見出し画像

なぜ、現実逃避の異世界ファンタジーにわざわざ陰鬱な展開を求めたりするのか。

 上記の画像のような主張をする人は少なくない。

 いや、ほんとうになぜなんでしょうね。

 ふつうに考えたら、異世界ファンタジーなんてただご都合主義で自分の「性癖」に合い、「地雷」を避けていればそれで良さそうなものだ。

 それなのに、なぜぼくは――ぼくたちは、その次元を離れた作品を求めるのか。この記事ではそのことについて少し思いめぐらせてみたい。

 さて、そのまえにそもそも面白い作品とは何か、面白いマンガを描くにはどうすれば良いのか? そのことについて考えてみる必要がある。

 これは、もちろん「そんなことわかっていたらいまごろ自分で描いて大金持ちだよ」という種類の問いではある。

 アリストテレスの以来二千年余り、物語のつくり方に関するさまざまな理論が打ち立てられ、打ち捨てられ、少しずつ「どうすれば面白い物語をつくることができるか」という秘密に関する議論は進んできた。

 その蓄積はハリウッドを初めとして、さまざまなところで活かされている。いや、そのはずなのだが、人類な何千年もそのことについて考えていながら、いまだに「確実にヒット作を出す方法」を発見できずにいる。

 つまり、面白い物語を作るやり方は、多方面からスポットライトをあてられているにもかかわらず、いまだに霧のなかなのだ。

 ごく少数の実力派のクリエイターだけが直観的にその秘密を見抜き、傑作やヒット作を物しているように見える。しかし、かれらですらその方法論を明確に言葉にすることはできない。

 ある意味では当然のことだろう。「物語の面白さ」のなかには「未見性」、つまり「いままで見たこともないものを見せられたという衝撃」が含まれているわけであり、あらゆる表現は精密に理論化された時点で「すでに古いもの」になってしまうわけなのだから。

 このパラドックスはきわめて解きがたい。もちろん、既存の理論に従って精緻にプロットやディティールを詰めていくことは大切だが、それでも物語の最大のシークレットはやはりいつまでも霧のなかにあるのかもしれない。

 しかし、それでもぼく(たち)は思わずにはいられない。いったい、ほんとうに面白い作品とそうではない作品ではどこがどう違っているのだろう、と。

 この問いに対するひとつのアンサーは「キャラが立っているかどうか」というものだ。

 「キャラが立っている」とは、つまり作中の人物が他にはないオリジナルな個性を備えているということである。いい換えるならその特徴がはっきりしていて、印象に残りやすいともいえるだろう。

 物語のなかのキャラクターは、少なくとも主流文学ならぬエンターテインメントにおいては、ただリアルであるだけでは足りない。十分に「キャラが立って」初めて読者の目に魅力的に見えるのだ。

 たとえば世界中で愛されているキャプテン・アメリカやスパイダーマンやハリー・ポッターやハーマイオニーはそのような「立った」キャラクターの一例といえるだろう。

 だが、キャラクターが一貫した特異な個性を持っていればそれで良いのかといえば、それは疑問だ。あまり極端な個性や「萌え属性」を備えたキャラは必然的にリアリティがなくなるものだし、何よりただそれだけですこぶる魅力的に感じられるとは思えない。

 数千年の謎はそのくらいで解けるほどたやすくはないはずだ。

 それでは、ほんとうに魅力にあふれまるで古い友人のように親しく感じられるキャラクターと、そうではないただの「書き割り」のようなキャラクターは、どこがどう違うのか?

 この問いもまた容易に答えることはむずかしいが、ひとついえることは「キャラが生きている」と感じるとき、読者はその人物に惹きつけられずにはいられないということ。

 キャラクターが「生きている」とはどういうことか? それは、ひとまず、そのキャラクターがただ「立っている」のみならず、現実の人間のように複雑で、捉えどころがなく、深遠な謎を抱えているように見えるということであるといって良いだろう。

 そのようなキャラクターはただ「ツンデレ」とか「クール」とか「熱血少年」、「スパダリ」といった記号的表現で表わし切ることはできない。

 あるいはそのような属性を帯びていることもあるかもしれないが、絶対にそれだけではない。深い人間性と、何よりほんとうの人間のような「実在感」を感じさせなければならないのだ。

 キャラクターの実在感。ぼくはこれこそが、最高のエンターテインメントとそうではない作品を分かつ重要な分水嶺のひとつだと思う。

 たとえプロットが凡庸であろうと、「キャラが生きている」作品は読みやすく、親しみやすい。続きを読みつづけようという気にもなる。だが、そうではなくただわかりやすい魅力の記号が堆積しているだけの物語は、読むに値するように思えなくなってしまうのだ。

