映画『アボカドの固さ』を見た
何年か後にさ、汚すぎずオシャレでもない中途半端な居酒屋で
「悔しいんだよねわたしはさ。自分がどう頑張ってももうどうしようもなく営業してるサラリーマンなんだなって思ってさ。こういうエモい、みたいな言葉で括られちゃいがちな映画とか人をたまに見たりするとさ、自分があまりにもその世界と乖離してるところで息をしていることに気がついてさ。学生時代は好きで憧れて、自分も吸収したりしてたのにね、もう戻れないんだなとか思って悔しくなるんだよね。ねえ、わかる?」
なんて言ってる自分が想像ついてしまうようなテンションの映画だった。
それくらい、なんか、悔しくなるような映画だった。
社会人に片足を突っ込んでいるわたしにべったりと張り付いてきたみたいな感覚があった。
城真也監督の『アボカドの固さ』をみた。
わかったような口を聞くけど、
目標や明確な理由なんてないことしてる時の言葉にできない大切なアレ。
アレを忘れないように生きていくためにサラリーマンには映画とか文化とかが必要なんじゃないの?って思います、そんなこと考えられないくらい忙殺されてしまうのかな。怖いな。
今じゃなくなるのが不安になるような
そういう映画がすきだ。
私小説はみんなオナニーだと思っている。
でもわたしはそれを見るのがすきだし、
この映画はちょっと、それに近いように見えた。
むしろ映画というメディアを上手く活かして描かれていたようにも思う。
人生の大半はダサくていいんじゃないかなって思う、ダサくても素敵にすることはできるから。
映画にはその力がある。
映画の中の前原くんは1ミリもかっこよくなかった。
苦笑いしてしまうようなリアルなダサダサシーンは数えきれなくて何から語っていいかわからない。
パンフレットの清水さんのことばにも『映画の中の前原くんは現実そのもの』みたいなことを言ってたから、尚更苦笑いだけど。
でも現実の男の子って全部じゃないけどこんな感じだなって思う。
ダサイな〜って思うけどアイツに似てるなってどこか思ってしまう。
本当に現実の中に生きてる男の子のちょっとダサイところの集合体みたいな前原くんが、最後まで映画を見ると愛おしくなる。
と同時に自分もこんな感じかな、なんて思う。
お前ダサイよ、って思われているくらいがちょうど良いのかもしれない、のびしろしかないから。
前原くんがヨリを戻したい気持ちたっぷりでタクシーの前でしみちゃんにいう言葉。
「喋り方がすき、笑顔が好き、大好き。」
インスタントな言葉では相手に伝わらないんじゃない?なんて思うけど
きっとことばの意味では伝わっていて、
でも本当のところは伝えられない気がする。
「目がいい、目が」
って言われたこと、わたしもあるなあ。
どう良いのか教えてくれる人はいなかった、
何がいいの?なんて聞くのは野暮だけど
わたしは、教えてくれる人はダサくないんじゃない?とか思います。ハハ
しみちゃんの感性にもっとハイライトを当てて欲しかったなあ、きっと前原くんは節々を覚えているのだから。
パンが発酵するみたいに、とか
トイレットペーパーが入っていないのを見てお腹が空いてそう、とか。
でもまあ、アフタートークで言っていたようにしみちゃんの匿名性に世の中の男性は自分のしみちゃんを重ねてしまうのでしょう。
さいごに。
アボカドが転げ回ってるシーンはなんなの?笑ってしまった
前原さんにお聞きしたら、アボカドとの出会いの演出だそうで、不思議な時間でしたと答えたらそうですね〜!と明るく答えてました。
あと、ちなみにわたしも、硬すぎるアボカドを頑張って切って食べたらきゅうりみたいにパリパリしてなんだこれ?ってなった経験があります。
アボカドのちょうど良い食べごろを知ってるひとでありたいと、思います。