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皆伝 世界史探求10 BC27年-AD184年

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ローマの帝政が始まるBC27年から、中国で黄巾の乱が起こるAD184年までの時代です。もう紀元後です。

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□□サハラ以南アフリカ

AD1C頃から、アラビア人、ペルシア人、インド人は東アフリカに来て交易をします。
AD2C、大昔にカメルーンのあたりを出発したバントゥー系の人たちがアフリカ東部へ至ります。そこで先住者と出会って、多くの方言を生みます。

□□ヨーロッパ

AD9年、ゲルマン人がトイトブルグの戦でローマを撃退します。これを受けて、アウグストゥスはライン川とドナウ川を結ぶ線をゲルマン人とローマの境と決めます。これ以上は進撃せず、防衛に徹するという方針です。

□□ローマ

BC27年、帝政前期の開始。元首制/プリンキパトゥス時代=共和政を装った帝政。
初代皇帝(BC27年-AD14年)はオクタヴィアヌス。尊称はアウグストゥス/尊厳あるもの。自称は謙遜してプリンケプス=訳は「第一の」。入試では、「ローマ第一の市民」「平等者中の第一人者」という意味を問われます。筆頭の元老院議員を意味する造語で、元首(国家代表者)と言えるので、元首制と言います。皇帝はインペラトール/エンペラーと言われますが、彼の時代はまだ全軍司令官程度の意味があるだけです。またツァー、ツァーリを皇帝と訳す場合もありますが、これはカエサル/シーザーの名前の読み替えです。オクタヴィアヌスはカエサルの養子なので、カエサルという名も持っていたんですね。オクタヴィアヌスが皇帝ならば、カエサルと言っても皇帝という意味になるという理屈です。皇帝は世襲ではありませんが、同じ家柄、一族から出ることはあります。
オクタヴィアヌス以降だいたい200年間(BC27年からAD180年の五賢帝末まで)は、ローマ領内はパクス・ロマーナ/ローマの平和と呼ばれる比較的、安定した時代です。
オクタヴィアヌスに依頼されて、リヴィウスは142巻に及ぶ「ローマ建国史」(Ab Urbe Condita Libri日本語に直訳すると「都市建設以来の本」)を20年近くかけて書きました。なぜこんなことまで書くのかと言うと、オクタヴィアヌスの同時代人だから1世紀の人だと思い出しやすいからです。憶えるときには、思い出すためのヒント、鍵を自分で考えておくといいと先生も言っていました。ラテン文学の最高峰と言われるのは、ヴェルギリウスの「アエネイス」ですね。ローマ建国の叙事詩で、トロイからイタリアに逃げてきたアエネイスの活躍を描きます。詩人のオヴィディウス/オウィディウスは「変身物語/メタモルフォーゼス/転身譜」という叙事詩や、「愛の歌/恋の技法」で有名です。AD8年、裁判もなく、皇帝の一存でルーマニアのトミス(21世紀のコンスタンツァ)に島流しになりました。定説のない文学史事件と言われていて、配流はなく、そもそもオウィディウスの妄想だと言う学者、皇帝暗殺の謀議に関係したのが理由だ言う学者、詩の中で皇帝を揶揄(やゆ。からかった)したからだと言う学者がいます。

オクタヴィアヌスの統治五原則は社会の安定を意図したもので、
①ラテン人は雑婚禁止。ペルシア人、ゲルマン人、ガリア人などと結婚して子をもうけてはならんと言うことですね。
②軍の安定策として軍人に市民権を付与
③軍隊粛清と軍備縮小でクーデタと財政悪化を防止
④属州政治の改革。属州税の請負人を廃止して、富と人口に相応した課税にします。恣意的(勝手)に重税を課せないようにして、暴動を防止します。
国境制定=ライン川、ドナウ川、ユーフラテス川。ゲルマンとの境界は西がライン川、南がダヌヴィウス川(ラテン語)/ダニューブ(英語)/ドナウ川(独語)。

ローマはAD9年にドイツに侵攻しましたが、トイトブルグの戦でゲルマン人に敗れたことで、侵略拡大をやめたんです。そして、③軍備縮小、⑤国境制定の政策をとります。専守防衛を基本としたんです。こうすることで戦争は減りますし、財政は安定します。

