皆伝 世界史探求04 鉄器時代
BC2100年頃-BC1200年頃の世界について書きます。
21をひっくり返すと12なので、区切りの数字として憶えやすいと思います。
構造図を拡大して観てください。
世界年表を見てください。ポインターを当ててクリックすると拡大できます。
アーリア系の移動がメソポタミア、エジプト、ギリシアなどの地区の主導権争いを活発化させて、オリエントに鉄器文化が生まれます。インド北西部はドラヴィダ人からアーリア人へ担い手が変わります。中国には商(殷)が登場します。こんな時代です。
黒陶の土器と同程度の火力を生み出せる文化であれば作れる青銅器の素材は銅と錫でした。錫は石や土や銅と較べれば希少な金属だから、青銅器の製造法や技術が伝わってもどこでも作れるものではないし、原料が手に入るところ、その近く、輸送業者がいないと作れません。
だから、より高温を生む技術を持った人たちは、融点が1500度(硬度4)の鉄を利用して鉄器を作り始めます。人類誕生以前に地球中に降り注いだ隕石には鉄が含まれていて、隕鉄と呼ばれています。つまり、地中深くを掘らなくても、簡単に手に入れられる鉄はどこにでもありました。鉄器製造のための火力を生み出す技術が伝播すれば、鉄器は早く広範囲に普及します。
トルコのカマン・カレホユック遺跡で「中近東文化センターアナトリア考古学研究所」(大村幸弘 所長)が、2017年9月にBC2500‐BC2250年の地層から鉄器(分銅みたいな形)を発見しました。学会の最新研究が教科書に記載されるには、だいたい10年くらいかかるので、受験生はBC2100年からBC1200年の時代(皆伝04)に鉄器が登場すると憶えておけばいいと思います。 話を戻します。鉄の組成は鉛の含み具合から、アナトリア半島の物ではないとわかっています。別の地域の鉄を使って作っているということですね。アナトリアで加工したのかどうかは不明です。この鉄器が見つかった場所には遺構(遺跡にある建築物)があって、泥で壁を作る手法が特殊なので、神殿、製鉄所、王宮などの特殊な建築、または異民族が建てたものと考えることができます。例えばヒッタイトが侵攻して、この地にあった製鉄技術を独占したという考えもあり得ます。鉄器がいつ、どこで生まれたのかはまだわかっていません。受験ではオリエント世界に初めて登場し、ヒッタイトがもたらしたとされています。
BC2100年頃、地球の寒冷化で、特にヨーロッパ、中央アジアなどが寒冷化します。植生(植物の種類)が代わり、草食動物が南下し、馬を飼う人たちも南下し、肉食動物も南下します。ヨーロッパではドナウ川周辺、黒海周辺、コーカサス山脈周辺にいた民族が、草が生え、草を食べる馬、羊、ヤギも育つ温暖な気候を求めて、南下を始めました。それがインド・ヨーロッパ語族で、有名なのが鉄器をオリエントにもたらしたヒッタイトです。他にもインド・ヨーロッパ語族/印欧語族のギリシア人が南下し、インドへは印欧語族のアーリア人が南下し、中央アジアでは農耕をやめて移動しやすい遊牧民に変化します。インドに入ったので、インド・ヨーロッパ語族と言うんですね。インドの北部の人はヨーロッパ系の顔立ちをしていますもんね。アーリア人がインドに行かなかったら、単なるヨーロッパ語族ということです。
人の移動の目的は生きるためですから、原因/理由としては寒冷化で南下、温暖化で北上、交易・貿易を求めて、領土を求めて、戦を避けてと言うことが多いでしょう。気候変動や戦で凶作になり、飢餓になり、あるいは政治的な亡命ということもあります。
□□ヨーロッパ西部
BC1500年頃、青銅器時代に入ります。青銅器を発明したメソポタミアから遠いので、一時代遅れます。
□□ヨーロッパ東部
□□エーゲ海
BC2100年頃、バルカン半島にギリシア人のアカイア人が南下します。
エーゲ文明には、まだトロイ文明があります。キクラデス文明は衰退する時代です。
BC2000年頃から民族系統不明のクレタ島の集団がクレタ文明=ミノア文明=ミノス文明を形作ります。BC1800年頃~BC1600年頃、ミノス王のミノス文化/ミノア文化のクレタ島の都市国家クノッソス(都と言ってもいいと思います)が、他の都市国家も支配し領邦国家化します。
領邦国家は都市と都市の間にある土地も支配している国家です。都市国家は点だけ、都市同盟は点と点を結び、領邦国家/領域国家は面を支配します。クレタ文明はミケーネ文明と比べると、平和的と言われることが多いですね。
このクノッソス王国は、エジプトとの貿易を背景に興隆します。クレタ文明は東地中海貿易を独占していたエジプト文明から影響を受けています。宮殿は迷宮/ラビリンス/ラビリントスと呼ばれる巨大な石造建築(但し無秩序)です。ギリシア神話に、アリアドネが渡してくれた糸の助けで、テーセウス牛頭のミノタウロスを倒した後に、迷わずに出てこられたという伝説があります。壁画や、壺の絵付けも写実的な文化です。島国であるクレタ文明の特徴はタコ、イルカなど海洋的な面が強い。もちろん人物画もあります。
海洋文明とも呼ばれ、漁労や貿易で成り立っています。
写実的というのは、写真のように観たままに近いということです。あんまりデフォルメしていないということです。日本国語の知識、語彙が足りないと、教科書や参考書もなかなか理解できないと思います。皆伝では、なるべく説明したり、簡単な言葉に置き換えて書こうとは思っています。
BC2000年頃、クレタ文字が生まれます。クレタ聖刻文字と呼ばれる絵文字、次いで線文字Aを発明しました。これらを粘土板に刻みました。英国人のエヴァンスがクレタ島を発掘し、絵文字、線文字A、のちのミケーネ時代の線文字Bを発見しました。絵文字/クレタ聖刻文字と線文字Aは、解読されていません。
BC1628年頃、海底火山の噴火でテラ島(サントリーニ島)は壊滅、カルデラの外輪山が島になった状態に変わります。今は観光地になっています。この噴火はプラトンの「ティマイオス」でヘラクレスの柱(ジブラルタル海峡)の向うにあるアトランティス大陸の滅亡伝説を生みました。また火山灰や寄港地の喪失、神の怒りを感じる人心の不安などが、エーゲ文明に影響した可能性はあります。どんな影響があると思いますか?
