学教授の上野道輔に、1947年制定の「統計法」及び「統計委員会」と同じように「企業会計基準法」及び「会計基準委員会」をつくってみてはどうかという提案がなされました(新井ほか1978、17頁)。

 「高橋構想」と上述の「指示書」の改訂問題が、ESSの中で、「奇妙なはち合わせ」をすることになりました(番場ほか1974、6頁)。結論からいうと、これが1948年(昭和23年)7月6日に成立する「企業会計制度対策調査会」(以下では「調査会」と略称)につながっていきました。しかし、後に「企業会計原則」及び「財務諸表準則」を作成・公表する「調査会」の設置については、紆余曲折があり、「調査会」が成立するまでの約8ヵ月間は、関係者にとって「生みの苦しみの長い時間」が続くことになりました(黒澤1979/80〈4〉98頁)。以下ではその経緯を辿ってみたいと思います。

 1947年(昭和22年)末か、昭和23年はじめごろ、上野の委嘱で黒澤は、「企業会計基準法」を制定するための原案をESSに持って行きましたが、「日本政府が承認したら、認めてもよい」とういことになり、結局、「企業会計基準法」制定も会計基準委員会の設置も最終的には経済安定本部(以下では安本と略称)が引き受けることになりました(番場ほか1974、7頁)。

 安本では「企業会計基準法」という法律を新設するのは無理だが、行政機関と同じような権限を持った「調査会」をまず作ろうという新しい提案がなされました(新井ほか1978、17-18頁)。その結果、ESSでこの件ついて協議が行われ、太田哲三を中心とした「指示書」の改訂作業、すなわち上述の「財務表標準化委員会」を「調査会」に合流させようという結論になりました(新井ほか1978、18頁)。

 ある対談で、黒澤は、安本が引き受けたとしても、当時の状況としては、最終的にはGHQの承認を要する。そこでESSを通じて、GHQ/SCAPの民間情報教育局(Civil Information and Education Section;CIE)のモスにあっせんを頼むことになったとし、以下のように発言しています(新井ほか1978、18頁)。

「ESSも会計委員会(会計基準委員会:筆者)の設置に賛成していたわけではなかったので、いちおう我々に同情して、会計教育改革をもとりいれることにより、局面の打開をはかるよう、我々に忠告した。というのは、実業教育セクションの局長にモスという人物がいて、日本の会計教育の革新に熱をいれていました。上野先生と私がはじめてモス氏に会見したのはESSのヘッスラー氏の上役に当たるマーチ氏の紹介による。」 

 文中のモスについては「当時の日本の文部省に教育改革に関して指令する権能をマックアーサーから与えられていた」(番場ほか1974、8頁)ことが重要でした。なお、「マックアーサー」とは、連合国最高司令官マッカーサー(D. MacArthur)元帥です。このモスという人物については、日本側の資料では、「職業教育課長 モス博士」となっていますが(黒澤1979/80〈3〉99頁)、GHQ/SCAPのCIE資料(CIE1948)によれば、 Louis Q. Mossという人物です。その肩書は、CIE教育課(Education Division) のAdult Education顧問(Adviser)となっています。GHQでは、専門知識が必ずしも十分とはいえない人物に大きな権限が与えられていたといわれますが、Mossもそうした1人であったようです。

 1948年(昭和23年)3月3日付で、「日本の会計方法の改善について」と題するメモランダムが、ヘッスラーから上司のマーチ宛に発せられました。当時、メモランダムは、GHQ/SCAP部局から日本政府の関係省庁担当者への非公式な指令の手段として使われていました(天川ほか編1996、98頁)。マーチ宛のメモランダムは、後述の「会計基準および教育会議」の開催のきっかけとなったものとされます(黒澤1979/80〈4〉99頁)。黒澤は、このメモランダムについて「私どもの方からヘッスラー氏に依頼してこのようなメモランダムの発行にこぎつけてもらったのである。」(黒澤1979/80〈4〉101頁)と述べています。 

③   企業会計制度対策調査会

 1948年5月14日に「調査会」の準備大会としての「会計基準および教育会議」(Conference on Accounting Standards and Education)が開催された。そこでは、当時の内閣総理大臣 芦田均宛の「建議書」が提出されました。