平和になるので、軍の駐屯地は商業都市へ移行します。ウィーン、ロンドン、フランスのパリ、リヨン、ドイツのケルンなどがそうですね。入試ではロンドンはケルト人、ゲルマン人が作ったのかローマ人か作ったのかと出題されます。大きく分ければ、フェニキア人は地中海南部、ギリシア人は地中海北部、ローマ人はヨーロッパ内陸部に都市を作っっています。もちろん例外もあります。アルジェリアのセティフは元々あった都市の近郊にローマ人が入植して拡大した都市です。ちなみに、中国では軍団基地を鎮と言います。景徳鎮は元は軍事基地だったと分かりますね。日本の鎮守府も同じです。都城市もそうなのかな。

属州の復興も促します。標準的都市計画にのっとって、市場、公共ホールであるバシリカ、円形劇場、公共浴場、図書館の設置を進めました。ローマと言えば、法学、インフラや建築が代表的な文化です。これを表すのに有名な言葉が「ローマは一日にしてならず」です。「ドン・キホーテ」(17Cセルバンテス)に記載されていると目にしますが、実際はドン・キホーテはスペイン語で「サモーラは一時間では落城しない」と言ったんです。サモーラなんて誰も知らないので、英語版の出版時にローマに、落城しないは一日にしてならずに意訳されたそうです。
建築と言えば、BC25年にパンテオン=万神殿がオクタヴィアヌスの友人アグリッパによって建設されています。後で壊れるんですが、AD120年にハドリアヌス帝治下で再建されています。
南フランスのガールにある水道橋はBC19年に作られています。水道は地下や橋を通ったりして、山から都市へ運ばれるんです。難関大学だと、スペインのセゴヴィアにある水道橋も出題されます。
コロセウム/コロッセウム(ラテン語。21世紀のイタリア語ではコロッセオ)はAD79年に完成。建設当時の正式名称はフラティウス朝の治世なので、フラウィウス円形闘技場。 四階建てですが、21世紀には四階はごく一部だけが残っていて、一見して三階建てに見えます。火山灰のコンクリートで建造されていて、ギリシア建築のドーリア式・イオニア式・コリント式の三様式を使用しています。大きさは長径188m、短径156mの楕円形で、周囲の長さは527m、高さは48m、4万人-6万人を収容したそうです。ネロ帝の巨大な像(コロッスス)が傍らに立っていたので、それと混同してコロッセウムと呼ばれるようになったと言う学者がいます。巨大な建物だったので、巨大なものを意味するコロッセウムと呼ばれたと言う学者もいます。面積は24000m²で、丹下健三さんの設計した代々木第一体育館は25,396㎡なので近いかな。ちなみに東京ドームは高さ56m 46755㎡(約14,168坪)の面積、グラウンドは13000㎡。甲子園球場は 約38,500㎡の面積 グラウンドは13000㎡です。
コロッセオの造られる前から剣闘士はいましたが、コロッセオは見世物の最大の劇場になりました。動物同士、動物と剣闘士、剣闘士同士がここで戦います。床下からのせり上がり機能があって、水を張っての海戦もあったようです。21世紀の遺構では床がなくなっていて、床下の構造が露出しています。パンと見せ物とはユヴェナリスという人の言葉ですが、元老院議員などが穀物配給と剣闘士試合などで市民の歓心を買って、権力を維持するのに役立てたようです。買収に近いんですが、当時はお金のなくて困っている人を助ける、公共建築にお金を出して都市を活性化して、失業対策もするので、政治家として適任と思われていたのかもしれませんね。

