
篠原梵超一句評「破損すること——道具からがらくたへの変身」
2024年の学生祭のために書いた篠原梵の超一句評を加筆修正したうえで公開します。篠原梵に詳しいわけではなく、岡田一美氏の『篠原梵の百句 実存と思想』(2024、ふらんす堂)を読み感銘を受けた勢いそのままで、「実存と思想」という副題にひっぱられて書いたものなので、筆が走り過ぎている箇所もあるかと思います。ご指摘などあればよろしくお願いします。
―――――—————————————————————————————
1.「壊れた道具」
扇風機止り醜き機械となれり
機能しているあいだはまったく気にしていなかった扇風機の〈美醜〉が、それが止まった(壊れた?)途端に意識され始める。道具は、その用途目的が意識されているあいだ形態的・空間的な意味において透明化されている。道具としての用途から逸脱した瞬間に、それらはオブジェとして露呈し始め、私たちの前に不気味に立ちはだかる。
哲学者の千葉雅也は、言語の不透明性、すなわち「器官なき言語」について説明する過程で、偶然にも掲句と酷似したシチュエーションを取り上げている。
そこで、「道具が壊れる」という状況について考えてみたい。[/]
動かなくなった洗濯機のホースを蛇口から外そうとしている。そのとき、大きなその塊が何か不気味に思えてこないでしょうか。スイッチの脇に溜まったホコリも、妙に気になる。壊れた洗濯機は、洗濯をするという行為からアウトして、ただそこに孤独に居座っている。昔から部屋にあるはずなのに、それはいまや「不審者」のように感じられないでしょうか。
扇風機と洗濯機という違いはあれど、この文章はそのまま梵の句の鑑賞として読み換えることができる。千葉によれば洗濯機は壊れた瞬間に「不気味なただの「モノ」とな」り、その「物質性を発揮する」。そして、「言葉も「壊れた道具」のようになるときがある」。
このような「壊れた道具」である「器官なき言語」を説明する際に千葉が引き合いに出すのが、詩である。それは広瀬大志の「蜜の乾くような訪れ」(広瀬大志『広瀬大志 詩集』)という比喩であり、望月遊馬の「蟻たちは、ひとつひとつの供述だった」(望月遊馬『焼け跡』)という修辞である。ここでは間違いなく言葉たちは壊れ、「不透明に物質性を発揮する異物」となり、「言語それ自体」であることを余儀なくされる。
すなわち詩において言葉は、それの指示する対象を正しく伝えるための道具として行使されているのではなく、辞書的な用途目的から解放されたがらくたへと変身を遂げる。「言葉はさまざまに別の意味で「使い直す」ことができ」るのであり、それは言葉の「用法=意味の根本的な変更可能性を示している」。ここで言葉はあらゆるリサイクル可能性に満ちたがらくたとして浮遊している。
2.非表明的な道具連関の破損
千葉のこのような言語観の下敷きには、マルティン・ハイデガーの思想があると思われる。ハイデガーは日常的現存在が世界内存在として日常に在る場合には、道具的存在者との交渉が隠蔽されている、と述べている。つまり私たちは道具的存在者を、その道具使用において意識することはない。なぜなら、私たちが道具的存在者を意識し始めるときは、それらの役割を果たすことが妨げられるときに他ならないからである。かなり長くなるが、ハイデガーの道具的存在者に関する記述を引用する。
最も身近に道具的に存在している存在者は、利用不可能なものとして、その特定の利用にはあつらえむきでないものとして、配慮的な気遣いのうちで遭遇されることがある。仕事の道具が損傷していたり、原料が不適当であったりすることがわかるような場合が、それである。そのさい道具はいずれにしても道具的に存在してはいる。しかし、利用不可能だと暴露されるのは、あれこれの固有性を眺めやりつつ確証するからではなく、使用しつつある交渉の配視によるのである。利用不可能だとそのように暴露されるとき、道具は目立ってくる。道具的に存在している道具が目立つようになるのは、或る種の非道具的存在性においてなのである。だが、この非道具的存在性ということのうちには、使用不可能なものがそこにあるだけだということがひそんでいる——、この使用不可能なものは道具事物としておのれを示すのであって、そうした道具事物は、これこれしかじかの外見を呈してはいるのだが、おのれの道具的存在性においては、そのような外見を呈するものでありながら、たえず事物的にも存在していたものなのである。