 このことを強烈に感じるのが、「小説家になろう」のウェブ小説や「ピッコマ」のWebトゥーンを読んでいるときだ。

 ご存知のことかもしれないが、「なろう」や「ピッコマ」に掲載されている作品は、「悪役令嬢」だとか「チート」だとか、そのプロットだけを見て取ればいずれも似たり寄ったりというか、そこまで差があるとも思えない仕上がりである。

 そこでは多様性が欠如していて、どれもある程度の品質を約束されているかわり、独創的な傑作が出てくる余地もない。そう、見える。

 ところが、じっさいに読んでみると、「なろう」でも「ピッコマ」でも、何ともつまらない作品と面白い作品とは明確に分かれる。まったく同じようなプロットをしていても、面白い作品はめちゃくちゃ面白いし、そうではない作品はどうにも退屈なのである。

 技巧の差だろうか。文章力とか、画力とか?

 私見ではそうではないと感じる。「ピッコマ」はまだしも「なろう」には、そのようなテクニックで大きな差がつくほどスーパープロフェッショナルな書き手は多くない。天才的な筆力など持たない作家が大半なのだ。

 それでも、現実に差はつく。ぼくはそれは、作家が「キャラクターにたましいを吹き込む」その魔法の息吹を持ち合わせているかどうかに拠っているのではないかと考える。

 これはあいまいな表現かもしれないが、ぼくにはそのようにしかいい表わすことができないのだ。たとえ似たり寄ったりのプロットであっても、キャラクターが「ほんとうの生きた人間」として動いているものと、「ただの記号」で終始しているものでは、大きな差がつく。

 そのことを、たとえば「ピッコマ」の『ジャンル変えさせて頂きます!』というマンガを読むと、強く思う。

 これはよくある転生ものの作品で、絵柄こそ綺麗だが、あらすじのレベルではどこを切り取っても「わりと普通」の物語であるように思える。

 ところが、読んでみるとめちゃくちゃ面白いのだ。ぼくは長いあいだ、その秘密がどこにあるのか上手く言葉にすることができなかった。迷って迷って迷って、ようやくたどり着いたのが「キャラクターが生きている」という表現だ。

 このマンガの主人公たちは、一見すると書き割り的、記号的な属性の集積とも見えるのに、たしかに「生きて」感じられる。ただそれだけで、物語の魅力は何十倍にもなっている。

 その「キャラクターにいのちを宿す魔法」が具体的にどのような技巧に宿っているのか、それはまだぼくにははっきりしないのだけれど、少なくとも「キャラを立てる」とか「目的と葛藤、過去を詳細に設定する」といったお決まりの方法論「だけ」では成り立たないことはわかる。

 あるいは、ハーレムだのスパダリだの、どんなに願望充足を極めていても「そこそこ」を超えない作品と、真に感動的な作品の差はその魔法にあるのではないだろうか。

 その生命のマジックがあれば、いくらか矛盾したプロットであっても傑作に仕上げることが可能なのでは。いま、ぼくはそういうふうに思ったりする。これは友人のLDさんが「実存感」という言葉でいおうとしていることと同じだろう。

 あるいは、ひっきょう、作家の頭のなかで実在しているように感じられているキャラクターは必然的に読者にもそう感じられる、ということなのかもしれない。

 ほんとうのところはわからないが、『ジャンル変えさせて頂きます!』や、あるいはヤングジャンプの『推しの子』などを読むと、荒唐無稽であるはずの物語を気高く仕上げる秘訣は、この「実在感」を生む秘術にあるのでのではないかと思えてくる。

 もちろん、そういいあてたからといって何千年の秘密の霧を少しでも晴らしたとはいえないだろう。だが、ぼくにとってそれはささやかな、それでも決定的な前進に思える。

 思えば、冒頭の、ぼく(たち)の多くがなぜ、ただあかるく、爽やかで、願望や欲望を十分に充足させてくれるだけの物語に飽き足らず、悲劇や、苦悩や、悪夢的ですらある物語を求めるのかということも、この「実在性」の議論に関わってくるのではないだろうか。

 つまり、キャラクターが生きているということ、「実在性」とは、つまりその人物が読者とは決定的に異なる人格をそなえているという意味での「他者性」である。

 そして、その「他者性」とは、ただひたすらに読者にとって都合が良いだけのキャラクターには宿らないものなのだ。

 むしろ、ぼくたちは予想を裏切られたり、期待に背かれたりしたそのときにこそ、「そのキャラクターは実在している」と感じるのではないか。その意味では、キャラクターの「裏切り」こそはそのキャラクターの「実在性=他者性」の証明そのものであるといえる。

 ぼくたち読者、観客、視聴者は何もかも思い通りになる理想的なキャラクターからは、さほどの「実在感」を感じられないのだ……。そういうことなのではないか?

 だからこそ、ぼくたちはしばしば暗い、複雑な、自分たちの現実よりもさらに辛く苦しく悩ましい物語をわざわざ読むのでは?