 会議の決議に基づいて上野は芦田首相にじかに会見して了承を受け、閣議決定の運びとなりました(新井ほか1978、18頁)。同年6月29日に、閣議は「調査会」を経済安定本部内に設置することを決定しました。黒澤によれば、「調査会」は、経済安定本部の権限を背景に、法令上正規の行政機関ではなかったものの単なる諮問機関ではなく、行政の総合調整に関与する権限をもった委員会でした(黒澤1979/80〈3〉、 100-101頁)。

 1948年(昭和23年)7月14日「調査会」規程の第6条に基づいて、「調査会」部会規程が制定され、当部会規程により、次のような問題を所管する四つの部会が設置されました(黒澤1979/80〈3〉、100-101頁)。

 委員長 上野道輔(東京大学教授)

総務部会 部会長 内田常雄(経済安定本部金融局長)

 企業会計の基準及び教育に関する恒久的組織を設立するための調査及び準備並びに各部会に属しない事項の調査

第1部会 部会長 黒澤清(横浜経済専門学校教授)

 財務諸表の改善統一に関する調査

第2部会 部会長 上野道輔

 企業会計の教育に関する調査

第3部会 部会長 岩田巌(東京商科大学助教授)

 企業会計の監査基準に関する調査 

 そして、1948年7月16日に「調査会」の第1回総会が開催され、「調査会」議事規則及び部会規程が決定され、委員及び幹事が任命されました(経済安定本部1949a)。「調査会」の第1回会議次第によれば、GHQ/SCAPからは、CIEのモス、及びESSのヘッスラーの後任のフランク(Frank)が出席しました(黒澤1979/80〈3〉、99頁)。

 会計基準委員会の権限はかなり大きなもので、商法、税法等の法令における会計または計算に関する規定が改廃される場合には、「企業会計基準法」における「会計五原則」に準拠し、かつ会計基準委員会の意見を尊重しなければならないということになっていました(黒澤1979/80〈8〉、147頁)。

 「企業会計基準法」の草案は、後に「調査会」の事務局でまとめられ、討議の上、安本幹部会(経済安定本部長官、副長官、各局長および財政金融局企業課長出席)に提出されました。「関係各省庁(大蔵省、法務庁、通産省など)の諒解もとれたのであるが、ついに国会提出のはこびにいたらなかった。そのいきさつについては、限られたこの紙面では、とうてい語ることはできないので省略する。」(黒澤1979/80〈2〉98頁)として、上掲の黒澤の連載では「企業会計基準法」が成立しなかった経緯は残念ながら語られていません。

 1948年11月25日から、まで開催された「調査会」の速記録が雑誌『會計』に掲載されている(企業会計制度対策調査会1949)。黒澤は後に以下のように述べています。

「そもそもあの速記録は、その実、文字どおりの速記録ではなくて、安本の葛原秀治補佐その他数名が、現場で各委員の意見を筆記して、上野会長がいちおう検閲した上で雑誌『会計』にその一部だけ公表したものである。審議の過程では、いろいろの解釈や意見も発表されるが、『企業会計原則』が公表されるまでの、7ヵ月の間に、当初の誤りは修正されている。」(黒澤1979/80〈13〉76頁) 

 すなわち、公表されたものとは別の筆記された原本が存在していました。その筆記原本の一部は、黒澤の連載に写真版で紹介されています(黒澤1979/80〈8〉147-149頁)。また、同速記録で公表されていない個所が黒澤の別の論稿に一部引用され、そこには、経済安定本部財政金融局企業課長 清島省三の以下のような発言が記されています。

「最近、安本の幹部会(大臣、次官、副長官、局長、関係課長出席)があったが、会計基準法が制定されて、会計基準委員会が設置されることは安本としてはよいと思うが、この委員会は、新しい行政官庁をつくることになるので、行政整理が行われている際とて、財政上問題がある。そこで安本としては、この案をとおすためには、GHQの指令がほしい。幹部会ではこの問題はペンディングにしてある。審議会で行くか、行政機関としての会計基準委員会で行くかは、こんごの残された問題である。