これまた、梵の句の鑑賞としてそのまま通用する文章であろう。洗濯機の喩えを増殖させることになるだけかもしれないが、たとえば、テレビやラジオや電話から人の声や言葉を聴くとき、それが何らかの電気製品を通じて耳に届く音だということを意識するのは、その音楽が変調をきたしたり、声の調子が異常であったりする場合である。このとき透明化されていた電気製品ははじめて「目立ってくる」。つまり、私たちはこのような非表明的な道具連関の内に在るのである。したがって、この非表明的な道具連関が表明化されるような場合には、何らかの仕方でこの連関が破られねばならない。言葉についていえば、私たちが言葉を日常において不透明なものとして受け止めるのは、それが通じない相手(赤子や外国語話者)と相対したときである。
ここでハイデガーが道具的存在者の「外見」に言及していることは興味深い。これは梵の句における「醜き」という主観的判断の解釈の手がかりとなる。扇風機は、回っていても止まっていても、たえずその「外見」を露呈しているわけだが、それはやはり日常的で非表明的な道具連関の内では隠蔽されている。この非表明的な道具連関が破られたとき扇風機の「外見」は「目立ってくる」のであり、だからこそ扇風機が「止」まることではじめて扇風機の〈美醜〉の判断が、主体のなかで立ち上がってくるのである。
2.5. 〈オブジェ性〉について
また、私たちはここで、二十世紀の美術史において最も重要な作品のひとつであるマルセル・デュシャンの《泉》を想起することができる。あの作品こそまさに、〈R.Mutt〉という署名および画廊という〈場〉によって本来の用途目的から逸脱させられた小便器の、オブジェとしての醜さ・不気味さを暴き立てている。現代美術の出発点とも見做されるこの作品が、オブジェを志向していることは非常に重要であろう。梵の詠む扇風機と、千葉の云う洗濯機と、デュシャンが提示した小便器は、間違いなく〈オブジェ性〉というタームによってつながっている。
3.破調する〈定型〉
扇風機も洗濯機も小便器も言葉も、道具としての用法だけに注目していれば、 それらは無媒介的に透明化され、私たちの関心を惹くことはない。だが、ひとたびそれらが破損し、用途目的に沿わなくなれば、オブジェとして突如立ちはだかり始め、私たちは不気味に思ったり醜く感じたりする。これは今まで見てきたとおりだ。 だが、梵は掲句において、さらにもうひとつの道具をがらくたへと解放しようとしている。その道具とは〈定型〉である。 掲句も含めた梵の多くの句は、定型に沿ったかたちで進行し、その完結の寸前で破綻する。
灯ともせば闇はただよふ寒さとなれり
水底にあるわが影に潜りちかづく
肩の汐ぬくくつたはり中指より落つ
東京の中よりくらくさむき東京現れたり
岡田一美氏も同書の巻末に収められている「実存と思想——篠原梵論」のなかで、梵の句のリズムの特徴として「下五の字余り」を挙げている。はじめから破調するのでもなく、かといってさいごまで〈定型〉を遵守するわけでもなく、途中から〈定型〉を逸脱することで、より一層〈定型〉の存在は読者に意識される。機能しているあいだは透明化されていた〈定型〉が突如として不気味に立ちはだかり始める。皮肉にも、道具は壊れることではじめて、それ自身として存在することができるのである。
もちろん、これらの秀句の破調には必然性がある。「中指より落つ」の字余りはゆっくりと粘っこく肩を伝わる汐に呼応するし、四句目は定型の破れ目から突如「くらくさむき東京」が立ち現れるような印象に寄与している。
或る道具が利用不可能であるということ——このことのうちにひそんでいるのは、その道具の手段性を或る一定の用途性へと向ける構成的指示が妨げられているということ、このことである。もろもろの指示自身は考察されていないのであって、むしろそれらの諸指示は、配慮的に気遣いつつそれらの諸指示にしたがうとき、そのことのうちに「現にそこに」存在しているのである。だが、指示が妨げられるときに——何々にとって利用不可能となるときに、指示は表立ってくる。