専守防衛ですが、戦争はありますし、征服した都市の再編もあります。BC15年にはオーストリアに相当するノリクムを属州化しています。属国としていたユダヤのヘロデ王がAD4年に死去すると、AD6年ユダヤ属州を設置しています。AD10年、ハンガリーに相当するパンノニアを属州化。
AD14年-AD37年のティベリウス帝は、小アジアのカパドキア/カッパドキアを属州化。
37年-41年在位のカリグラは毒殺されましたし、41年-54年在位のクラウディウスも毒殺されました。クラウディウスの教師は、オクタヴィアヌスに頼まれたリヴィウスがしていました。この間に4年間だけユダヤが再独立しています。46年、ギリシア東部のトラキヤを属州化。
54年‐68年のネロ帝は自死しています。都ローマの大火をキリスト教徒のせいにして64年から第一次キリスト教迫害をした人です。ローマでパウロ、ペテロが刑死になったのもころころではないかという伝承があります。因みにネロ帝の家庭教師をしちたセネカも自死に追い込まれました。ネロの死去で、オクタヴィアヌスの親戚が帝位を世襲する時代は終わりました。このあとも自死、暗殺、戦死が続きます。
66年~70年に第1回ユダヤ戦争がありますが、69年-79年在位のウェシパシアヌスが抑え込んで、イェルサレム神殿/ヘロデ神殿を破壊しました。
79年にはナポリ近郊のヴェスヴィオ山が噴火します。ポンペイという都市が埋まったことが有名ですね。イプソスの戦の壁画もここで見つかりました。「博物誌」を書いた大プリニウスは海軍を率いて様子を見に行ったところ死去しました。有毒ガスが原因だと学者は考えています。
ドミティアヌス帝の治世下、83年にはドナウ川、ライン川に長城を着工します。このころになると属州にもラティフンディウムができるようになりますが、戦争はないので消耗品と考えられていた奴隷のイタリア半島への流入が減ります。イタリア半島では人手不足で大土地経営が不振になって、小作制へ移行します。農業奴隷/農奴から昇格して小作人になるんです。
平和が続いて、支配地が拡大すると、交易も貨幣経済も拡大します。
属州とのつながりでは、チュニジアの小麦、ギリシアのオリーヴ、エジプトのパピルスと染料、ガリアの赤色陶器、ヒスパニア(イベリア半島)のワインが輸入されます。領土外との交易もあります。ローマからは金属、金貨、ガラス、ワイン(ヒスパニアからは輸入してイタリアからは輸出)を輸出して、インドからは香辛料、中国からは絹を輸入します。貿易品は入試でよく出題されます。

96年-180年は五賢帝時代と言われます。
帝の名は短い順だから、憶えやすいですね。
4文字 ネルヴァ
5文字 トラヤヌス
6文字 ハドリアヌス
長い  アントニヌス・ピウス
やたら長い マルクス・アウレリウス・アントニヌス

第10代の皇帝が96年-98年のネルヴァ。
98年-117年がトラヤヌスで、オクタヴィアヌスの指針があったのに、ドナウ川を越えてダキアを獲得します。先生は「ダキヤだきゃー欲しかったんだと憶えよ」と言っていました。パルティアと争って、メソポタミアも支配しています。だからローマの歴史で最大版図を達成しています。アラビア半島を属州化もしています。属州出身の初の皇帝ということが出題されます。この人は、イベリア半島のアンダルシア(ヒスパニア・バエティカ属州)のセヴィージャの近郊のイタリカと言う都市で生まれたそうです。

この頃には同時代人はもう帝政になったなと意識しています。ゲルマン人の習俗に詳しい「ゲルマニア」を著したタキトゥスは、「年代記」で共和制を懐かしみつつ、オクタヴィアヌスの死(紀元14年)からネロの死(68年)までの4代55年の治世を書いています。「同時代史」という著作もあります。
ガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥスは、名前が長いので小プリニウスとも言われます。彼の叔父で、養父のガイウス・プリニウス・セクンドゥスは大プリニウスと言われています。文筆の記録としては、「書簡集」、トラヤヌス帝への「頌詞」が残っています。

117年-138年はハドリアヌスブリタニア(グレートブリテン島)にハドリアヌスの長城/城壁を造りました。キリスト教を迫害しています。131年の第2回ユダヤ戦争を抑え込んだのもこの人です。この頃、ローマはアルメニアを支配します。
138年-161年アントニヌス・ピウス

第14代が161年-180年在位の哲人皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスです。「自省録」という本を書いています。記憶の限りでは、別荘にいて、臣下の出世だとかについて考えたり、日常的なことが書いてあります。この人はヘレニズムのストア派の研究者でもあったので、知識人の言葉であるギリシア語で書いているということは出題されます。当時のストア派の三哲人とも言われていて、ほかの二人は「幸福論」が有名な、ネロの家庭教師としても知られているセネカ、解放奴隷(奴隷から解放された人)で「語録」を遺したエピクテトスです。
この人もキリスト教を迫害しています。皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスの侍医(かかりつけ医)と言えば、ガレノスです。初めて解剖を解剖学として体系化したと学者は言っています。

中国では大秦国の安敦王として知られているんですが、マルクス・アウレリウス・アントニヌスの使者だと主張する人が166年、海路でヴェトナムの日南郡に到着しました。日南郡は前漢の武帝が設置したんですよね。商人が入国の利便を考えて騙ったと学者は言います。ローマには記録がないからです。70年くらい前には甘英さんがパルティアまでは来ています。東西の交流が各々の側からあったと言えます。

