【短編】真夜中のマスタング
あと数分で青いアーチをくぐることになる。
雨の中、緩やかな坂道をだらだらと登らされた428は湿度のせいもあってここ30kmほどずっと不機嫌だったが、この先でようやく平坦なドライ路面を掴めることを思い出したのか、すこし前から再び美しい吸気音と荒々しい機械音を響かせながら毎分3万5千Lもの空気をがぶ飲みしている。
フロントガラスと屋根に叩きつけられた雨はそれに対抗するように、もしくは無言の僕等を寂しくさせないよう気を遣ってくれているのか車内に大量のホワイトノイズを撒き散らしてから薄く引き伸ばされては消えていく。
”日本中どこへでも明日の朝までにお連れします”
彼を乗せて池袋を出たのは25時。
始発の新幹線か夜行バスでも使えば良いのに思ったが、そう出来ない理由があるらしい。
300km。大した距離じゃない。
雨音が止む。
トンネルに入った。路面の感覚が変わる。
温度差、ドライ、滑るか。
1速落とすか迷ったが、このまま行ってもらうことにしよう。
ベンチュリの顔色を伺いながらこっそりと踏み増す。
トップのまま加速を要求され、一瞬の息継ぎで強い不快感を表明した428はそれに対する仕返しのように時間差で二人の身体を強くシートに押し付けた。
2分間のスプリント。
5,000回転を超えてV8はさらに歌声を揃え始める。
遠くに見えたテールランプが走行車線のものであると確認すると左の肘のすぐ脇を通り過ぎていく。
このまま抜けるまでクリアになった。
汚れた空気で申し訳ないが、存分に呼吸してもらって構わない。
6500、6600。
水温計が時計の分針ほどにゆっくりと上を目指しはじめたのがわかった。
7000。
ここ迄にしておこう。
流れるランプが2本の線になりかけた頃、そっと力を抜く。
コブラの心臓は誰かが休ませてあげないと、自分が壊れるその瞬間まで喜んで歌い続ける事を僕は知っている。
6000。
50歳の老馬にこんな仕事を手伝わせておいて何だが、これからも長生きして欲しい。
それに長いトンネルを抜けた先はすぐに強く左に曲がり、そこは補修されたとはいえ地震の爪あとがまだ残っていて、時代遅れのリジッドアクスルの片輪だけに仕事をさせるわけにはいかない。
拗ねた反対側のスプリングが車体を蹴り上げてくる前にセンタラインをすこしだけまたいでおく。
楽しい時間を邪魔して済まない。
閉じられたスロットルバルブは息を止め今度は後輪をやさしく抱き締め始めた。次第に強く。
減速。下りながら左へ。やわらかくパンプ。
一瞬ハンドルを握る力を弱め、前輪は好きなほうへ向かせてあげよう。アクセル。バランスは崩れない。
ホテルと街の明かりが賑やかだった時代に思いを馳せる。
眩しくはない夜景がゆっくりと右へ、そして左へ。
ようこそ 新潟県へ。
ヘッドランプの光が霧雨の中に真っ直ぐな線を伸ばしている。
ここからはしばらく下りになる。
それを利用してさらに速度を乗せるか、燃料を節約するか迷うところだが
トンネルでの罪滅ぼしにもう少しだけ踏んであげることにした。
残り150km。
一時間もあればつくだろうか。
それまでに、なぜ急いでいるのか話してくれてもいいし
話したくなければそれでもいい。
真夜中のマスタング
日本海へ向けて北上中だ。