 証券取引委員会を内閣にもっていって、会計基準委員会と合併して大きなものにするということも考えられる。」(黒澤1978、10-11頁) 

 そのあと、黒澤は、「要するに、会計基準法および会計基準委員会は、政府部内に行政整理問題その他の摩擦のために不成立に終わった。」と述べていますが、ここでも詳細は明らかにされていません。「企業会計基準法」が不成立になったとき、その「会計五原則」の一部が、一般原則として「企業会計原則」の中に取り入れられました。 

④   「企業会計原則」と「財務諸表準則」

 1949年(昭和24年)7月9日、「調査会」は、黒澤第1部会長の草案を中心に進められてきた研究討議の結果を「企業会計原則」と「財務諸表準則」とに分けて中間報告として発表しました。その前文、前掲の「企業会計原則の制定について」において、「企業会計原則」の目的の一つとして以下のものが挙げられています。

 「企業会計原則は、将来において、商法、税法、物価統制令との企業会計に関係ある諸法令が制定改廃される場合において尊重されなければならないものである。」 

 この点について黒澤は後に次のように述べています。

「周知のように企業会計原則は、商法の改正にさきだち、商法における会計に関する規定の改正に対する勧告書の意味を含めて公表されたものである。すでにのべたようにこの勧告は、充分には考慮されなかったけれども、幾分かは反映されたのである。(傍点筆者)」(黒澤1954、3頁) 

 「幾分か反映された」点にとしては、1950年(昭和25年)の商法改正審議中に太田哲三と黒澤清とが商法改正委員会において法定準備金について資本取引と損益取引分離の考え方を入れてほしいと要望し、それが受け入れられました(新井ほか1978、22-23頁)。「企業会計原則」がこうした性格をもったのは、「企業会計基準法」以来の遺産の承継でした(黒澤1979/80〈8〉147頁)。

 このように、「企業会計基準法」は「企業会計原則」につながったのに対し、「指示書」の改訂は「財務諸表準則」につながりました。黒澤は次のように述べています。

「間において私は、GHQのヘッスラーに会見して、『あなたから頼まれた指示書の修正の件は、我々が今後とりあげることを企てている会計原則のなかに織りこみますから、諒承してもらいたい』と申し入れました。こうした経緯で『一般に認められた会計原則』のなかに指示書の趣旨を取り入れて、財務諸表準則が付加されました。会計原則の設定を目指す新しい発想で出発するとともにこうしてヘッスラーも我々の要望を承諾するにいたりました。」(新井ほか1978、18頁) 

 1947年(昭和22年)3月28日に「証券取引法」が公布されましたが、「証券取引委員会」に関する規定(同年7月23日施行)を除いて実際上未執行のまま全面改正されました。1948年(昭和23年)4月13日に改正「証券取引法」が公布され、1948年5月7日に施行されました。この改正法の施行により、証券取引委員会は、独立の行政官庁として権限を強化、改組されました。改正法の193条には、以下の規定がありました。

「証券取引委員会は、この法律の規定により提出される、貸借対照表、損益計算書その他の財務書類が計理士の監査証明を受けたものでなければならない旨を証券取引委員会規則で定めることができる。(傍点筆者)」 

 この規定によって、証券取引法の適用会社が、商法による計算書類以外に証券取引法上の財務書類を作成する義務を負う法的基礎が提供されました。その後、1950年(昭和25年)3月29日に改正「証券取引法」が公布・施行されました。これにより、「証券取引法」の規定により提出される財務書類の用語、様式及び作成方法を定める権限が証券取引委員会に付与されました。今日的観点からすると、公認会計士制度と「企業会計原則」の設定とは、相互の連携のもとに進められていたように想像しがちです。例えば「企業会計原則の設定について」では、以下のように述べられているからです。

「企業会計原則は、公認会計士が、公認会計士法及び証券取引法に基き財務諸表の監査をなす場合において従わなければならない基準となる。」(二、2) 

