
#9 デスノート&プライドが落ちた事件
母のアルツハイマーはゆっくりゆっくり進行していく。
一週間に一度会っていれば、想定がつくという感じだ。母の場合は認知症の中核症状があるだけで、周辺症状と呼ばれる,せん妄や幻覚、徘徊や暴力などがなかったことも私に時間的な自由と心の自由を与えてくれていたと思う。新しい記憶がどんどん朧げになっていくことや、今までできていたことが徐々にできなくなっていくことがわかれば不安もなくなり、そのうちにその状況にも慣れてくる。「できないことをサポートしてくれればよい。」あのおじいさまの名言を心において淡々と毎週の実家通いが進んでいった。
要支援だった最初の二年間は、母は母なりに忘れないためのささやかな努力をしていた。
その一つは、メモすること。母の黒皮の手帳を開くと、震えるようなボールペンの筆致で有名人の名前と日にちが記されていた。その顔ぶれをみてその年に亡くなった人だということがわかる。亡くなった人のニュースは母にとって特別なのだろうか…。いつしかこの黒皮の手帳は「デスノート」と家族の間で呼ばれるようになった。天然なところのある母の周りでは、面白いなあと心底思えるようなことがちょこちょこと起こるのだ。
こんな出来事もあった。急な停電だ。一人で暮らしていると困るシーンの一つであろう。正確にはエアコンと電子レンジと電気ケトルの同時稼働でブレーカーが落ちただけなのだが、母にはどうしたら復旧できるのかがわからない。とはいえ、電気がつかなくなると非常に困ったことになる。母はどうしたのかというと、お隣の家に行き助けを求めたのだ。この行動はあっぱれなのだが、その説明が非常に難解なのだ。母の表現をそのまま引用してみる。
「プライドが落ちちゃってね、真っ暗になっちゃったの」
お分かりだろうか。英語はもちろんカタカナ言葉が苦手な母は、ブレーカーという言葉が思い出せず、あろうことプライドという名詞をあてがったのだ。真っ暗になり、なりふり構わずお隣さんのお宅に助けを求める様子はプライドをなくした様とも言える。なんという絶妙な間違いなのだろう。
「お母さんプライドは落ちているかもしれないけど、落ちたのはブレーカーだよ。」と言うと、本人はケラケラと大笑いになる。なんと平和なことか。
<おまけ画像>
母の黒皮の手帳の一部です。世界三代珍味をメモしたようです。
フォワグラ、キャビア、トリュフが正解ですが、珍回答です。笑