BC1600頃、クノッソス(ミノス王)がエーゲ海地区を統一します。政治的と言うよりは、貿易の独占ですね。キクラデス文化やトロイ文化も従います。エジプトとの貿易では、どうしてもクレタ島に寄る必要がありますからね。冷蔵庫もない時代だから、食べ物や水を補給したいですもんね。
バルカン半島で力をつけていたインドヨーロッパ語族の、ギリシア人の、アカイア人(イオニア系と考える学者もいます)らがさらに南下して、ミケーネ文化を拡大します。
BC1600年頃、彼らはミケーネ、ティリンス、オルコメノスなどの都市を作ります。
BC1600-BC1400年頃クノッソスが滅びます。理由は不明です。テラ島の噴火より前の可能性もあるそうです。その場合は噴火でクレタ文明が衰退した理由になります。津波で人が減り、船が全部だめになったり、周辺の都市国家から物資が届かなくなったりといろいろあったかもしれません。国が滅んでも人は残るので、文化も変わりながらも継承されていくんでしょうね。BC1500年頃、クレタ島にはコルセットや、スカートの枠がありました。
ミケーネがBC1400年頃に、エーゲ海の覇権を握ります。おそらく狩猟をしていた人たちなので、ミケーネ文化は戦士の文化/尚武的、質実剛健。壁画の題材も戦闘シーンが多い。幾何学模様の陶器など抽象的。ミケーネの獅子門など秩序だった構造の建築。ミケーネの発掘はシュリーマンによってなされます。シュリーマンはティリンス、オルコメノス、トロイも発掘します。
ミケーネ文明では線文字B/ミケーネ文字を発明した。線文字Bはクレタ島でも使われた。クレタ島は英国人エヴァンスが発掘し、絵文字、線文字A、ミケーネ時代の線文字Bを発見した。文字の解読は英国人のヴェントリス、英国人のチャドウィックにより線文字Bだけがなされ、絵文字/クレタ聖刻文字と線文字Aはなされていない。
発掘者、解読者、国籍は出題されるので、受験生は憶えておきましょう。
ミケーネ文明は、のちのアテネ、スパルタが持つようなアクロポリス(神殿などが建つ聖なる丘)をすでに持っていました。また、貢納王制と言われ、土地を共有し、村全体の税としての貢納(みつぎもの)を王にさせていました。家畜、亜麻などを献上させました。これを再分配します。いったん集めて自分のものにしておいて、恩義を感じさせるために配る。うーん。
・登場の順番を受験生は「クレタ赤藍色どーりゃー」と憶えましょうと、先生が言っていました。
系統不明のクレタ、赤(あか)「アカ」イア人はミケーネ、藍(あい)「アイ」オリス人、色(いろ)「イオ」ニア人はアテネ、最後にドーリア人がどーりゃーと叫び声をあげながら乱入して、スパルタを作る。
文字について書いておきますね。
楔形ではじまる文字は、線文字も絵文字もすべて楔形文字と呼びます。絵文字は観ればだいたいわかるもので、線文字は学習しないとわからないものですね。
□□オリエント
□□シリア海岸部
現在のシリア、レバノン・イスラエル周辺では、シリアにバアル神の神殿があるウガリト、レバノンにビブロス、シドンティルスなどのフェニキア人の集落が作られます。これが都市化するのはBC1200年頃の説もあります。
バアルは地の神、雨を降らせる豊穣の神で、死の神であるモトと常に戦っている。これはのちのゾロアスター教のアフラマズダとアーリマンを想起させますね。
フェニキア人はBC2100年頃には漁業のついでに商業も行っていますが、近隣の大国に依存して、その委託を受けている下請け業者的な存在だったようです。BC1200年頃までの900年くらいをかけて、本格的な独立した商人グループになっていったみたいです。セム語を使う民族の集合体のようです。
BC1480年頃、エジプトがフェニキア人の都市国家まで勢力を拡大。
シナイ半島からイスラエルにかけて暮らしていたカナーン人はエジプトの神聖文字から触発されてBC1800-BC1500年頃に原カナーン文字を作ります。まだ絵文字の要素を残し、書く方向も一定しません。右から左だったり、左から右だったり。
エジプトの中部で原カナーン文字の原型となる文字が見つかったという報告もあるそうです。ここまで来ていたカナーン人が作ったのか、わかりません。
神聖文字-原カナーン文字-フェニキア文字-アラム文字
へと継承されます。
フェニキア文字は海の商売人であるフェニキア人が地中海中に行くので、ギリシア文字に継承され、それがラテン文字に継承されます。
・原カナーン文字からシナイ文字が生まれたと、「詳説世界史研究」に書いてあります。これは一般的に原シナイ文字と書いた方がわかりやすいですね。「タペストリー」P53では、上の地図で原シナイ文字は原カナーン文字と理解できますが、下の図では原シナイ文字から後期原カナーン文字へ変わったと書いてあります。どちらが先かは不明という説もあります。ややこしい。先生に訊くと「知らん」そうです。
□□メソポタミア
サルゴン王国/シュメール=アッカド王国/アッカド王朝が衰退し、その後興ったシュメールのウル第三王朝がインドヨーロッパ系のエラム人に滅ぼされます。ウル王朝は第四王朝を建て、存続しています。シュメール人の最高神は移り変わりますが、天候神のエンリルが有名だそうです。
アムル人はBC2100年頃、バビロンを都とするバビロン第一王朝を建てます。バビロンの守護神はマルドゥークです。この時代のオリエントの王は、神々から王権を委託されたということで正統性を保っています。だから戦の勝利を神々に捧げたりするんですね。ちなみにバビロンを都にする王朝はすべてバビロン第〇王朝と呼ばれます。
第6代がハムラビ/ハンムラビ王です。 ハンムラビ/Hammurabiって、中にアムル/Amur人っていう名前が入っているんですよ。憶えやすいですね。アムル人のラビっていう意味なのかな?ラビはユダヤ教では学識がある宗教指導者を意味します。
ハムラビ/ハンムラビ法典を作りました。この法典は高さ2.25mの石碑に、楔形文字のアッカド語で書かれています。後世の人がスサで発見しました。ルーヴル美術館にあります。「目には目を歯には歯を」という同害報復/同害復讐(タリオと呼ばれます)が有名ですよね。浜辺美波さん、岡田将生さんの「タリオ」という復讐代行のドラマのタイトルはここに由来していると思います。
情状酌量や反省は考慮されず、後の西南アジアの基本法としての意義があります。生活に関わる民法や財産に関わる商法・会計法が主な内容でした。シュメール法典に基づき、以前からあった慣習法を成文化しただけとも言われています。法律を集めてまとめたものを法典と言います。
ただ王がこの法を保証するということが大事で、これによって心理的安心が生まれ、見ず知らずの相手との商売も進みました。予めこの罪にはこの罰があると周知している罪刑法定主義なので、犯罪予防にもなります。富裕層・平民・奴隷の身分/階級別の刑罰です。もし富裕層が奴隷を骨折させたら、その奴隷の価値/値段の半額を払うだけですむという違いがあります。過失と故意の区別があります。
専制君主は罰/刑法で従わせるんですよね。律令の律も刑法を意味しています。律令格式のうち、中世の東アジアでは刑法が最初に来ているんですよ。どう思いますか?