〈定型〉を一種の道具であると捉えるならば、このとき〈定型〉は一体誰にとって利用不可能となるのか。それは読者にとって、である。
読者と読者が内面化している〈定型〉——句作や鑑賞のうえでなんの疑いもなく利用している五七五という器——とがとり結んでいる非表明的な道具連関は、「下五の字余り」によって破られる。そして、むしろそのことによって五七五という〈定型〉の「指示は表立ってくる」。〈定型〉は道具からがらくたへと解放されていく。
4.オブジェ化する〈言葉〉
江藤淳によれば、正岡子規は言葉を「透明な記号」とすることに拘泥し、そのような透明な記号を駆使して写生することで、ただのモノへと至ろうとした。
「写生」の客観性という概念は、無限に自然科学の客観性に近づく。極言すれば、子規の意識のなかでは、「夕顔の花」は「夕顔の花」という言葉ではなくて、「其花の形状等目前に見る」印象の集合でありさえすればよい。ここでは言葉は言葉としての自立性を剥奪されて、無限に一種透明な記号に近づくことになるからである。
ここに今までの議論を接続したとき、江藤の云っている「言葉としての自立性を剥奪され」た「透明な記号」とは、道具としての用法だけを意識されていた扇風機や洗濯機とパラレルな関係に在る。そこにあるにも拘わらず、それは意識のなかで後退し、透明化される。客観的が英語でobjectiveとあらわされる以上、写生が言葉を透明な記号とすることでモノ自体(object )へと至ろうとするのは至極当然なように思われる。
だが、千葉が「言語の不透明性」を強調しているように、言葉が完全なる「透明な記号」たりうることはどうしたってありえない。現代においてモノ自体へ至ろうとするならば、写真や映像の方がよっぽど実践的に思われる。
ここで、もう一度掲句へと立ち戻ってみよう。この句では〈醜き〉という主観的判断がやはり問題になる。扇風機を写生しようとしているというよりも、扇風機あるいはこの一句自体がひとつのアレゴリーと化して、詩や言語の特性を暗示している、というのが私の読みの要約だ。止まった扇風機≒破調した定型は、身の回りに溢れ返っている道具の存在を私たちに思い出させ、世界の見方を一変させる。云うなれば、ここでは言葉が「透明な記号」とされそれを媒介にオブジェへと至るのではなく、言葉自体が破損させられることでオブジェ化している。千葉風に云い換えるなら、言葉は意味を伝えるという役割からアウトして、ただそこに孤独に居座っている。
これはただただ私個人の信仰の話かもしれないが、詩とは、すでにその語が背負わされているイメージや役割を転覆するところに立ち上がると思っている。むしろそれらを強化する方向に働く言葉たちは、簡単に資本主義へ加担してしまう。醜いことや不気味なことを、すぐに悪いことへと接続してはいけない。それらは、道具として等閑視されてきた彼らによる氾濫であり反乱だ。私は、私たちの意識において非表明化されているさまざまな存在——扇風機や言葉や定型や人間——による反乱を支持する。
5.付記
読んでいただいてありがとうございます。タイトルにも用いている「がらくた」という言葉選びは、執筆当時に公開された米津玄師の楽曲「がらくた」に由来しています。学生祭の原稿では、このあとに映画『ラストマイル』の話とかも少ししていたのですが、あまりにも句の鑑賞からは離れていくのでカットしました。
ただ、今でも考えは変わっておらず、本稿で取り出した「道具は壊れることではじめて本来の存在感を発揮できる」という主題は、人間にも云えることだと思っています(ハイデガーの専門家からすれば、道具的存在の記述を現存在に適用するのはナンセンスでしょうが……)。現代において、完全に道具化してしまっている人間による決死の抵抗を描いた『ラストマイル』の末流として本稿は存在します。
*ヘッダー画像は、「ずっと真夜中でいいのに。」というバンドのボーカルACAねが、扇風機に穴の空いた円盤を取り付け、回転する円盤が放つ光を電気信号に変換して音を鳴らすように改造した楽器〈扇風琴〉を演奏している場面です。