 しかし、実際にはそうではなく、黒澤は次のように言っています。

「公認会計士制度のことは、当時大蔵省の理財局長だった伊原隆氏がG.H.Q.の要請を受けて、証券取引法の制定に伴い、これを制度化しようということになり、その頃の計理士会の長老数氏(たとえば中瀬勝太郎氏、島田宏氏など)および私ども会計学者に相談をかけたのがきっかけになっています。はじめは、会計士の問題と会計原則の問題とはまったくかかあり会いはありませんでした。」(番場ほか1974、5頁) 

 1950年に、「財務諸表準則」を基礎に「企業会計原則」の一般原則の一部を取り込んで、証券取引委員会規則第18号として「財務諸表規則」が制定されました。これが、後に大蔵省令「財務諸表規則」、そして現在の内閣府令「財務諸表規則」となります。1930年(昭和5年)の「標準貸借対照表」に始まる財務諸表の様式統一の試みは、これによって初めて実現しました。

 一方、「調査会」第3部会によって作成が進められていた「監査基準」及び「監査実施準則」が、1950年7月に企業会計基準審議会によって公表されました。翌1951年(昭和26年)には、「財務書類の監査証明に関する規則」(証券取引委員会規則第4号)によって「監査基準」の一部が法制化されました。これらにより、証券取引法の領域では会計・監査基準としては、フルセットの近代化が実現しました。それらに基づき、証券取引法による会計制度監査が、戦後占領期に初度監査(1951年)から第2次監査(1952年)まで、そして独立回復後に第3次監査(1952年)から第5次監査(1956年)まで実施されました。 「会計制度監査」については、いずれ稿をあらためて論じたいと思います。

⑤「企業会計原則」のその後 

 「指示書」(S.22年7月)の発出から「企業会計原則」の公表まで(S.24年7月)の動きがわずか2年の間に起こったことに驚かされます。本稿で見てきたように、戦後占領期の会計規制は、GHQ/SCAPの占領政策と日本側の事情や思惑とが組み合わさった、文字通りの「日米の交配型モデル」であったといえるでしょう。

 「企業会計原則」及びそれから導き出された会計諸基準との間に、複雑かつ密接な相互作用ないしは相互浸透が生じ、日本特有の会計制度が発展しました(黒澤1979/80〈9〉146頁)。それは端的に言うと、次のようなプロセスによるものでした。
 すなわち、証券取引法による会計規制というフィールドで、キャパシティのある大企業に限定し、既存の商法計算規定との調整なしに近代的会計規制を整備する実験が行われました。そこで制度として定着したものが商法計算規定に取り入れられました。資産別評価規定の導入等、計算規定の整備が行われたのは、1962年(昭和37年)の商法改正、計算書類様式標準化は1963年(昭和38年)の「計算書類規則」(法務省令)の制定によってであり、大会社に会計監査人監査を導入したのは、1974年(昭和49年)改正(同年「商法特例法」制定を含む)によってでした。こうした「企業会計原則」と「商法」との関わりについても、いずれ稿をあらためて詳しく論じたいと思います。 

文献

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 制』日本図書センター。

新井清光編1989『日本会計・監査規範形成史料』中央経済社。

新井清光ほか1978「〈座談会〉企業会計制度の基盤」『企業会計』第30巻第
 12号。

企業会計制度対策調査会1949「企業会計原則設定に関する企業会計制度対策
 調査会速記録(1)」『會計』第56巻第3号。

黒澤清1978「企業会計制度の発展と企業会計原則の役割」『企業会計』第30
 巻第12号。

---1979/80「資料:日本の会計制度〈1〉~〈16〉」『企業会計』第31巻
 第1号~第32巻第4号。

---1984「企業会計原則の歩み」『企業会計』第36巻第1号。

日本公認会計士協会25年史編纂委員会1975『会計・監査史料』同文舘出版。

竹前栄治2002『GHQの人びと-経歴と政策―』明石書店。

田中章義編1990『〈インタビュー〉日本における会計学研究の発展』同文
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千葉準一1998『日本近代会計制度-企業会計体制の変遷』中央経済社。

番場嘉一郎ほか1974「〈座談会〉企業会計四半世紀の歩み」『企業会計』第
 26巻第1号。

三浦陽一・高杉忠明訳2004『敗北を抱きしめて[増補版] (下)』岩波書店。

山本茂・勝山進・小関勇訳1979『SHM会計原則』同文舘出版。

 

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