ローマ法や、21世紀の法は市民の保護、市民権を重視しています。憲法は権力の抑制のためにありますしね。
ハンムラビ王の頃に南部のシュメールまで征服。BC1595年に滅ぶ。
後で自立するカッシート人が、ザグロス山脈からやって来て、既にバビロン第一王朝の日雇い・傭兵として地域内で独立した集団を作っていた。印欧語族のエラム人(おそらくイラン人の系統)が、ウル王朝を完全に滅ぼします。BC1700年頃から印欧語族のヒッタイトが繰り返し侵入をしてきます。
ヒッタイトは(BC1595/1530には)メソポタミアに侵入してバビロン第一王朝を倒し国を建てます。これをバビロン第二王朝(ヒッタイト人)と言う場合があります。
一方で、カッシート人も、国はなくとも独立しています。アムル人の傭兵をしていましたが、アグム2世 (在位BC1602年~BC1585年) のときに独立したか、国家を作った、またはBC1350年に国家を建設した学説もあります。
民族系統不明の集団がメソポタミア南部にて反乱を起し、海の国をつくる。一時はバビロンも占拠したらしい。首都は不明。これが海の国第一王朝で、BC1740年~1475年。カッシートに滅ぼされます。海の国第二王朝はBC1025年~1005年。メソポタミア南部のバビロニア地方の最南部のシュメール地区に本拠を置くこの海の国をバビロン第二王朝と呼ぶ学者もいます。
ヒッタイトはあくまで小アジアが本拠/本店なので、遠征軍/支店に過ぎないメソポタミアのヒッタイト人は王朝と呼ぶべきではないという考えらしいんです。
こうした①最大勢力のヒッタイト②独立集団カッシート人③本拠を置く海の国の三つ巴の状態の時期を、特定の王朝を示さずにバビロン第二王朝期とも呼べるかもしれません。
バビロニアではBC1240年、バビロン第三王朝が建てられます。元傭兵の印欧系カッシート人がクーデターの末にこの国を興しました。
□□シリア内陸部
BC2000年頃、北イラク/シリア東部にはセム系がアッシリア王国を建てます。鉄器を持ち、商業活動が活発でした。軍事的にはまだ弱小です。
シリア内陸部に侵入した集団はBC1700年/1500年頃、ユーフラテス川の北部にミタンニ王国を建てます。この集団は一説にカフカスにいたフルリ人とも言います。一説に過ぎないので、定説ではありません。首都はワスガンニ。
ヒッタイトと戦したり、交易したり、エジプトと縁戚関係になったりします。彼らは馬の調教、冶金術、陶器の制作に優れていたようです。
インドヨーロッパ語族、民族系統不明、どっちなんでしょう?学説は頻繁に変わります。
一時、アッシリアを服属/手下にしますが、BC1270年にはアッシリアに滅ぼされます。下剋上です。
□□小アジア
BC1900年頃、小アジアにインド・ヨーロッパ語族のヒッタイトが勃興します。南ロシアの草原からやってきた遊牧民族で印欧語族のアーリア系です。アナトリア半島中部にある首都はハットゥシャ(ハッシュシャスは△。その後ボアズキョイに改称しました。現在の地名はまた別で、ボアズカレ)。彼らは鉄器を持っていました。アッシリア人よりも早く、オリエントに鉄器をもたらした、世界史上初の鉄器をもたらしたのがヒッタイトということになっています。ヒッタイト/ハッティでは赤や黒の磨研土器を作りました。磨いて研いでだから、表面がつるんつるんしていたんでしょうね。
ヒッタイトはBC1530年頃には、メソポタミアに侵入してバビロン第一王朝を倒し国を建てます。これをバビロン第二王朝(ヒッタイト人)と言う場合があります。楔形文字を採用しました。
土器をつくるために火力を上げる必要があった定住民は、同じ火力で青銅器を作ることができました。鉄を作るためにはもっと火力を上げる必要があります。鉄の融点は1538度。最初の鉄器は隕鉄を利用していました。火事で隕鉄が燃えるのを見ていて、思いついたのかな?
鉄器はBC4000年頃、コーカサス山脈付近にて発明され、戦いを通じて他の騎馬民族に伝播したようです。定住民が青銅器を発明したのはBC3500年ほど。鉄器が青銅器の前からあるとすると、その美しさから装飾品、祭祀用具にするために造ったのかな?。土器、青銅器の次に鉄器ならわかるけれど、遊牧民が始めから鉄器を作る動機が分かりません。武器?
民族の系統について書いておきますね。
「はじめにシュメール、クレタ、トロイありき」。皆伝でも参考書でも教科書でも、最初にその地区に出てきた人は民族系統が不明です。エジプトだけは古代エジプト語族というくくりにされています。おそらく寒冷化で乾燥化して、砂漠が拡大したので、アラビア半島から北上してオリエントに入ってくるのがセム語族/セム系。だいたい「ア」から始まる人たちです。ヘブライ人もセム系です。そして、おそらく寒冷化したので南下してくるのが、インドヨーロッパ語族です。場所で憶えれば簡単ですね。
インドヨーロッパ語族
ヒッタイト人 ギリシア人(ミケーネ人、イオニア人、ドーリア人)
アーリア人 ペルシア人
民族系統不明
シュメール人 クレタ人 トロイ人 ミタンニ人 カッシート人
セム語族/セム系
カナーン人 フェニキア人 アッカド人 アッシリア人 アラム人
アムル人 アラブ人
古代エジプト語族
エジプト人
□□エジプト
エジプトは中央集権的で王、各地の神官は世襲です。世襲というのは父から子へ、子から孫へと地位や身分が相続されることです。襲うという字は、後を継ぐという意味を持ちます。文字を使うのが書記で、土地を与えられます。農民は税金を払います。
BC2052年頃、エジプトは中王国時代に入ります。首都はテーベ。テーベはギリシア人の呼称で、エジプト人はネウトアメン。あるいはワセトと呼んだらしい。
この時代に神官文字/ヒエラティックが生まれ、公文書で使われます。識字率(文字の読み書き能力を持つ人の割合)が低いので、識字能力は持つ人はエリートなんです。神官は世襲で財産持ちなんですよね。シュメールでは文字を学ぶための学校もありました。たぶん石造りの椅子と机が3列以上並んでいる写真を先生に見せてもらいました。ヒエラティックはロゼッタストーンに書かれていない文字ということで引っ掛け問題としてよく出題されます。
ずっと混乱が続いていたのでBC1700年頃、ヒクソスが鉄器を持ってエジプトに侵入します。建国以来、異民族に侵入されたのは初めてです。ヒッタイトから鉄器を学んだのかな?
