【短編】左打ちの彼女。
彼女は僕を苗字で呼んだ。
誰だろう。
肩まで伸ばした髪。細い目。
見覚えがあるような気もするし、無いような気もする。
ただ、ここには見覚えの無い人間は現れないはず。
という事はどこかで会ってはいるが、忘れてしまっただけだろう。
豚の子供を抱えている。
床に降ろされたそれは直ぐに歩き出した。
部屋の四隅やテーブルの下、僕の足。一通り匂いを嗅ぎまわったあと、安心したのか部屋の中央に戻り、向かい合った僕達の目の前で猫のようにごろりと寝転がったあと、震えながらゆっくりと糞をした。
僕は昔犬を飼っていたし、1歳半位までは子供を育てていた経験もあるので特に抵抗無くそれを処理する。
大丈夫そうだね。
なにがだろう
これからこの子を連れていくよ。
どこへだろう
ーー
エレベータガールに屋上と告げる。
結局全てのフロアに停止した為、TVのチャンネルが切り替わるように世界と人の種類は階層によって次々と変わる。そして入れ替わっていく。
現実の世界もそうだし、この頭の中もそうなのだと思う。
たっぷりと時間を掛けて十数個の世界とその住人を観察したあと、ようやく僕らは空の下に出た。
乗り物。屋上にこんなものがあるということは昭和50年代後半から平成初期だろう。このデパートがとうの昔に廃業していることも、建物自体が数年前に取り壊されている事も僕は知っている。そこには新しいビルが建設中だ。
ただ、もしかすると彼女はまだ知らないのかも知れない。
50円玉を入れて動くパンダ。100円では無いのは良心的だ。
耳や肩の塗装は剥げ、FRPの地肌が出始めている。
メロディペットという名前が有る事を知ったのは、これを見かけなくなって随分経ってからだが、間違いなくこれからもその名で呼ぶことは無いだろう。
遠くには狭い軌道の上を機関車が子供達を載せてゆっくりと走っている。
意外にも小さなボイラを使う本物の蒸気機関車のようだ。煙を吐いている。ただ、僕はいまだかつてこの世界で匂いを感じたことは無い。
彼女は豚を抱えたまま、楽しげな表情ひとつせずそれらを眺めて歩いていった。
僕はその後をついて回るだけだ。
なぜだろう。
ーー
猥雑な街。下北沢か。いやここは高田馬場のようだ。
通りを渡った先にはかつて通ったカレー屋が在るはず。
ただ、この世界にも在るかどうかは分からない。
人混みのなかを縫うように歩く。
彼女とはぐれないように。
高田馬場にしては人が多い。これでは新宿か池袋だ。
もう東京を離れてからずいぶん経つから、僕の記憶も劣化が進んでいるのだろう。
本当はここは高田馬場 だ け では無いのだな、と気づく。
ーー
焼肉屋というものに行かなくなって久しい。
学生の時分は幾度かそこで飲み食いしたものだが、年齢を重ねるにつれ足が遠のいていった。
別に食が細くなったとも思わないし、スーツに臭いがついてしまうということ以外に特別なデメリットがある訳でもない。そもそもそんなのはクリーニングに出すタイミングを合わせればいいだけだ。
肉が嫌いになったわけでもないし、自分で焼くのが面倒などと気取りたいわけでもない。
なんとなく、焼肉屋に行くことが贅沢という概念が自分の中には育たなかった。
叙々苑をごちそうになるというワードも概念や会話のクリシェとしては理解できても、僕にとっては特別な響きを持たなかった。
そうなってしまったのだ。
だから、この空間はかなり懐かしい体験だ。
多分この壁も床も天井も、もう本当の焼肉屋の記憶では無いのかも知れないけれど、楽しかった頃の記憶と同じ場所に保存されていたのだろう。
そのとき、店内が俄かに騒がしくなった。
6名程の学生グループが店員と揉めている。
どうやら無銭飲食で逃走を企てたらしい。
店員と揉みあいを続ける少年達。
立ち上がり、また転がり。
僕らの席の近くに雪崩れてきた。
手の届く位の距離だ。
未開封の一升瓶は1.8kg以上ある。
僕はそれを彼の頭へ振り下ろした。
瓶は割れなかった。
卵と同じく、丸く強い断面形状は衝撃を逃がすことなく頭蓋骨に伝えただろう。
死んだかもしれない。
二人目、店員ともみ合う少年の真正面から腹を強く蹴った。
うつ伏せにうずくまる彼の肩を掴んで仰向けに引き起こし、出来るだけさっきと同じところを狙い改めて踏んだ。
これは死なないだろうという確信があった。
昔、夢の中で走ったり人を殴ったり出来なかった記憶が有る。
水中かゼリーの中にいるように自由に動けなくなっていた筈だ。
この変化は何だろう。
いつからだろう。
思い出せないが。
三人目、こちらの騒ぎに気づいて向かってきた少年の横顔に一升瓶を振りぬいた。
やはり割れなかったが柔らかい感触があった。
左の頬骨が砕けたのだと解った。
壁にもたれかかるように彼は倒れた。
これも、もしかしたら死んだかもしれない。
女性店員が泣いていた。
大学に行きたくても行けなくて、就職先も無く、こんな焼肉屋でバイトしながらもう何年もフリーターをしている。
なんでこんな目にあわなければならないのか、と彼女は言う。
僕は彼女の近くにしゃがみ、騒がせてしまい申し訳ないと謝る。
このお店は美味しかった。あなたのような店員が頑張って親切にしてくれるおかげです。
今はつらい。苦労をなさっている。
この街で生きていくのは大変な事です。知っています。
例え理想に近づけなくても一人でこれまで頑張ってこれたあなたは立派です。逃げ出した僕なんかよりもずっと。
胸の中にしまっておくのはとてもつらいことでした。
話してくれてありがとう。
心にも無いことを言う。
だが彼女の表情は和らいだような気がした。
池袋の明治通りを北に歩いて最後のビックカメラの裏通りの地下に有るお店でいつも賑やかな人間が集まっています。
今夜、僕もそこで待っていますから仕事が終わったら顔を出してみてください。
あなたの話を沢山聞かせて欲しいです。
そういって僕は彼女の両手をとり、ゆっくりと一升瓶を握らせた。
左側の壁では三人目の少年が顔を押さえながら立ち上がろうとしている。
死んでいなかったようだ。良かった。
まだ泣いている彼女は立ち上がり少しさがったあと
肩を引いてから勢いよく少年の顔に一升瓶を叩き込んだ。
どうやら彼女は左打ちらしい。
飛び散るガラス。
大きな音。
破片。
そして血。もしくは中身。
たぶんではなく、確実に死んだと思う。
豚を連れた女はいつの間にか居なくなっていた。
去ったのではなく、舞台から消えていた。
今夜の面白そうな予定が出来たので、ある友人に連絡するかどうか迷ったが、やめた。
どうせ来るのは分かっているからだ。
酒と血となにかで濡れたワイシャツを着替えに帰るか、面白いからこのまま店に行くか考えていたら、目が醒めた。
今はまだ朝の3時半。
もう一度寝て続きが見たいが、多分無理だろう。
あの世界は揮発性が高い。