vol.12 俺たち家族の介護のカタチ <藤原寿徳>
私が親の介護に初めて向き合うことになったのは、2003年の事でした。
私の地元は岩手県花巻市。
高校まではそこで暮らし、サッカーをやっていたためサッカー中心の生活を送り育ちました。2003年には鹿島アントラーズで指導者として仕事をしながらサッカー協会の仕事もしていたため、茨城と東京との行き来もしていました。
協会のミーティングがあるため東京の首都高速を車で走っていた時に、不意におふくろから着信がありました。私自身、特に父親との関係が幼少期から良くなく、社会に出てからも親と連絡をとることはあまりありませんでした。その時間に着信があるということは、普通の状況ではないことは容易に予想できました。
予想通り、おふくろからの電話は親父が脳卒中で救急車で運ばれた‥との知らせでした。内心、どう対応したらいいのか狼狽えましたが、診断の状況がわかったらまた教えて、と落ち着いたふりをして応答しました。
約1時間後にまた着信があり、医師に言われたのは脳幹付近(生命維持に重要な場所)からのくも膜下出血で、すぐ手術をしても、命は助かるが一生植物状態になる。しかし、手術をするかどうか今すぐ決断してくれ、との連絡でした。
正直、私はどうしたらいいのか頭の中が真っ白になりました。しかし、すぐに決断しなくてはならい状況です。私がおふくろに伝えたのは、「手術はしないくてもいいんじゃないか」という言葉でした。その背景には、介護をするおふくろや家族の負担のこともありましたし、もともと父親として尊敬できるものがなかったと言う家族の問題もありました。自分だったら自立して生きられないのに生かされるのは不本意ではないのか?、そんな思いもあっての言葉でした。
「俺はそう思うけれど、最後はおふくろの思いで決めて」と言い、一度電話を終えました。
約10分後、おふくろから電話がありました。
「手術をしないとは、医師に伝えられなかった...」との電話でした。この時、真っ先に思ったのは、誰がどうやって介護をするの?ということです。それまで夫婦仲も良くなく、様々な苦労をしてきたおふくろが「その決断をするのか...」と思ったことを、今でも鮮明に覚えています。
そこから10年間に渡り、遠隔地いる私、おふくろ、姉が父親の介護をする事になりました。
介護生活のはじまり
介護が始まるにあたり、病院や施設がみつかるか?お金はどれだけかかるのか?状態が安定したら病院を出なければいけないのか?家で介護をせざるをえないのか?
さまざまな不安に襲われます。
はじめは手術した病院で3ヶ月、その後リハビリの病院に3ヶ月と、次々に病院が変わりました。その度に、次に行く病院があるのか?と、また不安が襲います。
運良く最期まで看取ってくれる病院が見つかり、家族の負担は少し軽減されました。
お金の面は、障害者の第1級に認定されたため高額医療費控除が受けられ、見通しが立ちはじめます。高額医療費控除を受けて、月額約7万円の入院費が常にかかる事になりました。
少しずつ見通しが立ち始めて落ち着いた気持ちと、60歳で植物状態になった父がいつまで生き続けるのか、あてのない不安が交錯したのを覚えています。
私自身は、関東と岩手で離れていたため、病院に足を運ぶのはおふくろと姉でした。週に4度通っていたようです。おふくろは、60歳から70歳まで雨の日も雪の日も、10年間病院に通い続けました。
父は喉から直接呼吸器をつけ、さらには胃ろうも施していました。自身の唾液で誤嚥をおこし軽い肺炎になったり、呼吸が弱くなり病院から呼び出されたりという状況が何度も繰り返されました。本人の身体も、寝たきりになる前までとは想像もつかないぐらい痩せていきます。
それでも、命だけがつながれているという状態はずっと続きます。その世話をしながら、おふくろが何を思って暮らしていたのかと思いを馳せると、やるせない時期もありました。
介護を受ける本人、それをする家族だけでは、暗くなりがちな状況が何年も続きます。その中での救いは何だったのか?と今思うと、いつも明るく声をかけて下さっていた看護師さんの存在です。
「昨日はいつもより目を開けてる時間が長かったよー!」とか、「頑張って痰切りしてたねー!」「良く頑張ってるよー!」など、そのように明るく声かけしていただくことにとても癒されていました。
家族にはいろいろな形があります。家族だけでは荷が重すぎることも、オープンにして第三者からのサポートやアドバイスを受けることで、何割も楽になり前向きになれるような気がします。
父親が寝たきりになり9年後
私はコーチとして、ロンドンオリンピックに参加することになりました。
この大会期間は1ヶ月。その準備も含めると2ヶ月間は実家に戻ることはできない状況でした。
その期間、病院の看護師さん達が「この期間だけは何があっても頑張って生きないとダメだよー!!」といつも言ってくれていたそうです。本人が分かっていたかどうかは分かりませんが、その時だけ瞬きが多くなっていたそうです。
それから数ヶ月後、父親は亡くなりました。
親父と介護と以前の俺
読まれている方の中には酷いと感じる方もいるかもしれませんが、私自身は、父親が寝たきりになっても以前の父に対する感情が消えず、なかなか顔を見ることもできませんでしたし、早くこの状態が終わってほしいとさえ思っていました。この思いは、70歳で亡くなり葬式を出すことになった時も残っていました。おふくろのために葬式を出してやる、と言ったのも覚えています。
どこの地域や家族でも、介護が必要な状況になった時にそれを気軽に相談できたり、少しでも明るい方向に導いてもらえたり、サポートを受けられたり。悩んでいる家族のマインドを変化させてくれる何かがあれば、きっと救われると思います。いろんな家族のカタチがあるからこそ、個別性のあるサポートも必要だと感じます。
おふくろへ
宮崎から岩手に嫁ぎ、自分の半生以上を俺ら子どものために生きてくれたおふくろ。花巻(岩手県)で『白樺』というスナックを営み、肝っ玉ママとして生計を守り、ご飯を食べさせてくれましたね。
子どもの頃、お店が早く終わると田舎の寿司屋に家計も苦しい中連れって行ってくれましたね。その特別感が、たまらなく好きでした。本当にありがとう。
おふくろも今年で78歳。
最近では少しずつ認知症の症状も見えはじめました。たまに友人と温泉に行くぐらいで、あとは出歩くことも少なくなってきているようです。昨年、仙台であった試合を観てもらえたときは本当に嬉しかったです。
離れて暮らす距離はすぐに変わらないので、もらった愛情の半分でも、周りのサポートを受けながら返していけたらいいなと思います。
藤原 寿徳
おわりに
第1回のケアマガcafeに参加させていただいて、私の介護に対する思いに変化がありました。ケアマガの趣旨にあっているかどうか分からないですが、私の想いを文字にし伝えさせていただきたいと思います。被災地で介護支援に尽力させれている橋本さん、そして、その活動とリンクされてケアマガの担当をされている河村さんの思いに感動し、こんな自分の話しで良かったらなんでも話させてほしい、という気持ちになりました。
自分と家族のこれまでの歩みを話すことなどこれまでに一度もありませんでした。今回、このような機会をいただき嬉しく思います。