ヒクソスはかつてはセム語族系に分類されていましたが、民族系統不明になりました。アジア系、シリア系の説があります。
彼らは鉄器文化を持っていたので軍が強かったのです。ヒクソスから学んで、エジプトは鉄器段階に入ります。
ヒクソスがエジプト第14-第17王朝を作ります。この頃、パレスティナからアブラハムに率いられたセム系ヘブライ人の第一次エジプト移住があったようです。ヘブライ人は元々メソポタミア下流域にいたようですが、ウルなどの都市を出て放浪します。理由は不明です。これがヘブライ人がのちに作るユダヤ教の経典、つまり旧約聖書の伝承では、アダムとイヴの楽園追放へと姿を変えたようです。
BC1580年頃、テーベの豪族のイアフメスがヒクソスを追い出して新王国時代に入ります。その始まりの第18王朝が新王国時代の代表とされています。これ以降は、ファラオが正式な王の称号になります。
受験では古王国時代の初代のメネスからファラオということで出題されることが多いんですよね。
カルナック神殿の建設は中王国時代に開始されましたが、現存するもののほとんどは新王国時代の第18王朝期に、都テーベに建てられます。 エジプト最大の神殿です。
イアフメスのお孫さんがトトメス二世/ハトシェプストで、シリア、ヌビア(エジプトの南方)まで領域を広げます。トトメス三世の時代が最大版図/最大領域です。BC1480年、フェニキアまで拡大します。BC15世紀にはヒッタイト、アッシリアはエジプトへ朝貢します。ミタンニはメギド(のちのユダ族とエジプトとの戦いのメギドの戦とは別)で戦って以降は、エジプトと通婚します。政略結婚ですね。ミタンニの王女がムト一世(ファラオです)に嫁ぎます。二人の子であるアメンホテプ三世はミタンニの平民ティイ(ティイの兄はアイ)と結婚します。ムト一世の孫のアメンホテプ四世もミタンニ王女のネフェルティティ(アイの娘の説もある)を妻とします。
中王国時代にはアモン・ラーの信仰が生まれました。太陽神ラーと、太陽神兼大気の神アモンが同一視(習合)され、アモン=ラーと言われます。ギリシア語ではアメンと言われます。
アモン=ラーを祀る神官の力が強いことを嫌ったアメンホテプ四世は神官のいないアマルナ/テル・エル・アマルナ(当時の名はアケトアテン)へ都を移したり、日輪であるアテン/アトンだけを強制しました。太陽神はラーですが、アテンは太陽そのものではなく太陽から出ている光線の神です。光線の端に手が描いてあるレリーフが有名です。
宗教改革です。多神教が当たり前の古代世界において一つの神だけを信仰せよということは異質です。ただ、のちのユダヤ人の神のように他の神々の存在を否定したり、偽の神というレッテルを張っていたかどうかは定かではありません。そういう意味では、ユダヤ教が本格的な一神教です。
アメンホテプ四世は自らを「アトンに役立つもの」としてイクナートン(アクエンアテン)と称しました。アメンホテプ四世の名を捨てるのです。ここでは写実的なアマルナ芸術が花開いたり、バビロン第三王朝(よく出題されます)やヒッタイトやミタンニとの外交文書であるアマルナ文書が保存されていました。ただ、アトンの一神教を押し付けられた庶民や神官の支持がないので長くは続きません。妻のネフェルティティは古代の美人の一人に数えられますが、彼女を含めてこのアマルナ時代の記録は文字が削られるなどしてほとんど残っていません。それほど嫌われていたということです。そうは言っても、アトン一神教はアケトアテンの外には広がりませんでした。都だけの宗教だったんですね。アメンホテプ四世の子供、或いは親類(アメンホテプ三世の子の説や、アメンホテプ四世の娘婿の説もあります)であるツタンカーメン王は都も神も元に戻します。
最初の方に載せた地図にも書きましたが、上から順にメンフィス(5文字)、アマルナ(4文字)、テーベ(3文字)です。憶えやすいですよね。
ツタンカーメン王は若死にします。叔父のアイ(アメンホテプ四世の秘書だった)による毒殺説や結核説などがあり、頻繁に新証拠が出ますが定説はありません。20世紀にイギリスのカーターさんと、カーナヴォンさんがほぼ完全な形で彼の墓を発掘しました。彼の墓がある王家の谷で珍しく盗掘されずに残っていたので、有名な金色のマスクなどが発掘されました。他に当時のエンドウ豆も発見され、日本にもその種が根付いています。ツタンカーメンのエンドウと言います。
いわゆる四大文明に関して思うのは、戦争や植民地支配やその名残りがある地域だなということです。エジプトではナポレオン戦争時にフランス人に発見されたのがロゼッタストーンです。英国の占領地だったこともあり、英国の考古学者が王家の墓、ピラミッドの調査などをすることが多い。メソポタミア文明のあるイラクにも英国人が発掘に来て、「ギルガメシュ叙事詩」を解読しています。ロゼッタストーン、「ギルガメシュ叙事詩」は大英博物館にあります。インダス文明のインド、パキスタンも英国の植民地でした。中国を除く三大文明の発掘・研究は英国の占領と関係がありますね。歴史の研究に力を入れる国民性があることも関係しているのかもしれません。香港や威海衛など一部を除けば英国に支配されなかった中国は、歴史に対して深い探求心があるのかもしれません。それでも、兵馬俑の発見さえも内戦が終わり中華人民共和国が成立し、改革開放が訴えられ科学を標榜する1974年です。
日本では邪馬台国の場所がわかっていませんね。これは天皇の墓かもしれないので、政府が発掘を禁止しているからです。インダス文明の発掘が進まないのはインドとパキスタンの関係がよろしくないこと、治安の悪さ、財政に余裕がないからです。つまり、歴史研究に関心の強い外国が、現地の王や皇帝の墓などを尊重せずにどんどん発掘している地域では、古代史が明らかになっているんです。もしかしたら、メソアメリカ文明やアンデス文明を含めた六大文明などよりも、ずっと古い遺跡がモザンビイクやモンゴルやサウジアラビアやポルトガルに眠っているかもしれませんね。
話を戻します。戦にライオンを一頭連れて行ったと言われる征服王ラムセス二世は、ラアメス、ラアが生んだアメンに愛されたという意味の名だそうです。ギリシア名はオディマンディアスだそうです。
彼はBC1274年に、シリアのカデシュの戦いでムワタリ二世/ムワッタリシュ二世の率いるヒッタイトと戦います。エジプト軍は二人乗り(一人は御者/運転手)、ヒッタイト軍は三人乗りのチャリオット/戦車/兵車(馬車ですよ)。どちらも勝利は得られず、ムワッタリシュの後を継いだヒッタイト王ハットゥシリシュ三世/ムルシリ三世がBC1269年にエジプトのラムセス二世と永久平和条約を結びました。これはアッシリアの強大化を懸念してのもので、このときの講和記録が残っていて、成文化されているものでは最古の国際条約と言われます。その内容は攻守同盟/相互援助条約だったとも言われます。
