お前の親父は死んで時代を変えた。それくらいの男になってから、死ぬも生きるも好きにしやがれ
「ジジイ‥おれは‥生まれてきても良かったのかな‥。」
『ONEPIECE』エースの言葉です。
たった8年。
それが、豊臣秀吉が、天下統一を果たすまでに要した年月です。
1582年「本能寺の変」で織田信長が死んだと同時に、織田帝国は瓦解します。
この時、秀吉は、中国地方において、毛利と戦っていました。
しかし、信長の死を知ると同時に、主君の死を秘匿して毛利と和睦を結び、急旋回して主君の仇である明智光秀がいる京都に向かいます。
これが「中国大返し」です。
秀吉が光秀を倒したのは、信長の死から、僅か11日後の事でした。
これにより、秀吉が信長の後継者となりうる事を、日本中に知らしめる事に、成功しました。
これに納得がいかないのは、織田家を秀吉が現れる以前から支えてきた信長の家臣達です。
しかし、自分が生き残る為にも秀吉を推す家臣も多く、秀吉と戦う道を選んだのは、柴田勝家のみでした。
そんな勝家の正室が、信長の妹であるお市でした。
お市の人生、否、お市の血こそが、戦国時代そのものであると、私は、感じています。
戦国一の美女とも称されるお市は、那古屋城で生まれます。
信長の政略結婚で、浅井長政に嫁いだお市でしたが、愛し愛された「おしどり夫婦」であったとされています。
長政との間に、茶々・初・江、浅井三姉妹の子宝に恵まれます。
家族皆で幸福な時間を送るお市でしたが、時代が、お市の幸福な時間を続ける事を許しませんでした。
長政は、信長を裏切り朝倉と同盟を組んでしまいます。
戦は長期間に及びますが「姉川の戦い」にて長政は敗れ、自害します。
長政とともに自害すると希望するお市でしたが、長政に拒否され、泣く泣く三姉妹を連れて、城を脱出します。
信長の死後、お市は、これまた政略結婚として、勝家の正室となります。
「福井城」は、戦国時代は「北之圧城」という名で、勝家の居城でした。
勝家は、信長の死後、秀吉と対立します。
秀吉に圧倒された勝家の居城「北之圧城」は、包囲されます。
天守は炎上し、勝家は自害。
今度は、お市も、子どもだけを逃がし、主君と運命をともにします。
福井の城下町では、毎年4月24日(旧暦)は、夜に家を出る事がタブーとされていました。
4月24日は、勝家がお市とともに亡くなり「北之圧城」が落城した日です。
4月24日の夜に、勝家ら首がない武者行列が「足羽川」にかかる「九十九橋」から「北之圧城」に向かうと語り継がれていました。
そして、この行列をみた人は、必ず謎の死を遂げるとされていました。
その為、福井城下町に住む人達は、4月24日を「柴田忌」として、夜の外出を禁忌にしました。
戦国時代に翻弄されたお市の人生は「賤ヶ岳の戦い」にて終わりを迎えますが、そのDNAは、その後も戦国時代を動かします。
光秀・勝家を倒し、天下統一を果たした秀吉ですが、そんな天下人にも、得る事が出来なかったものがあります。
それが、子どもです。
秀吉は、数十年に及び子宝に恵まれなかったのです。
そんな秀吉の子を授かったのが、お市の娘・茶々です。
母の仇である男の子を授かった事は、茶々の復讐であったのか否かは不明ですが、ここにも戦国時代の物語が隠されています。
最初の子は病死してしまいますが、また茶々は秀吉との子を授かり、その子どもが後の豊臣秀頼です。
秀吉が亡くなり、時代は徳川家康のものになっていきます。
それでも、豊臣家臣を始め、秀頼が成人したら、天下は豊臣のものになると信じていた人が一定数存在しました。
「関ケ原の戦い」にて、天下統一を果たしたかに見えた家康の唯一の気掛かりは、秀頼の存在でした。
ここから、気の良い人物であった家康は「たぬき親父」となります。
言いがかりにより、豊臣を攻める口実とし「大阪の陣」が行われます。
若き秀頼以上に「大阪の陣」にて決定権を持っていたのが、茶々(淀殿)でした。
「大阪の陣」で敗れた豊臣は、秀頼・茶々ともに燃える大阪城の中で、自害をします。
ここに、戦国の世は終結します。
このように、戦国時代を振り返ると、その中心には、お市とその血があった事が窺い知れます。
「鬼の血」を引く者達の物語。
戦国時代をこのように捉えてみると、違った物語を知る事が出来ます。
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