
左派論客による「攻撃的な弱者男性」批判のここが納得できない。
「弱者男性」は、どこまで弱者か?
そして「左派リベラル」は、どこまで弱者の味方なのか?
①『現代ネット政治=文化論』
藤田直哉『現代ネット政治=文化論 AI、オルタナ右翼、ミソジニー、ゲーム、陰謀論、アイデンティティ』を読んでいる。
いささか無節操なほどテーマを詰め込んだサブタイトルからもわかる通り、既存の原稿をまとめた、かなり雑然とした内容ではあるが、非常に面白い。
書き下ろしの序文「はじめに」で書かれているように、この本一冊をつらぬくテーマは「インターネットの現在」とそこでうごめく「弱者男性」たちである。
藤田は自分の来歴についてこう書く。
一時期、一年ぐらい引きこもってネットばかりやっていた。そのあと、なんとか大学に行ったはいいが、就職もせず、フリーターになり、ネットカフェ難民が「ドヤ」に使っているような歌舞伎町の漫画喫茶で店員をしながらブラブラしていた。
そのときの年収は一五〇万円ぐらい。ネズミが出るボロいアパートに住み、未来には希望を持っていなかった。非正規雇用という身分に理不尽さを覚え、資本主義や国家を憎悪し、社会に怒りと疑問を感じ、ロスジェネ運動やフリーターズフリー運動に共感し、デモなどにも参加していた。「革命」という言葉への憧憬が強く、どうせなら、世界が壊れて、ひっくり返ってしまうことを期待していた。
本書はそのかれが「自己批判も含めて」書いた内省の書なのだ。
②「左派リベラル」という視座
まちがいなく本人も自覚しているだろうと思うが、藤田はサブカルチャー批評において、基本的には「左派リベラル」の立場に立ち、その視点からものごとを見る。
したがって、かれと同じ「氷河期世代」の男性たちの多くが左派に絶望し、「ミソジニー」やら「ネトウヨ」やらにハマっていってしまったことに対する批判の目がそこにはある。
しかし、先述したように自身も非正規雇用のフリーター時代を経験している藤田には、同時に、かれらに対するつよい共感の念もまたある。
したがって、その思考はいくばくかの屈託を孕んで折れ曲がったものにならざるを得ない。その意味では、同じく左派の批評家である杉田俊介の男性論や、河野真太郎の職業論に一脈通じるものがあるといっても良いだろう。じっさい、この本のなかにも杉田らの名前は登場している。
ぼくもまた同世代で貧しい暮らしをしていまに至っている身であるから、かれの感じかたはわかるところがある。また、その記述も興味深く感じる。その意味で、すこぶる面白く読める本である。
③弱者への共感は特にありません
ただ、どうだろう、ぼく自身に藤田のような「弱者男性」たちへのシンパシーがあるかというと、正直、怪しいものといわなければならない。
否――はっきり断定してしまってもかまわないだろう、われながらなんて冷淡な奴なんだとは思うのだが、ぼく自身はこの種の「弱者男性」たちにほとんど共感がない。
自分自身があきらかに「弱者男性」そのものとしかいいようがない属性を山ほど持っていて、ときにはそう名乗りすらすることがあるにもかかわらず、である。
そうかといってそういう「弱者男性」を非難しているような「左派リベラル」の「ツイフェミ」にもまったく共感しないから、もともと「弱者」に対する優しい心がけが欠けているのかもしれない。
そういうぼくに比べれば、しばしばネットを通してあやしげなインフルエンターに扇動されたり動員されたりする「弱者男性」たちにため息をつき、批判しながらも、あくまで暖かい視点で語る藤田の姿勢は、まったく皮肉ではなく、偉いものだというべきだろう。
しかし、まさにそうであるからこそ、その思想的偏向、とぼくの目から見えるところには非常な違和を覚える。逆にいえば、そここそが最も面白い。
④いや、フェミニスト、ひどいでしょ
藤田は現代社会において「弱者男性」が「ミソジニー」や極端な政治思想に傾倒していく理由を歴史的背景をつぶさに見ながら考えていく。その作業はごく冷静かつ説得的である、と感じる。まず丁寧な仕事といって良い。
ただ、そのことを認めた上でいうなら、藤田の姿勢にはひとつふしぎなほど決定的に欠けている認識があるように思える。
それは、つまり、かれが思想的背景とする「左派リベラル」は、ただ誤解されたり思い込みで非難されたり、あるいは思想の異なる「ネトウヨ」のターゲットにされたりしている「だけ」ではなく、じっさいに批判されるに値する問題を抱えているのだ、という認識である。
藤田は本文中で「アイデンティティの危機を感じた主体は、自身を被害者の立場に置き、危機における正当な防衛であると主観的には思いながら加害や差別行為を行ってしまうのではないだろうか」と書いており、ぼくもそれには一面で共感する。
だが、それはまさに一面でのことに過ぎない。かれの視点にはたとえば「表現の自由戦士」と対立しているとされる「フェミニスト」の側「も」十分に問題を抱えているという考えがまったく見あたらないのだ。
本書においては、表現の自由を掲げるオタクたちの「被害者意識」はあくまで悲しい「錯覚」であり「誤認」であるという論調が貫かれている。まったく納得できない。だって、冷静に考えて、ツイフェミ、ひどいじゃん。
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⑥「第三空間」を新しく作る?
話を戻すと、藤田はそういった「加害や差別行為」問題の「解決法」のひとつとして「「第三空間」を新しく作ること」を提唱している。
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