ヒッタイトは以降南下をあきらめました。ラムセス二世はヒッタイトのハットゥシリシュ三世/ムルシリ三世/ハトゥシリシュ三の王女を妻(第三王妃)としました。この頃、ヘブライ人のエジプトへの第二次移住があります。ラムセス二世は上エジプトを越えてヌビアを占領し、アブシンベル神殿を建てました。アモン=ラー、ラア=ホルアクティ(地平線のホルスの意味)に捧げられました。ラムセス二世と、妻ネフェルタリの神殿でもあります。1956年からの第二次中東戦争のきっかけにもなるアスワン・ハイ・ダムを造る際に人工的にナセル湖が作られます。その水没予定地にあったので、ユネスコがこれを解体して移転することにしました。これが世界遺産の始まりで、世界遺産の第一号になりました。
また、ラムセス二世はハトホル(ホルスの家の意味で牝牛。ホルスの妻)の小神殿も建てました。ここにはラムセス二世の巨像が4体、鎮座しています。
この後、エジプトは外部に対して徐々に守勢に回り衰退していきます。移住したヘブライ人は、民族の神であるヤハヴェ信仰をかたくなに守ったことで多神教のエジプトに溶け込めなかったり、第二次移住により人口が増えたことで不安を覚えたファラオにより奴隷にされたりして苦しかったので、伝承によると、モーセ/モーゼに率いられてBC1230年に出て行きます。これを「出エジプト」と言います。エジプト軍に追撃されます。この時、紅海を渡りますが、海が裂けたと言われています。モーセたちが渡り終えると海は閉じてエジプト軍を飲み込んだとも言われています。このあたりの話はユダヤ人の聖書に書いてあることで、歴史家が事実であると認定してはいません。けれど、入学試験には出題されます。
先生は、「干潮の時に現れる砂洲を渡り終えたら、満ち潮になった。そこへ津波が重なったかと余は思う。モーセはシナイ半島にあるシナイ山で十戒を受け取り、死んだ。4枚の石板を受け取ったが、二枚は落として割ったという話もある。このとき、休息日を与えられたことが、21世紀の世界の常識である週休二日に繋がっている。江戸時代の日本人の庶民は休日の概念はなかった。(ユダヤ教を改変した)キリスト教文化の上に造られたヨーロッパの労働概念が、明治時代に入ったことで休日が採用されたのだ。」と言っています。
この出エジプトは、エジプトが海の民/海洋民族に攻撃されて国力が落ちていた時期と重なります。この混乱をついて脱出したと言われます。モーセは十戒を神から「預」かります。だからモーセは「預言者」と言われます。
十戒は十の契約ということで、人が守るべきものです。ヤハヴェの一神教もその一つです。ヤハヴェはGODということです、つまり神です。多神教と違って、神は一つしか存在しないので、神に名前は不要です。だから、神/GOD/ヤハヴェと呼ぶのです。一神教なので、他の神がいても崇拝するな、ヤハヴェだけを崇拝せよということです。土曜日が安息日/休息日。キリスト教の日曜日とは違います。まだ週休一日なんですね。偶像崇拝禁止。偶像というのは石像とか人物画とかそういうのです。21世紀なら写真とか花譜さんとかゆるきゃらとか。アイドルは偶像という意味の英語ですね。ヤハヴェしか信仰してはいけないので、ヤハヴェそのものではない石像、モーセの絵なんかも禁止されます。ヤハヴェをかたどった石像もヤハヴェではありませんから、禁止です。時がたつにつれてだんだんあいまいになっていくんですけどね。キリスト教徒も偶像崇拝を禁止していますが、イエスさんの十字架にかかった像だとか、マリアさんだとか目にしますもんね。
宗派によって違いますが、モーセさんの時代の十戒は他に、殺人・姦淫(不倫かな)・盗みの禁止、隣人のものを欲しがらない、隣人に偽証をしない、両親を重んじる、神の名をむなしいことのために口に出さない(「壺を買わないと天罰が下るぞ」と脅すようなことですかね)。
「預言者」と呼ばれるモーセと、先のことを予め言う「予言」とは違います。十の戒めとは十の規則のことです。例えば、一神教なので、「我だけを神と信じよ」。安息日、つまり日曜日は休み。偶像禁止。この規則を守れば、お前たちヘブライ人は来世で救われるという契約/約束です。契約なので旧「約」聖書に収録されます。旧約とは、新約聖書を作ったキリスト教から見た言い方なので、ヘブライ人/ユダヤ人自身は旧約などと言いません。単に聖書と言います。彼らには新約というものは存在しないからです。
イスラエル人はイスラエル国籍人のことと考えていいと思います。21世紀のイスラエル国の国籍を持っている人です。民族的にはアラブ人もいますし、宗教的にはユダヤ教徒でない人もいます
ヘブライ人は出エジプトの後の言い方。21世紀にイスラエルと呼ばれている土地に来た時に、ヨルダン川の反対側にいた人たちから「川向こうの人\ヘブライ人」と呼ばれたという学者がいます。
ユダヤ人~ユダ部族。ヘブライ人が建てた二つの国(イスラエル王国、ユダ王国)のうち、先に滅ぼされたイスラエル王国人は歴史の中に消えました。後に滅んだユダ王国人は自分たちをユダヤ人、ユダ部族と言いました。21世紀にはユダヤ人をヘブライ人と同じ意味で使う人もいます。
ちなみに、ヘブライ人のユダヤ教の神ヤハヴェを、キリスト教徒は自分たちの信仰する神、英語で言えばGODと同じものだと考えています。さらに、ムスリム/イスラーム教徒はイスラームの神、アラビア語で言えばアッラーは、ヤハヴェ、GODと同じ神だと考えています。ユダヤ人がアッラーをヤハヴェと同じと考えているかはわかりません。
ラムセス三世が海の民/海洋民族の一派であるペリシテ人を撃退したのはBC1190年です。つまり出エジプトの40年後です。ちなみに、ペリシテ人がパレスティナの由来です。
この時代、履物は、裕福な支配階級の人々が祭祀などの儀礼的場面、または副葬品(お墓や棺に入れるもの)として使用しました。第18王朝ではルクソールの西岸、いわゆる「貴族の墓」にある高官レクミラの墓の壁画に、17 人の工人がサンダルの製作、製革・鞣製作業を行う様子が描かれています。
アマルナ遺跡の家屋からは、製作途中のサンダル、原料の皮革、裁断片が出土しました。
イランでバードギール(風を捕まえる物)という煙突状の施設がエジプトにもあり、暖気が上へ逃げて、フォガラ(イランではカナート)、つまり地下水路を通ってきた冷水の冷気が部屋に届く、これらの機能を組み合わせた住宅があった。エジプトは暑いので、冷房は必要ですよね。