この時代のローマでは、ダルマティカ(長袖)が普及し始めます。この頃から服も機織りが始まっています。

建築と法学はローマ人の得意だと書きましたが、実学でない哲学、文芸などは占領されたギリシア人が得意なんです。ギリシアで活躍した人もいれば、都のローマに来て活躍した人もいます。詩人のホラティウス/ホラチウスは「歌章」で、「征服されたギリシア人は猛きローマを征服す」、または「征服されたギリシアが野蛮な勝利者を征服し、数々の学芸を粗野なラティウムにもたらした」と名言を残しています。BC63年-AD8年の南伊人なので、マグナグラキアを考えると、ギリシア人の血筋かもしれませんね。「歌章」には、オクタヴィアヌスの要請で書いた「世紀の賛歌」が含まれています。
エピクテトスもそうですし、「天文学集成/アルマゲスト」で天動説を主張したプトレマイオスもギリシア人です。中世のヨーロッパの宇宙観に大きく影響しました。当然ですが、アレクサンドロス王の部下のプトレマイオス(プトレマイオス朝エジプトの建国者)とは別人なので、受験生は気を付けてください。
プルタルコス(英語ではプルターク)は「対比列伝」で有名です。日本では俗名「英雄伝」としても知られています。テーセウス・ロムルス、アレクサンドロス・カエサルなどギリシア、ローマの英雄を対比させて、セットで記述した伝記です。BC5世紀、「人間は万物の尺度」と言ったプロタゴラスは別人です。名前が似ているので受験生は注意しましょう。
ストラボンは「地理誌」で有名です。
地理と言えば、「エリュトラー海航海記」は頻繁に出題されます。エリュトラー海は、狭い意味では紅海なので「紅海航海記」と訳される場合もあります。実際はアラビア半島の南端のアラビア海の古名でもありますし、内容はペルシア湾やインド洋貿易についてです。作者不明ですが、ほとんどの歴史家はアレクサンドリアの住人だったギリシア人が書いたと考えています。ギリシア語で記載してあります。ヨーロッパ圏の文献に初めて中国が出て来るので有名なんです。これを元にローマ帝国のマルクス アウレリウス アントニヌス(中国文献では大秦王安敦)の使節を名乗る一行が日南(後漢領の北ヴェトナムのフエ)に到達しました。
インド洋と紅海を結ぶ貿易は、季節風を利用してインドにヒッパルコスが到達したことに始まるという伝承があります。ギリシア人のヒッパロスが79年にこの季節風を発見したと言われていて、「ヒッパロスの風」の異名があります。モンスーンですね。4月-10月は南西から温風が、11月-3月は北東から冷風が吹くので、日本と同じです。これは帆を張れば船にとっては貿易風にもなります。

□ユダヤ

この地域にはアフリカまで続く活断層、大地溝帯があります。東側はゴラン高原などがあって高くなっています。西側は低いので水たまりが生まれます。ガリラヤ湖、ヨルダン川、死海、アカバ湾、紅海、ヴィクトリア湖、タンガニーカ湖、マラウィ湖などがそうですね。広い意味でのユダヤ地域の中にイエスさんの生まれたガリラヤ地方、イェルサレムのあるユダ/ユダヤ地方があります。書籍などで、宗教とは関係なくユダヤ人と言う場合は、ユダヤ地域人なのか、ユダヤ地方人なのかを区別しましょう。皆伝10ではユダヤ人はユダヤ地域人を意味しています。

皆伝10 ユダヤ地方 - コピー

ローマの属国としてではあるけれど、ヘロデ王がユダヤ王国を支配しています。
BC5年くらいに、ガマラのユダス、パリサイ人のザドクが、ゼイロータイ/熱心党を作ります。ゼイロータイはユダヤのナショナリストなので、外国や外国人(ヘロデはエドム人)がユダヤに介入することに反対します。反ローマ、反政府となるんです。当然、ローマやヘロデ朝からは警戒されています。

