雑誌『會計』の休刊と「日本型会計学」の終焉④戦前編Ⅱ 「財務諸表準則」、「財産評価準則」、「製造原価計算準則」および「会計監査準則草案」
戦前編Ⅱ 「財務諸表準則」、「財産評価準則」、「製造原価計算準則」および「会計監査準則草案」
今回は,「日本型会計制度」の出発点である財務管理委員会による準則の確定稿と「会計監査準則草案」を取り上げます。なお,引用の一部については,表記を改めています。
①財務諸表準則
関係各方面からの意見聴取の後,「標準貸借対照表」,「標準財産目録」および「標準損益計算書」の内容を一括し、確定稿として,1934年(昭和9年)に「財務諸表準則」が公表されました。財務管理委員会の未定稿はすべて雑誌『會計』に掲載することにより公表されましたが、「財務諸表準則」は臨時産業合理局で直接印刷に付して各方面に配布されました(黒澤1973~76〈9〉、108頁)。
「財務諸表準則」は,直接的には,商法の書類および公告の貸借対照表等の様式統一を目的としていました。すなわち,「第1 総則」において次のように定めていました。
「1 本準則に定むる貸借対照表は商法第26条の規定に依り,決算に際して作成すべき貸借対照表に付き之を定む。其の他の場合に於ける貸借対照表も,之に準じて作成するを可とす。
2 本準則は株式会社に於いて株主総会に提出すべきものに付き之を定む。商法第192条第2項の規定に依り公告するものも亦事情の許す限り之と同一たるべし。」
「財務諸表準則」の構成は以下の通りです。
序
貸借対照表
貸借対照表雛形 第1号表(工業:下掲写真),第2号表(商業)
財産目録
財産目録雛形 第3号表
損益計算書
損益計算書雛形 第4号表(工業),第5号表(商業)
「財務諸表準則」は,結局、法的拘束力を得ることができませんでした。しかし、当時の会計教科書の3分の1以上の会計学文献が,その教科内容に「財務諸表準則」を採用し,大会社の相当数は,「財務諸表準則」を参照して決算書類の様式を改善したといいます(黒澤1990,258頁)。
でも、当時は企業会計が非常に過小評価されていた時代であったため、会計学の教育方面に大きな影響を与えた割には、現実の会計実務に対する影響は案外僅少であったようです(黒澤1973~6〈9〉、108頁)。
「財務諸表準則」は、日本型会計制度の歴史(戦前編)③で紹介する、企画院「財務諸表準則草案」の基礎となったばかりでなく、第2次大戦後の「企業会計原則」に添付された「財務諸表準則」の原型となりました(黒澤1973~76〈11〉、88頁)。
商工省「財務諸表準則」は、ディスクロージャや外部監査を予定しない財務諸表の標準化の試みでした。そのことは、日本の産業合理化運動の実質的推進者であった商工省臨時産業合理局の第二部長の吉野信次の以下の発言にも伺えます。
「だけど、さっきいったような貸借対照表のつくり方とか、本の形とかなんとかいうものは、あれ(合理化運動:筆者注)によって大いに単純化したと思います。缶やビンなんかも一時はずいぶん単純化されたけれども、…」(安藤1965,126-127頁)
このように、商工省「財務諸表準則」による財務諸表の標準化は、本のサイズや缶・ビンのサイズの規格化と同レベルの問題でした。財務諸表の様式標準化は、欧米では外部監査の前提として制度化されたにもかかわらず、日本では監査の前提という実質を欠いた表面的な模倣にすぎませんでした。近代的会計基準は、強制監査の前提として生まれました。したがって、監査を前提としない商工省準則が任意適用に留まったのは、当然のことといえるかもしれません。
②財産評価準則
「資産評価準則」及び「固定資産減価償却準則」の確定稿として、1936年(昭和11 )に「財産評価準則」が公表されました。
「財産評価準則」の構成は以下の通りです。
序 言
第1 総説
第2 減価償却
第3 土地
第4 建物、機械、設備
第5 工具、什器等
第6 建設費、興業費等
第7 無形固定資産
第8 有価証券
第10 債権
第11 雑勘定
第12 外国貨幣に依る資産及び負債
「財産評価準則」も,法的拘束力を得ることができませんでした。しかし、いずれ紹介する、陸海軍の経理統制を目的とした「陸軍工場軍需品事業場財務諸表準則」(1940年)と「海軍工場軍需品事業場財務諸表作成要領」(1940年)に財産評価に関する規定が含まれていましたが、「財産評価準則」は、これらの規定に影響を与えました。
また、「会社経理統制令」(1940年)による財産評価に関する閣令として、大蔵省会社部総務課によって「財産評価準則案」(1941年)が準備されましたが、「財産評価準則」はこれにも影響を及ぼしました。
③製造原価計算準則