中王国時代以降、太陽神ラーと、太陽神兼大気の神アモンが同一視(習合)され、アモン=ラーと言われたことは書きました。もちろん、冥界を支配するオシリス神、冥界の入り口で現世の行いを判定する犬/オオカミ/ジャッカルの頭のアヌビス神、現世を司るホルス神などは従来通りに信仰されています。オシリス神の妹はイシス神です。ホルス神を処女懐胎で産み、マリア信仰へ影響します。
偶像崇拝について。神そのものを崇拝することを求める。これを規則とする宗教では、神以外の物(神の似姿の像も崇拝してはいけない、それは神の偽物だから。)=イコン/iconは神が顕現するための、神に通じるための単なる通路、toolであり、それ自体を崇拝しているわけではないからいいと解釈されています。例えば、スマホで神に電話をする。そのスマホはiconです。スマホはあくまで道具であり、ありがたい道具ではありますが、スマホを神のようにありがたがりはしません。十字架や聖像も同じという考えです。だから使っていい。
イスラームのカアバ神殿の隕石も崇拝ではないからいいという理屈。何が偶像かは結局人間が決めるから、解釈次第でよその人から見たら偶像でも、その人にとっては偶像ではなくなる。偶像崇拝禁止はあってないようなもの。イスラームでは人物画も描かない方がいいとされています。ムハンマドさんの顔は絵でも塗りつぶされています。一度は描いたってことですよね。610年の天啓(天からの啓示。預言が与えられたとき)があった時の絵が有名です。そこに天使ガブリエルの顔は描かれているんですよ。これはなぜいいのでしょうか?よそから見ると不思議なんですよね。シーア派はムハンマドさん以外の人物画はいいということになっています。イランの宗教指導者の大きな写真が広場にあったりしますもんね。
昭和前半までの日本では天皇の写真を御真影(ごしんえい)と呼び、天皇そのもののように大切に扱っていました。日本人には絵・写真・銅像も道具ではなく、ありがたがる偶像と認識する気質、文化があるのかもしれませんね。だから絵踏みがつらい。逆に芸能人の大きなポスターを写真に撮ったり嬌声を上げる人もいますよね。
キリスト教徒は両手を組み合わせて祈ります。手を組む場合は親指が重なり、十字を作る。十字架を表しているそうです。
日本のキリスト教徒/キリシタンのうち、手を組むのではなく、仏教徒のように手を合わせるのは隠れキリシタンの伝統かもしれなくって、「恐らく九州のカトリックに多いのではないか」と先生が言っていました。仏教徒を装わざるを得ない状況でしたからね。そうかもしれません。
「キリスト教徒が上を見上げるのは天に神がいるからである。神への賛歌も歌う。神道は神があらゆるところにいる。仏教は仏が心の中にいるから、必ずしも上に向かって祈る必要はない。太陽神やアマテラスへは上へ向かう必要がある。」と先生が言っていました。
興味をもったところを更に詳しく知りたいなら、以下の参考書を利用してくださいね。
「アナトリア発掘記 ~カマン・カレホユック遺跡の二十年 」(大村幸弘.NHKブックス 2004年)
「古代メソポタミア全史」(小林登志子.中公新書.2020)
「世界の歴史1人類の起源と古代オリエント」(中央公論新社)
例えばシュメールや古人類、現代(1945以降)に関しては、研究がすすむと従来の歴史学の常識が覆されていきます。疑問点、空白部分が埋められていきます。だから、そのテーマの最新の(まともな)資料ほど研究成果が反映されているのでお薦めということになります。
エジプト、メソポタミア通史(歴史全般)や、時代に関わらないテーマ(国民国家とは何か、のような)に関しては最新のものでもさほど優れているとは言えません。だから一般向けの通史なら、いわゆる良書と言われるものなら古くても構いません。
アーリア人、ヒッタイト人に関する一般向けの最新の本はなさそうです。
□□インド
BC2100年頃、インダス文明が衰退します。原因は環境変化が有力。
複合的な要因があるとされていますが、先生は
「余は同時期のメソポタミア文明に注目している。インダス文明はシュメールやアッカドなどと交易をしていた。そうしたインダス文明との海上貿易を主導していたシュメール人、アッカド人の王朝が、アムル人などに征服されることで、インダス文明との貿易が停滞した。インダス文明の、特にロタールなどがあるグジャラート州の都市文明はシュメール人が来なくなったので威信財の獲得ができなくなった。ペルシア経由の道も、そのころにインドヨーロッパ語族が入って来て、通りにくくなった。威信財は珍しい貴重品で、それを持っていると「おお!この人すごい」と思われるので、地位の向上や維持に役立った。その再配分をすることで、「ありがたやー」と他の人が腰を低くする。こうした威信財の獲得と再分配で成立していた首長中心の都市ネットワークを維持できなくなり、ネットワークが崩壊した。」と言っています。
インダス文明というのは、権力者と関係のある沐浴場、城砦、インダス文字と、民の土器などの二層に分かれています。
インダス文明の衰退(BC2100年ころ)、崩壊/滅亡/解体(BC1800年ころ)というのは、権力者の文化が消えたという意味です。
インダス文明の依存する河川が隆起して流れを変えたので、大都市から離れてしまうことはあったようです。そうすると、水の確保、河川を利用した交易が難しくなるので、衰退していったというのが学者の有力な意見になっています。寒冷化でヒマラヤの氷河から溶け出してくる水が減って、川の流量が少なくなった、つまり勢いがなくなったので、流れが変わったり、人口を維持できる水を確保できなくなったこともあるでしょうね。そうなると、水不足で農耕も崩壊してしまいます。
BC2100年頃、恐らくヨーロッパ、中央アジアなどが寒冷化します。植生が変化し、草食動物が南下し、馬を飼う人たちも南下し、肉食動物も南下します。ヨーロッパから歴史的インド地域へは、BC1500年ころにインドヨーロッパ語族のアーリア人が南下してきます。アーリア人は地中海沿岸から来たという説がありますが、エジプトもシリア沿岸部もギリシアも当てはまるので、よくわかりません。受験ではヨーロッパから来たということで憶えておきましょう
インダス文明の権力者の文化はBC1800年には解体しているので、歴史的インド地域へアーリア人が流入したときには、もう組織的に対抗できる力がなかったんでしょう。
歴史的インド地域とは、21世紀のアフガニスタン南部や東部、パキスタン、インド、ネパール、ブータン、スリランカ、バングラデシュを含む名前です。教科書でインドと書いてあったら、基本的にこの歴史的インド地域のことです。
