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ポーランド・グダニスク(その1) <旅日記 第38回 Nov.1995>

若き日にざわついた思い出のある造船所の町

 大きくて重いバックパックは、ワルシャワにいるポーランド人青年ヤツェックのアイリッシュ・パブに預かってもらい、とても身軽になった。“国内旅行”に出掛ける感覚で、首都ワルシャワから北部のバルト海沿岸の造船所のある都市グダニスクに出掛けた。 

 わたしが新聞記者を目指す大学生だった1980年前後、共産党の一党独裁体制に対する自由化を求めた労働者の運動がこのまちにある造船所から起きた。のちに大統領になったワレサ氏が率いた「連帯」という運動だ。日々ニュースの発信源であったグダニスクは、わたしにとっては、ナチス・ドイツのワルシャワ占領下の第二次世界大戦中に起きた市民によるレジスタンス(抵抗運動)の象徴となる「ワルシャワ蜂起」と並ぶビッグな印象のある都市で、訪問したい先リストの優先順位を上げていた。

 とはいえ、駅から降り立った11月のグダニスクの街は、空も街も海も灰色で、自由化運動の象徴となった造船所はあまりにひなびていた。こんな時期にこの街を目指すものずきの旅人はそうはいるまい。

 さほど興味のそそりそうなところは他に見あたらないが、ここまで来たのだから、日本からはとても遠くて寒そうな海・バルト海に手を浸してみた。手の感触は少し冷たい程度のもので、特段なんということはなかった。しかし、バルト海、英語表記ではBaltic Sea、日本人にとっては日露戦争時のバルチック艦隊の名の由来となった海ということで、頭の中は時空を旅する。

[ポーランド・グダニスクのバルト海に来て、手を浸してみた]

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公園にいた老人が「あんたは、日本人か?」

 街なかの公園を歩いた。近くで佇んでいた老人が「あんたは日本人か」と、いきなり英語で話しかけてきた。なんだろうと不審に思ったが、「そうです」と答えた。すると、「日本人は偉い。あのロシアに戦争で勝った」としみじみ語りだした。ポーランドは被害者の国と呼ばれる。つねに東方のロシア、西のドイツに脅かされた国だ。東方の忌々しい巨大帝国に勝った国ということで敬意を表されたわけだ。

 ポーランドの話になると、いつも高校生のころの世界史の授業を思い出す。担当の先生が「いいですか、こうしてポーランドは完全に地図上から消えたのです」と声を大にし、世界史上の大事件として「ポーランド分割」と板書した。18世紀に周囲の3つの大国によってすべての領土を奪われた「ポーランド分割」の解説だ。東と西の大国にはさまれたポーランドの人々は、昔うけた仕打ちを決して忘れてはいない。

ユースホステルのチェックイン

 ユースホステルのチェックインの時間となったので、早めに行った。フロントにはすでに3人が並んでいる。ところがわたしのチェックインの順番が来るまでに45分待った。一人につき15分かかる計算だ。すでにわたしの後ろには若者たちの長蛇の列が出来ている。係の人が、ゲスト一人ひとりの個人情報を実に詳細に書き込んでいるのか、一人ひとりの受付にえらく時間がかかるのだ。

と、突然に背後から、“I have your book.”

 部屋に落ち着いて2時間ぐらいたったとき、相部屋となる男が入室してきた。列でわたしの何人か後ろに並び、わたしの肩をポンポンとたたき、「I have your book」と話しかけてきたタスマニア人(オーストラリア)だ。

*「I have your book」の話は、「旅日記」の初期に書いた次の記事を受けたものとなっていますので、マガジン「旅日記 1995」の一番最初に収録していますので併せてお読みいただけると幸いです。​https://note.com/kaiju_tsuneyuki/n/nd8533f7da2eb?magazine_key=m22691b54d1a2

「ふう~~」とため息をつきながら荷物を解き、「ほら!」とわたしの本を取り出した。わたしが、ポーランド南部の古都クラカフのユースを発つとき、読み切った本をこっそりと部屋に残してきた、その本だった。

 ポーランドを一番南から一番北に旅したわたしを追い掛けるようにその本がやって来た。日本語の本だったが、魅力的な挿絵が絵本のように豊富だったので、どこの国の人にでも親しんでもらえるだろうからだれかに手にしてもらいたいと願ってそっと置いてきた本だ。かれは、同じ部屋の二段ベッドからそれを見ていて、持ってきたのだという。なんともまあ偶然のびっくりだ。
                (1995年11月2日)

              てらこや新聞122号 2015年 06月 08日

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