1937年(昭和12年)に「原価計算基本準則」の確定稿として「製造原価計算準則」が公表されました。「製造原価計算準則」の作成に当たっては,ドイツ経済性本部(Reichskuratorium für Wirtschaftslichkeit)の「原価計算基礎案」("Grundplan der Selbstkostenrechnung";Meier/Voss 1930)が参照されました(黒澤1990,273頁)。そして,「原価計算基礎案」の翻訳(抜粋)が「製造原価計算準則」の付録(2)として添付されました。
未定稿が「原価計算基本準則」であったのに対して,確定稿は「製造原価計算準則」として,製造原価の計算のみを扱っています。第2次大戦後,黒澤清は,「陸軍軍需品工場事業場原価計算要綱」(1939年)や「海軍軍需品工場事業場原価計算準則」(1940年)も,元を洗えば,商工省「製造原価計算準則」の模倣の産物であると述べています(黒澤1990,416頁)。
陸海軍の原価計算に関する要綱または準則を廃止し、原価計算に関する統一的基準として設定された「製造工業原価計算要綱」(1942年)にも「製造原価計算準則」は影響を及ぼしましたし、当要綱は、戦後占領期にも、ほぼそのまま生き残ることになります。
さらに、「製造原価計算準則」は、戦後の「原価計算基準」(1963年)にも影響を与えています。例えば、製造部門の説明例は、以下に掲げるように「原価計算基準」にも、ほぼそのまま引き継がれています。
「製造原価計算準則」(1937年)
「製造部門 直接製造作業の行わるる部門にして、其の成果は製品又は中間製品となるものとす。例えば機械製作工業に於ける鋳物、機械仕上、組立等の各部門の如し。」
(第8 部門費計算、41、部門の意義)
「原価計算基準」(1963年)
「製造部門 製造部門とは、直接製造作業の行われる部門をいい、製品の種類別、製品生成の段階、製造活動の種類別等にしたがって、これを各種の部門又は工程に分ける。たとえば機械製作工場における鋳造、鍛造、機械加工、組立等の各部門はその例である。」(第3節 原価の部門別計算、16原価部門の設定)
④会計監査準則草案
1927年(昭和2年)に計理士法が制定されました。計理士法は,法令そのものに不備がありました。すなわち,大量に既得権者を無条件で認め,大学または専門学校を卒業しただけで資格が取れました。登録料金は20円で,1回それを納めれば永久に計理士と称することができました(太田1968,79頁)。その結果,1927年から1947年にいたる約20年間に所管官庁(当初は商工省,後に大蔵省)に登録された計理士の総数は,4万数千名に達しました(黒澤編1987, 9頁)。
計理士試験合格者や,計理士法制定前から自由職業としての会計業務に従事していた有能な職業人も存在しましたが,きわめて少数の人々に過ぎませんでした。(黒澤編1987, 9頁)。計理士は、監査を主として、調査鑑定、証明、組織立案等を行う独立職業人として期待されましたが、実際は、需要の稀少と専門的技術の取得に欠ける点もあり、単に企業の代理記帳人としての業務を行うにすぎなかったようです(羽柴1956、47頁)。
財務管理委員会の審議項目には,監査に関する事項は含まれていませんでしたが、「製造原価計算準則」に続いて,財務管理委員会によって長谷川安兵衛(早稲田大学)を主査として監査の研究が行われていました。委員会は毎週1回規則正しく開催され、草案も70%近く出来上がっていたようです(黒澤1973~76〈14〉,76頁)。しかし、草案作成の作業は、昭和15年前後に未完成のまま中絶されました(黒澤1973~76〈14〉,77頁)。
「会計監査準則草案」は公表されませんでしたが,「陸軍軍需品工場事業場財務監査要綱」(1940年)等に大きな影響を及ぼしました。
文献
安藤良雄1965『昭和政治経済史への証言(上)』毎日新聞社。
黒澤清1973~76「日本の会計回顧録―日本会計学のあゆみ〈1〉~〈21〉」『企業会計』第25巻第2号~第26巻第3,7~9号、第28巻第1~4号。
―――1978「企業会計制度の発展と企業会計原則の役割」『企業会計』第30巻第12号。
―――1990『日本会計制度発達史』財経詳報社。
羽柴忠雄1956「正規の監査実施にいたる経緯」『企業会計』(昭和31年10月号)。
Meier, Albert/Voss, Heinrich 1930, Grundplan der Selbstkostenrechnung :
Entwurf, 3., Ausschuß für wirtschaftliche Verwaltung, Dortmund(土岐政蔵訳
1935『原価計算と価格政策の原理』東洋出版社).
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