TVを通して世界を見る人のネバーネバーランド
中学生の頃、運動会に関する集まりで
当日流す音楽をクラス全員で決めるということがあった。
その時、いくつかの候補の中でリンダリンダがあったのだけど
僕はその曲は知らないと言ったらクラス中から
「ブルーハーツを知らない人間がいるわけがない」
「嘘をついている」
「知らないと言ってカッコつけている」
などと言われた。
その場はうまく切り抜けたが、その時のやるせなさは後年まで
深い傷を残した。
インターネットが身近に無かった時代、あの世界ではTVこそが神で子供達はその信者だったから、あれは異端狩りの宗教裁判だったわけだ。
そう気づいてから、なるほど殺されなかっただけましだったなと思うようにした。
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ある時期から、クラスの男の子たちが急に松本人志みたいな口調になった。ほとんど全員だ。
ぶつ切りでボケてみたり。急に大声で叫んだりして、相手が笑うのを待つ。パターンを知っている者たちは、面白かろうが面白くなかろうが、笑う。
その伝染ぶりはさながら芋を海水で洗う猿の逸話だ。
彼らはいつしかタカさんになり、岡村になったり、仲居君になっていったりした。
僕の家では子供が見ることを許されたテレビは実質一台しかなかったので兄弟に視聴権を奪われないよう監視するため、自分の趣味ではない番組なども一緒に見る機会があった。
そして知った。
なるほど、みんなはこの人達の真似をしていたのか。
高校でも大学でも、その後の人生でも。
いつしか皆、お笑い芸人達の口調を遣い、変なノリ、定型文での返し、固定されたワード。飲み会ではコールが飛び交い、天然ボケを演じ、無茶ぶりをしあい、わざとらしい半ギレで応えたりしていた。
そんなクリシェ。
会社員になった20代。付き合う人たちの種類が決まってくるにつれ、そういう人間の数は減っていった。
だが大変驚くべき事に、こんな存在は同世代からせいぜい上下10歳くらいだろうと思っていたのに、自分の親くらいの世代の人たちにもいちいち単語の語尾を上げて疑問形にしてみたり、文章の組み立て方がワイドショーのスタイルそのままだったりする人間がいる。昔ならみのもんた、今ならさしずめ坂上忍。
家に若い子供がいるとうつってしまうのだろうか。
それともやはり彼らの中では未だにTVこそが神で、それを通して世界を眺める信者であり続けているのだろうか。
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かつて、ある種の言葉遣いが遊女の出自を隠していたように
何も持たない人達にとっては、画面の向こうにいる
”何かを持っている人”の話し方を真似することで自分が一定のレベルまで引き上げられたように錯覚する、もしくは相手を錯覚させようとしているのではないかと考えた。
自分の無力を秘匿する仮面。
表層にあるものだけを真似て、その元となるはずの知識と経験のない
裏打ちの無いアウトプット。
彼らのように振る舞い、根拠も論理も信念もないまま、物事を批判し、上位の存在だと思わせようとする。
(だから皆「逆に」と「むしろ」を多用する)
本当に現実の世の中もあのようにできていると思っていて、その中の人々のように振舞うこと以外に生き方があることを知らないのかもしれない。
それとも僕が知らないだけで、そんな生き方が有効に作用する状況がもしかしたらどこかにあって、彼らはそこの住人なのだろうか。
数少ない他者であるはずの家族も一緒に同じものを見ているとしたら
変化、外乱もなく、その世界観が強化されてゆく。
だとしたら、彼らは偽ってすらいない事になる。
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本や映画よりも時間がかからず、未知でマイナで特殊な世界に触れ合える
もっとも簡単な手段のはずだったネットの世界。
もはや雑誌の広告ページ以下の存在価値にまで堕ちたInstagram。
せっかく時間と場所と組織という制限から解き放たれたはずの動画サイトというプラットフォーム。
ニコ動やLiveLeak、Ogrish.comみたいな特殊な存在は求められず
名実ともにみんなのブラウン管(your tube)となったyoutubeではかつてのバラエティ番組と同じような「普通」の出来事が繰り返され、おなじみの芸能人が流入し、広告の量と指向性は高まり、メインの視聴者層が家に居るであろう時間帯(ゴールデンタイム)に一斉に更新するという所謂TV的なコンテンツ形式に収斂しつつある。
結局、人が求めるものは変わらないことと広告塔としてのメディアの在り方はどんな形態であれ最終的に同じところに落ち着くということが分かった。
興味深い実験だったと思う。
お茶の間が手の中に変わっただけだ。
これらのメインターゲットである子供たち。僕らと同じように当然それらを真似して、卒業し、そして卒業できなかった人たちが20年後、youtuberっぽい話し方をする痛い大人として世の中に一定数存在する事になるだろう。
あこがれの世界に、未来を固定することにした大人。
いや、もしかしたらどこかにそういう人たちが安心して自分らしく暮らせる
ネバーネバーランドがあるのかもしれない。
そう思いたい。
メディアという宗教。
それが死後の世界だったらどんなによかったか。
残念ながら僕はその教義を信じてはいない。