人生の残り時間を考えたら「一生もの」なんて簡単に手に入りますよ。せいぜい30年動けばいいんですよ。
自分の寿命は有限だと知ってからは
「お爺さんの時計」
になるものが欲しくなるんですよね。
お父さんの家電はもう加水分解していて、
自分たちのガジェットは2年ごとに無価値になり、
子供たちの持ち物は電子情報だけになるかもしれない。
それが解ってるから、百年休まずに動くようなものにあこがれるんです。
規格やソフトウェア、バッテリや周辺機器の終了といった、本質とは関係ないところでモノのいのちが奪われるのはもう見たくないんですよ。
機械式信仰、修理すればいつまでも使えますみたいな永遠性は価値が高い。中年おじさんのハマる時計・車・バイクはそのあたりの欲望にぴったりはまります。
もちろん、実際にはそれらもほとんどが規格部品で出来ていたりするわけですが、まあ少なくとも幻想としての永遠性をエンターテインできます。
その後、本当の永遠を求めて陶磁器、刀剣、彫刻までいくとだいぶ重症ですね。
どんなに費用対効果が低かったとしても辛うじて「道具」として使用することができたものから、いよいよ蒐集と鑑賞だけが目的に完全にシフト。それは無駄ですか?いやいや。
それらは本と同じでそこから発せられる無限の情報にこそ価値があるのです。喜んでお金を払いましょう。
最後に物欲を解脱し蕎麦打ちとやコーヒー、絵画、書道を始めるようになる。
自分で何かを作るようになったら完全に終わりです。
終わりというのは、人生の残り時間ではもうなにも極めることはできないと知ってしまうからですね。
10代20代からやりつづけていた人たちの足元にも及ばないと知ることができる。
死ぬまで成長し続けるといえば聞こえは良いですが、それはお金をもらって教える側のセールストークであって、基本的には自分には何もない、自分は何も持っていないという事実と向き合いながら晩年を過ごす事になります。
この世に何も残せなかった、長い人生をかけて、結局自分は何をしていたのだろうという後悔のなか旅立っていく事になります。
あの時ああすればよかったこうすればよかった、あれをやっておけば、あそこに行っていれば、もっと早く気付いていれば……
断捨離などと言って簡単に捨てたもの達も、二度と手に入らない貴重なものだったと知る事になります。
市場価値など問題ではありません。人生を生きてきた記録だったということ。
それを買った時、それを使ったときの記憶、それを買うために費やした労働の価値。
すべて棄ててしまった。
最後に傍らにあるのは、わずかばかりの金と、非現実空間に残された電子情報。
何十年も生きてきて最後に残るのが、そんなもので良かったんですかね。
まあ、もう何をする時間もないわけですが。
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人生の残り時間を考えたら「一生もの」なんて簡単に手に入りますよ。せいぜい30年動けばいいんです。
永遠を求めるのはやめて、今を楽しみましょう。
おじいさんの時計だって、いまはもう動かないのです。
おしまい。