BC4年ヘロデ王が死去すると、ヘロデの遺言で、子がユダヤを分割統治しました。ユダヤ、イェルサレム、サマリアを統治するヘロデ・アルケラオスが王位を譲られます。ガリラヤ北部をヘロデ・アンティパスが統治します。庶子(愛人の子)のヘロデ・ピリポにもガリラヤ南部などを統治させました。ヘロデ・ピリポの妻はヘロデヤと言います。娘がサロメです。
ユダヤ人は世俗的なヘロデ王家ではなく、ハスモン朝のような大祭司の神聖政治を復活させてくださいとの要望をローマに出したんですが、アウグストゥスは断りました。カリスマであるヘロデがいなくなってしまえば、まとまりのあるユダヤ人などは困る存在なので、自治権のある小国家群としておきたかったんです。
ヘロデ王の死去で公共事業も途絶えて、庶民は困窮したので。暴動も盛んになります。シリア知事や総督が押さえにやってきます。王を僭称するユダヤ人もいて、各地で独自に決起していました。
AD6年ローマはユダヤを直轄地として、ユダヤ属州を設置します。シリア属州の一部となったと言う学者もいます。知事となった クイリニウスが国勢調査をしようとすると、ユダヤ人は神に仕えるのに、滅ぶ運命である人に従うのはいかーんと言って、たぶんゼイロータイが主導して決起します。

思想と哲学は倫理時代から宗教時代へ転化していきます。物事を考えるのに、神を念頭に置いて考えるようになるんです。

ガリラヤ地方のナザレでマリアからイエス(ヨシュア)が生まれます。イエスの生まれた年を紀元元年/AD1年とするのは6世紀のローマの修道士ディオニシウス・エクシグウスという人の主張によるものです。 紀元前3年.6年.7年.8年や紀元3年.5年.6年と言う学者もいますが、はっきりわかりません。誕生日も諸説あります。クリスマス12/25は誕生(降誕・受肉)を記念しての祭日をその日に指定しただけで、誕生日の当日ではありません。3月~9月のいずれかという説が有力です。日本でも2/29に生まれた人は閏なので、2/28に誕生祝いをすることにしたり、法事を亡くなった日(命日)の直近の土日に行う慣習があります。そう考えると、誕生を祝う日が当日でなくても違和感はないと言えます。クリスマスは聖ニクラウス、ケルトの収穫祭などが融合した儀式のようです。

宗教的にはイエス・キリストの誕生です。

イエス/ジェズス/ジーザス、キリスト/クライスト/ハリストス(ロシア語。 函館に有名なハリストス教会があります)などと読み替えられます。ギリシア語でキリスト/救世主/ヘブライ語でメシア/油を塗布された者/膏油された者≒王。救世主はダビデの支配したユダ王国の旧領内で生まれると信じられていたので、ナザレのイエスさんが亡くなった後に、彼は救世主だったんだという証拠として、ダビデの支配領域外ではなく、聖書ではベツレヘムで生まれたことに編集したようです。ダビデもベツレヘムの生まれです。そして、イエスはダビデ王の血筋とされました。
母はマリアさん。遺伝子上の父はローマの高官だった可能性があると言う学者がいます。婚姻前の妊娠はユダヤ教では売春婦と同じく淫乱で救い難い罪と考えられていたので、結婚できず、石工で大工でもある隣人のヨハネさんが妊娠中のマリアと結婚したと言う学者がいます。ここら辺は学者によって違う主張がたくさんあります。キリスト教ではできちゃった結婚さえもまずいので、マリアさんからの処女懐胎としたようです。つまり独りでに生まれたんです。大天使ガブリエルが「マリアさん、あなた妊娠してるよ」と告げた=受胎告知というのが有名です。
現実のマリアさんは未婚の母となってしまったので、ユダヤ教の神からは救われない存在です。子のイエスさんも救われない存在です。正統派の解釈だとそうなります。
イエスさんは悪くないのに、どうやっても救われないんです。差別なんかもされたかもしれませんね。
イエスさんは大人になって旅をしているときに、洗礼者ヨハネに会いました。そして、ヨルダン川の水で、ヨハネから洗礼を受けました。だから、この人は洗礼者ヨハネと言われます。もともとユダヤ教徒ではあるのですが、イエスはユダヤ教式の洗礼を受けたということです。生きている間に罪によって魂がけがれていくので、それを清めないといけないと考えたんですね。
西洋絵画では幼子イエスより大人ではいけないと考えられているので、イエスと共に描かれるときは、洗礼者ヨハネは幼児の姿が多いんです。