BC1500年頃から戦闘馬車/チャリオットを持つアーリア人が繰り返して侵入するようになるとインダス文明の担い手であるドラヴィダ人は南に追い込まれます。この後、ドラヴィダ人は南下し、南で暮らしてタミル人と呼ばれるようになったり、アーリア人と同化してインド人と呼ばれるようになったり、スリランカに渡ったりもしました。アーリア人はインダス文明の権力者の文化を受け継がずに、部族国家を作ります。牧畜と狩猟が業です。ラジャ/ラージャと言われる首長が率いています。マハラジャは大王を意味するので、ラジャは王を意味するようにだいぶ後でなります。
このBC1500年からBC1000年までは、前期ヴェーダ時代と言います。
ヴェーダは神への賛歌のことで、キリスト教で言う聖歌です。
□□中央アジア
たぶんこの時代の最初と最後にヨーロッパ、中央アジアなどが寒冷化します。植生が変わって、草食動物が南下して、それを追って馬を飼う人たちも南下して、肉食動物も南下します。中央アジアでは農耕をやめて移動しやすい遊牧民に変化します。BC1900年頃、一部は青銅器段階に入ります。BC1400頃、大体が青銅器を使用する段階に入ります。
□□中国
三帝五皇の時期を過ぎると、伝説ではBC2070/2050頃、夏を建国した禹(伝説の人)以降は世襲をします。つまり血のつながりのある人が王になる。桀(伝説の人)までの17代続きます。この時代は夏王朝の時代と言いますが、この国が実在したかどうかは定かではありません。中国を中心とする研究者は既に実在は疑いないとしている。「二里頭文化」と言われる黄河中流域、黄河が北から南へ下りて来る辺りにあった多くの集落の文化が、夏だとしています。これが国と言える規模、王朝と言える実質を持っていたか、村だったかどうかは研究者によって意見が異なります。実際には都市国家/大邑に到る前の段階の邑だったのではないかと先生は言っていました。
夏は王国ではないと考える学者は、2万人以上の人口に、官僚組織、城砦、祭祀長などの条件が満たされていないから、王国でないと言っています。
BC 2000年頃、文明の中心が黄河下流域に移って轆轤(ろくろ)を使った薄手の磨研土器である黒陶(祭祀用)や灰陶(生活用)で有名な竜山文化(ロンシャン文化)を生みます。黒陶文化とも言われます。三足土器が有名で、細い三本脚を持った鼎(かなえ)、大根のような太い三本足(中空、つまり中は空洞なのです)を持った鬲(れき)などが発掘されています。鬲は炊事用に使ったと考えられています。太い脚の間に薪を置いて燃やすと、容器の底へ直接火が当たるだけでなく、脚を通じて底へ熱が伝わるから、容器に入れた水が早く沸騰する、つまり効率がいいということです。短い時間で済めば、待ち時間は短く、薪も少なくて済み、敵や動物がいつ襲ってくるかわからないのに、気を緩める時間を短くできます。匂いは風上には届きませんが、火はどこからでも見えますから、あそこに食事をしている人間がいると分かることは危険なのです。だから短い時間で煮炊きを終えることは大切なんです。竜山文化の範囲は遼東半島から長江流域までとも言われます 。代表的な遺跡は、山東省の城子崖遺跡。山東半島の付け根よりも内陸にあります。代々の皇帝が就任式を行った泰山の東にあるから山東省と呼ばれます。BC1700年頃、都市国家段階、青銅器段階に入ります。
BC1600年頃? 商(自称)=殷(他称。のちの「史記」にはこう書かれています)という国がそろそろ生まれてきたらしい。
BC1560年頃、夏は最後の王である桀(伝説の人)が暴君だったので、滅ぼされます。滅ぼした側が正当化するために、滅んだ国や王を悪く書くのはよくあることです。家康は秀吉を、明治政府は徳川幕府を悪く書きましたもんね。
湯王(実在の人物)が殷を作ります。最初は夏の遺民を監視するために偃師商城、同時期に東に王都の鄭州商城を造ります。(二里頭ではなく)「二里崗/二里岡文化圏」のあたりの多くの場所をさまよっていて、王位継承の争いで王権が不安定になり五度も遷都したとも言われ、最後に河南省の安陽県/市小屯村に定着しました。第19代磐庚帝の時です。都市名は自称が(大)商邑。他称が殷墟。殷の廃墟ではなく「墟」は処、市の立つ町、市場の意味です。但し、廃墟になった遺跡名としても殷墟とも呼ばれています。祭祀センターであり、政治都市ではないという説もありますが、神権政治で祭政一致だから、その説はおかしいと思います。王はここにはいないという意味なのかな。神意に頼る神権政治=祭政一致/政教一致。ちなみに、のちの周は礼政一致です。これを比較して理解しましょう。入試で出題されます。
西北の遊牧民(羌と呼んでいた)を人身御供、殉葬者にしていたようです。
商/殷の時代に、占いの文字である卜辞を使っていました。「卜」は下に口がついて「占」と書くので、占いと同じ意味です。「辞」は、文字の左側に「舌」がついているので「言葉」の意味です。「祝辞」と使うことからもわかります。BC1400年頃、これが変化して、甲骨文字を生みます。亀の「甲」羅や動物の「骨」(牛の肩甲骨など面の広い骨)を焙ったりして獣骨占いをしていたので、この名がつきました。亀裂によって吉兆を占っていたようです。王がこれを命じていたので、神権政治なんです。亀裂の形を表したのが、「卜」の字とも言われています。甲骨文字は、漢字と言っていい段階です。解読したのは、王国維、羅振玉、白川静です。
この時代の集落/都市は大邑-族邑-属邑など規模別に名前があり、大邑がその地域を仕切っています。商は大邑だったので、大商邑と自称しました。つまり、国号は商だけでもいい気がします。城塞都市国家を邑と言います。この都市連合を邑制国家と言います。殷/商はこの段階です。インダス文明や、のちのアテネのデロス同盟のようなものですね。
もちろん農耕もしていました。木の二股に分かれた部分を使った耒(らい)で、土を耕す、畝(うね)を作るなどしていました。手前に引くことで二つの溝を掘って、周囲の土が真ん中に集まるようにして土を盛り上げる、つまり畝を作る。恐らく土がうねるから畝といいます。溝/凹を掘ることは主眼ではなく、畝のほう/土の盛り上がり/凸を作ることに主眼があります。野菜を畝に植えると、自然と水はけがよくなりますからね。溝を掘るというと灌漑を思い浮かべますが、灌漑の必要な田はしていません。畑作です。
この頃には離れた文化圏にも殷の形をまねした青銅器の酒器が副葬品として作られます。殷のデザインは権威、ブランドだったんですね。殷の勢力は北部でまとまっていきます。同時期に、渭水には先周文化があり、長江の上流には三星堆文化。長江の下流には呉越文化がありました。
