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できるだけ多くの海事人材を世に送り出す(その9)40歳の転機


ホームページの開設

少し時を遡ろう。
実は、大学への進学の前に結婚することとなった。
このため、無職では相手の親にということで、従兄が務めていた海事系のコンサルタント会社に籍を置かせてもらうこととなった。大学卒業後は、その会社に勤務した。
30代になり、「船乗りさんの休暇村」というホームページを立ち上げた。
その目的は、船の仕事を色んな人に知ってもらいたかったこと、そして、船乗りさんの交流の場が出来ないかという漠然とした願いからだった。
今では、携帯電話でインターネットが見れて、無料のSNSも簡単に使える世の中になったが、その当時は、ようやく一般の人が携帯電話を持ち始めた頃であった(この頃、私は携帯電話も持っていなかった)。
デジタルカメラは、ようやく100万画素を超えるものが最新で、主に船乗り時代に撮った写真をスキャナーで読み込み、ホームページ上に掲載していた。
しかし、船乗り時代に撮影した写真もそれほど多くなく、良い写真もなく、直ぐにネタが尽きてしまった。
今のように携帯電話で写真が撮れる時代だったら、船乗りの時に珍しい写真をもっとたくさん撮っていたと思うが、船員時代は、一眼レフカメラ(フィルム式)を使用していたので、仕事の合間に気軽に撮影が出来なかった。
さて、そんな感じで、ネタも尽き、中々アクセス数も増えず、その後、仕事の都合で横浜に引っ越し、仕事が忙しくなる中で、港や船の写真を時々掲載していたが、結局続かず、5年ほどでやめてしまった。
ただ、今考えてみると、その頃の自分には、船を知らない人達に、船の仕事がどのような仕事なのか、うまく説明できる能力が無かったこともある。
また、ちゃんとしたサイト設計も行わず、ホームページを立ち上げてしまったということも続かなかった一つの原因ではないかと反省している。

親の苦労(海事団体との出会い)

30代後半になり、所属する海事コンサルト会社が内航海運の船舶管理に関する団体の事務局の仕事を受けることになった。
ちょうど、会社が東京に事務所を開設し、そこの責任者であった私がその業務を受けることとなった。
そのことで、伯父や父達が働いていた内航海運の実情、特に船員不足の現状を知ることとなった。
その頃、会社の業務のほとんどが海事系以外の仕事となっていた。
元船乗りの私としては、そこでの様々な出会いにより、海事のために何かしたいという思いが高まることとなった。

内航タンカーの船長に言われた一言

団体の仕事で、とある内航タンカー(499総㌧クラス)にインタビューに行った。
その船には、私より若い船長さんが乗船しており、乗船し、まずは、船長さんに名刺をお渡しした。
お渡しした名刺には、私の海事関係の資格が書かれており、それを見て、船長は言った。
「へー三級海技士(航海)持っているんですね。もったいないですねー。使わんのなら貸してくださいよ(笑)。」
ありがちな言葉なのだが、船長の「海技免状がもったいない」という何気ないその言葉が、妙に私の心に響いた。
この出来事によって、今までの経験を生かして、資格が無駄にならないように、海運業界のために何かできないだろうかと思い始めた。

新たな資格制度設立のお手伝い

次の年、これも団体の仕事であるが、資格制度に関する資料作りの業務を行った。
六級海技士(航海)の資格が民間の船員養成施設において短期で取得できるという省令改正の必要な新しい制度作りであった。
その後、その制度が導入され、制度により新設された養成コースの第1期生の修了式が行われることとなり、私もその場に立ち会うこととなった。
修了式の最後に、9名の修了生が1人ひとり感想を述べた。
一人の修了生がこう言った「この制度を作ってくれた方に感謝します」と。
その若者は、私が、その制度作りの手伝いをしたことなど知らず、普通に修了式で発した言葉だった。
修了式に立ち会った私としては、その場で涙が出そうになった。
その時、思ったのが、「彼らのような人達のために、何かがしたい」ということだった。
その思いは、「出来るだけ多くの海事人材を世に送り出したい」という目標に変わった。
その頃、私は子会社の社長をしており全財産を投じたもののうまくいっていなかった。正直、経営者には向いていなかった。
親会社の社長を超えることが出来ないと思うような出来事もあり、同じ月には所属する会社を去ることを決め、翌月末には会社を去った。
40歳になって直ぐの春であった。
人生80年と考え、折り返しの人生をどのように生きるか考えた上での決断であった。

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海技塾 塾長
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