洗礼者ヨハネはエッセネ派に近い人と学者は考えています。エッセネ派は魂が汚れると肉体もけがれる、ということは肉体を清めると魂も清めつことができると考えました。それがエッセネ派の洗礼です。きちんとした人がきちんとした手順を踏めば、ただの川の水でも聖霊の宿った聖水になるんです。そしてその聖水で体を清めれば、魂も清められると考えていました。神殿で行われる礼拝に相当するものを野外でもできたということです。神殿が破壊されて世界中にユダヤ人が散っていったときには、こうした手法はユダヤ教を維持するのに役立ったでしょう。
洗礼者ヨハネは、このエッセネ派のメンバー、またはエッセネ派から学んで独自の宗派を作っていた人のようです。エッセネ派の主要メンバーも、洗礼者ヨハネのグループも街にいるとけがれるので、荒野で生活をしていました。のちの修道院に近いですね。出家と言えます。荒野のクムラン洞窟などで見つかった死海写本などを書いたのはエッセネ派のようです。
イエスも彼らに影響を受けて、洗礼などの儀式を取り入れたようです。イエスは洗礼者ヨハネのことをメシアだと言っています。

ちなみにヘロデ・アンティパスはBC4年-AD39年は比較的平穏に統治して、ローマ皇帝ティベリウスとも友好関係にありました。貴族・大土地所有者が作る「ヘロデ党」の支持もありました。隣国のナバテア王国の王女と結婚するんですが、姪のヘロデヤと結婚したい。ヘロデヤは離婚していますが、元夫はまだ生きているんです。洗礼者ヨハネは結婚に反対しました。聖書に、兄弟の妻を犯すなと書いてあるからです。ヘロデ・アンティパスは洗礼者ヨハネを聖なる人と考えて保護を与えていたんですが、ヘロデヤは娘のサロメに宴会で踊らせて、「褒美に望みの物をくれるって言ったよね?」と、洗礼者ヨハネの首を求めました。
ワイルドの「サロメ」という作品でも有名ですね。

イエスの宣教開始はAD27年頃のようです。生まれた年がわかりませんが、30歳くらいでしょうか。ナザレ出身の預言者なので、当時はナザレのイエスと呼ばれました。ガリラヤ湖畔で漁師に会って、「ついてきなさい、人をとる漁師にしてあげよう」と言われ、これが私の師だと感じてついていったのがシモンです。のちに原始キリスト教団のリーダーとなり、ペテロ(初代教皇)とも呼ばれる人です。聖ヨハネ(ゼベダイの子のヨハネ)も漁師でした。この人はスペインのサンティアーゴ・デ・コンポステーラ(ヨハネはイアコスとも読むので、サンタ イアコスがくっついてサンティアーゴ)に遺骸があると考えられています。当時の職業からすると、文字を書けるような人は初期の弟子にいなかったのかもしれませんね。イエスさんの活動期間も二年と少しですし、イエスさんの存命中に記録を残した人がいないというのも自然なことのように思います。イエスたちは家を訪ねて説教しました。ただし、聖書の解釈ではなく、神の愛を説いたんです。
ピリポ(フィリップ)、バルトロマイ(バルトロメイ)、マタイ(レビの別名)、トマス、アルパヨの子のヤコブ、タダイ、熱心なるものシモン、イスカリオテのユダの8人が初期の弟子です。十二使徒と言われるのは、イスラエル十二部族に相当するので、そう言っているだけで、特別に優遇されたり付き従っていた12人はいないようです。最終的には120人の弟子がいたようです。
質問もたくさん受けました。「マタイ伝」には、ローマ皇帝(当時はカエサルと言いました)の顔を彫った貨幣を使って納税することに対しての疑問が書いてあります。これに対してイエスさんは、「ローマ帝国への納税はローマ皇帝に忠誠を誓うこととは別で、キリストへの信仰と無関係」と書いてあります。それを示す有名な言葉は「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返せ」です。 

はじめは誰も話を聞いてくれないので、パンなどを配って辻説法をしたとも言われています。イエスたちは新しい宗教を作ろうとはせずに、ユダヤ教の形式主義的な信仰のあり方を批判したんです。特に神殿周辺の経済を牛耳って、物質主義的だったサドカイ派を批判していました。戒律厳守のパリサイ派はイエスを批判していました。

①ユダヤ教のパリサイ派、サドカイ派は戒律を守る人だけが救われる
②改革者ヨシュア/ナザレのイエスは、戒律を守れない、零れ落ちた人々、娼婦や私生児(ヨシュア)やシングルマザー(マリア)を救います。けれど、神の与えた戒律に背く人を救うのだから、救うものは神の愛でなければならないと考えました。だからイエスは人であり、神なんです。
③16世紀のプロテスタント。教会ができる前のユダヤ教の原点に戻るとも言えます。教会の権威を否定します。聖書にすべてが書いてあると考えます。