四川省の成都北方(南東の位置に誤って記された史料集があるので注意)に青銅器文化の三星堆遺跡が発掘されています。目玉の飛び出た青銅仮面や、三つ編みにした青銅の顔に金の仮面が被せられたものが出土(発掘されたこと)したことで有名です。石とは異なる素材が手に入った時に、食器や斧ではなく、仮面を作るということは、仮面が、その人たちにとって大切だったということがわかります。例えば神や精霊や祖先や動物の力といった、祭祀を通じて得られるものが小刀や鏃(やじり)よりも有用だったということです。独自に発展した説がありましたが、最近は青銅器時代に入っていた商/殷と相互に影響し合っていた説が有力視されています。恐らく青銅器は中国へは西域からオアシスの道(後でシルクロードと言われます)か、もっと北のロシア南部やモンゴルの草原の道を通じて入ってきたと考えられています。オリエントはとっくに青銅器文化の段階でしたからね。遊牧民は中国やオリエント、ヨーロッパの文化を伝えてくれるんですよ。農耕民と違って馬で早く移動しますしね。彼らにも威信財は必要なので、交易はしているんです。
21世紀に山岳地帯で暮らす少数民族が、かつて三星堆遺跡の文化を担った人たちではないかという説があります。三星堆遺跡は目玉の飛び出た仮面で有名で、縦長の目とも言われます。古来中国では縦目人を追いやって、この世界をわれわれ横目人が支配したので、いつか縦目人が襲ってくると言う伝説があります。先生は「余は、これは三星堆遺跡の人たちと争った漢人が報復を恐れて伝承していったのではないかと思っている。」と言っていました。
三星堆遺跡の文化は金沙遺跡の発掘で、(周と同時代の)古蜀王国に継承されたと分かっています。
BC1500年頃には中国南部から現代のタイ人、カンボジアのクメール人、インドネシア人になった人たちがインドシナ半島に南下を開始していきます。まだ到達はしません。21世紀の中国の範囲にとどまっています。
この時代の威信財、装飾品としては玉器(ぎょくき/ぎょっき)があります。玉でできた道具。玉は美しい石のことで、中国では代表的なものが翡翠/ひすい。特に西域の和田/ホータンの玉が最高級品とされ、装飾品として加工されていました。BC2950年頃から珍重されていたようです。日本では縄文期に糸魚川の翡翠が使用されてしました。「翡」が赤色(緋に通じるからでしょうか)または雄のカワセミで、「翠」(ミドリとも読みます)は緑色または雌のカワセミを意味するそうです。カワセミもきれいですもんね。
□□日本列島
BC2000年頃、製塩職能集団などが見られます。職能(ある分野に特化した職業人)の分化、それを交易する集団、消費する集団がいたということです。また日時計や土偶の多様化(ハート型の頭など)が見られます。
晩期の縄文時代、東北では世界的に珍しい皿が登場します。火にかけるのは深くない鉢です。台も付いています。火を底面にあてやすく、共用か祭壇用だと考えられています。土瓶は世界的に珍奇だそうです。
□□アメリカ大陸
□□中米 BC2100-BC1200
メソアメリカ文明。メソ・ポタミア(川の間)から分かるように、南北アメリカの間だから、メソ・アメリカと言います。メソはギリシア語で「間」「を通して」。なぜギリシア語なのかは不明ですが、メソポタミアから連想して付けたのではないでしょうか。
BC1200年頃、メキシコ湾沿岸部にオルメカ文明(~BC400/300年頃)が生まれます。事実かどうかはわかりませんけど、受験生は寒冷化したから、南下した集団が集住して文明を作ったと憶えてもいいかもしれません。
教科書によってはBC10世紀の記載があります。
先生は「実際はBC1500年頃から定住と都市が見られるので、余はその段階を持ってオルメカ文明というのが適当と思う。」と言っています。
オルメカ文明では、サン・ロレンソやラ・ベンタ、トレス・サポーテスなどの祭祀センターが有名。宗教を使って、統一事業に力を結集させたようです。オルメカでは巨大な頭部の石像(3mはある)が有名です。先祖を戦士の姿で表現していると言われています。我々の先祖はこんなにすごいということを誇示したかったんでしょうかね。
エピ・オルメカ文字(オルメカ継承の意味)。1986 年にラモハーラ村近郊でアクラ川の泥の堆積の中から引き上げられた第1のステラ/石碑は高さ2メートルの玄武岩、縦二列に465文字と支配者の像が刻まれていました。AD143 年とAD156年に刻まれたようなので、オルメカが滅んだあとですね。だから、継承と言うんでしょう。ロゼッタストーンのように多言語の併記はないので解読が難しい。言語学者のテリー・カウフマンと碑文学者のジョン・ジャスソンが一応は解読しました。エピ・オルメカ文字を刻んだ石碑は4つだけで、文字体系全体を知ることはまだできません。
だから、受験生はサポテカ文字が、複雑な文字体系を持つメソアメリカの最初の文字ということで理解してもいいと思います。
マヤ地域(BC1800-1000先古典期前期)はトウモロコシの焼き畑で移住生活をしています。
メソアメリカ文明では、水神信仰があります。
□□南米 アンデス文明 BC2100-BC1200
BC1800年頃、土器を作り始めます。土器は壊れやすい、その土器を作るということは、移動しないということ。つまり定住の証拠です。この時代に定住を開始したと言えます。アンデス地方の一部に神殿都市が生まれ始めます。日本で言えば寺町。寺社の周辺に町が作られていきます。灌漑を伴う集約農耕に先立つものなので、恐らく神殿を中心とした都市で、周辺の農村から食料を運んでくる。または、儀式の期間だけ人が暮らすのかもしれません。エジプトでも一時的と言われていたナイル川の西側にピラミッド都市のようなものもあったようだと考えられているので、アンデス文明の神殿都市も定住かもしれませんね。砂・粘土・植物の繊維をまぜた素材(まとめてアドベと言われます)で神殿などが作られました。大型の公共施設もあります。
今回はBC2100年頃-BC1200年頃の世界について書きました。次回は
BC1200年頃-BC750年頃について書きます。ヒッタイトやバビロン第3王朝の滅亡、エジプトの衰退があって、勢力の入れ替わりがある混乱期ですね。
次の皆伝 世界史05はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/n161147e79188
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