 「生きた人間」と「ただの人形」は違う。そして、「生きた人間」は決して他人の道具にはなり切らない。自分が求めているものが「ほんとうのひとりの人間」なのか、それとも「ただ自分を無限に受け入れてくれるただのドール」なのか、考えてみても良いだろう。

 その答えが、おそらくはあなたという人物を物語ってもいるのである。

 ぼくは、どんなに苦しくても、「陰鬱」でも「バッド」でも、それでもただのロボットならぬAIならぬ「他者」、「生きた人間のいる世界」を望む。

 あなたは、どうですか?

 付記。

 ぼくがnoteに書いたことが「50年前の劇画村塾と変わらない」とするポストを読んだ。ちょっと面白いので取り上げる。

 ぼくは劇画村塾の理論にそこまでくわしいわけではないけれど、その主張とはマンガ、あるいはエンターテインメントとしての物語一般においては「キャラを立てる=個性化する」ことが大切だということだと理解している。で、ぼくはそれはそうなのだが、という話をしたいのです。

 小池一夫的な「キャラを立てる」ことが何より重要だとする主張は世間に広く流通し、たしかにとんでもなく個性的なキャラクターがたくさん生まれる時代が訪れることとなったわけだ。しかし、「キャラが立って」いればそれで良いのか?というのがぼくの疑問なのだ。

 「キャラを立てる」ことはエンタメにとって必要なことだろうが、同時にほんとうに優れたキャラクターにはそれだけでは足りないのではないか?と。「キャラが立っている(個性的である)」ことと「キャラが生きている(実在感がある)」ことは似て非なる概念なのではないか。

 あるいは、「キャラが立って」さえいれば即座に「生きて」いることにもなるというのが正解なのかもしれない。ただ、「ピッコマ」や「小説家になろう」などの作品はどれも「キャラを立てようと」懸命の努力がされている。その結果、いろいろな個性を持ったキャラクターの百鬼夜行状態になっている。

 でも、「なろう」を読んでいると、相当に「キャラが立って」いてもさほどの魅力を感じないキャラクターもいれば、一見すると平凡なのに親しい友人のように感じられるキャラクターもある。

 その一例として挙げたのが『ジャンル変えさせて頂きます!』で、この作品のキャラクターはそこまでとくべつに「立っている」わけではないと感じられるにもかかわらず、「何か他と違う」印象を受ける。奇妙に「実在感」があって、親しみを感じられるのだ。

 この「キャラが生きている」感覚はどこから来ているのか? ひとつ思いつくのは古典的なドラマツルギー、キャラクターに葛藤させろとか、過去を設定しろとか、そういうことが大切だということだ。結局、その「キャラ立て(個性化)」と「キャラ生き(実在感)」の混交が大切なのだ、という話なのかも。

 ただ、ほんとうにそれだけなのか?というとやはりまだ確信を持てない。そうなのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない、というところ。

 その意味でぼくが昔から気になっているのが『タイタニア』のアリアバートとジュスランというキャラクターで、このふたり、田中芳樹作品のなかではそこまでキャラが立っているとも思えないんだよね。でも、何か強烈な魅力がある。これは何なんだろう?というところがうまく言語化できない。

 おそらく、膨大なディティールの積み重ねによってキャラクターはしだいに「生きた」存在として感じられるようになってくるのだろう。それはまさに細部であるがゆえ理論化がむずかしい。そういうことなのだろう。でも――と思考が続いてゆく。まあ、そういう思考の断片を記事化しているわけです。

 ◆◇◆

 この記事を少しでも面白いと思われた方は↑から「スキ」や「フォロー」をお願いします!

 さて、このたび、「Webライター海燕のこの本がオススメ!」というLINE公式アカウントを始めました。

 LINEを使用されている方ならだれでも参加でき、週にいちど金曜日の午後8時からその週のオススメ本についての情報を配信しています(その他、何か要件があるときにもそのつど流しております)。

 もし良ければぜひ、ご参加くださいませ。いまなら「小説家になろう」について書いた好評の電子書籍『小説家になろうの風景』のPDF版をお付けします。よろしくお願いします。

 ◆◇◆

 冬のコミックマーケット105に受かったので、新刊『山本弘論』を頒布します。くわしい情報はのちほど公開しますが、先日亡くなった作家について批判的に考察した力作です。ぜひお買い求めください。こちらもよろしくー。

 ◆◇◆

 あと、ぼくはライターなので、もし良ければ何かライティングのお仕事をください。非常な速筆なので(時速4000~5000文字くらい)、たいていの仕事は3日も締め切りがあれば終わるかと思います。

 くわしくは「プロフィール」&「お仕事募集」のページをご覧いただければ。ご連絡をお待ちしております。よろしくお願いします。


いいなと思ったら応援しよう!