洗礼者ヨハネやイエスのような預言者は、この時代にも数人は知られていましたが、預言もするし、治癒もするし、説教もしていました。地域のカリスマだったんですね。庶民にとってみればいつだって戒律をやかましく言う人よりも、奇跡を起こして、面白おかしく法話をしてくれる人を気に入ります。神殿で儀式をするパリサイ派からすると、礼拝もしない戒律破りだし、戒律でなく奇跡によって救済をしようとしているので正統でない異端だし、人気もあるのでこっちの権威が落ちるしで、イエスめーと思っていました。もちろん、この地を支配するヘロデ王の家系も反政府のグループを率いそうなカリスマが現れるたびに、非合法的に即興裁判をして死刑にしていました。イエスもその一人とみられました。
イエスは自分では預言者と呼ばれるのは受け入れていたんですが、メシアとは名乗っていません。弟子たちは、のちに預言者と言う記録は消していきました。メシアでないと都合が悪いのです。そしてメシア信仰を作り上げていったんです。
イェルサレムには何度か来ていたようですが、亡くなった友人ラザロを復活させたという噂が耳に入っていたAD30年には、民衆はナザレのイエスを歓迎しました。この時は、過越の祭りという出エジプトを記念するユダヤ教徒にとっての大事な祭礼で、世界中からイェルサレムへ巡礼に来るんです。宗教心が高揚するときなので、説教者、預言者、律法の教師もこぞって話をしますし、反ローマ熱も生まれやすいんですね。
イエスさんは神殿に行って、供儀に使われる動物を売っていたりする人、商売人を鞭で追い払ったと伝わっています。聖域での売買は、神への冒涜と考えたんですね。けれど、神殿の大祭司が輩出しているサドカイ派などはそれを許可した側ですし、神殿の規律を破ったものと考えました。このままだと権威も落ちてしまいますしね。権威が落ちればローマはもっとユダヤに介入してきて自治権を奪ってしまうと恐れてもいたようです。イエスさんが反ローマの人たちにで担ぎ出されても困りますしね。
イエスさんはシオン山のいわゆる二階の間で、弟子たちとご飯を食べていました。最後の晩餐と言われます。イエスさんは「私を裏切る者がいる、私からパンを受け取ったものがそうだ」と言います。その人が後で裏切ってイエスさんの居場所を神殿側に教えたイスカリオテ(出身地)のユダです。ここまで言われたら、実は君にわざと私の場所を教えてほしいんだと言っているようなものだ、それでメシアになれたんだからという解釈をする人もいます。
パンを食べて食後にワインを飲むのはユダヤ人の習慣なのですが、弟子たちが、パンは身体ということにして、ワインはメシアの死去によって流された血ということにしたのは、イエスさんが亡くなった後です。日本には、正月に年神様(としがみさま)の魂(たましい)、つまりおとしだまをいただく風習があります。霊的な、魂的な儀式としての食は世界中にあるのかもしれませんね。体を食べて血を飲むというのは、カニバリズム(人肉食)を連想します。カニバリズムは、亡くなった後に、その知恵のある人や勇気のある人の体や脳を食べることで、その力が自分にも身につくという考えです。食べたら血となり肉となるという意味では、その人の一部が自分の一部になるので科学的に合理的なんですが、知恵や勇気は身につきません。そう言えば、中世のトマス・アクィナスも死後に食べられたそうです。

皆伝10 イェルサレム古代と21世紀の比較図 - コピー

(1948年の第一次中東戦争でヨルダンが東イェルサレムを占領して以来、イスラエルが占領している21世紀にも名目的形式的な管理権はヨルダン国王が持っています。)

神殿側はイエスさんがゲッセマネにいると知って、イエスさんを呼びつけて問い詰めたんですが、明確な罪を告発できませんでした。そして、この時期のサンヘドリン/宗教裁判所には死刑の権限がありませんでした。そこで、この人たちはローマの行政に任せようと考えました。そして、秩序を乱すので、かつてのゼイロータイのように反ローマのシンボルになるかもしれませんと言って引き渡したんです。ユダではなく、神殿側のユダヤ人がイエスを死に至らしめることになるので、ユダヤ人全員がキリスト教の敵とされるんです。キリスト教に改宗したユダヤ人はいいですけどね。つまりユダヤ教徒=ユダヤ人という認識が深まったんです。
このころの属州総督はピラトゥスです。反ローマ的な人物に対しては、裁判なしの処刑もしています。イエスさんを尋問したのですが、特に罪を犯したようには見えません。ですが、放っておくと危険ですよと言われて仕方なく、ゴルゴダの丘で十字架にかけます。横から見ると頭蓋骨の形に似ていて、目のような穴も二か所あるので、しゃれこうべ/ゴルゴダと言っていたんですが、郊外の石切場です。
イエスさんが十字架に磔になった時に、マグダラのマリヤさんは見守っていたそうです。ペテロさんは引きこもり、ほとんどの弟子は他の街に逃げていましたし、今までの取り巻きはみんな帰ってしまいました。関わり合いになりたくない人もいたろうし、メシアだったらこんな死に方をしないはずだとも思ったんでしょう。
イエスさんを見捨てました。
十字架刑では麻酔薬を使うので意識がなかったとも言われますが、手と足は釘づけにされています。死を早めるためか、死を確認するためかわからないのですが、兵士ロンギヌスの槍が肋骨の間を貫きました。
お祭り期間の前日とも言われるんですが、そんなときに遺体を十字架にさらしておくわけにはいかないということで、すぐに下して、清めて、洞窟の窪みに安置して、数人がかりで岩で蓋をしました。こうしたことはすべて女性がしたようです。男性はお祭りの最中にけがれることを避けるために手伝いませんでした。
亡くなったことの確認として三日後に観に行く慣例があるんですが、埋葬地に行ってみると、亡骸がないんです。
ここでは学者によって言うことが違います。誰かが掘り起こして、別のところに埋め直した。(当時頻繁にあったことですが)盗まれた。気絶していたけど起きた。
実際はわかりません。
聖書では、復活したイエス・キリストに会った人がいると記述しています。最初に証言した人はマグダラのマリアさんです。その後、多くの弟子が師匠に会ったと言っています。それで、生き返った、復活したのだと思ったんですね。だからメシアだということです。
暴行を受けて、十字架を背負って歩いて、手足に釘を打たれて、槍で刺されたので、生きているとしてもぼろぼろの体でやっぱり死にそうだと思うんです。だから気絶から目が覚めたといっても、ぼろぼろのそんな体で私は復活したと言っても、説得力がないと学者は言います。復活というと生命力が溢れているイメージですもんね。言葉は悪いのですが、死にぞこないに見えたとしたら、復活したーとは思わないでしょうね。そう考えると、メシアと考えるだけの何かがあったと考えるべきだと言う学者がいます。復活祭/イースターはそれを祝う日で、春分の日3/20頃の次の満月の次の日曜日に実施。イースターの前の45日を四旬節と言います。ハロウィーンは万聖節/諸聖人の日のイヴ/前日のことで、ハロー、イヴがなまったそうです。
その後、イエスさんは山の上で弟子に別れを告げて、雲だか霧だかに消えていきました。弟子たちは昇天したと考えます。学者は(生きていたんだとすれば、)ほかの街に行って亡くなったと考えます。
詳しく知りたい人には「歴史の中のイエス」という本があります。

その後、逃げて隠れていた弟子たちは、急に元気いっぱいで神殿に現れてイエスの教えを説き始めます。この変貌ぶりこそが何かがあった証拠(復活?)だと考えるべきだと学者は言います。やっぱり師匠はメシアだったんだーと思ったんですね。ローマの市民権を持つペテロなどはローマ帝国内を歩き回れるので、どんどん布教します。
特に、ユダヤ教徒として、イエスさんの弟子を弾圧していたパウロさんが、突如改宗して、ユダヤ教とは違う教義を考え出していったようです。
選民思想のユダヤ人の優越性に閉じこもるのではなく、全人類を救う。
知恵の実を食べて(原罪)、楽園を追放された後は不死・未来を見る力を失った人間だから不安になる。イエスが死んだのは全人類の「原罪」を背負い、みんなの代わりとして、罪を償う/贖う(あがなう)つもりで死んだ。だから、イエスが贖罪のために死んだことを信じるならば、イエス/神を信じるならば神を「愛」せ、そうすれば神に愛され「救済」される。
民族や身分に関係なく誰もが救われると言うので、最初はユダヤ教で救われない人、シングルマザー、ホームレス、娼婦、こういった人たちが熱狂して入信するようになります。
ローマの神々は国を鎮護するのが仕事なので、個人を救済することはありません。だから、たとえ死んだ後にでも個人を救済してくれるキリスト教は魅力的だったんです。

原罪と愛による救済がユダヤ教との違い。
教義を普遍化したパウロによってユダヤ人以外のキリスト教徒が生まれたと言えます。パウロの思想である「みんなの原罪を、神の愛で許し、全人類を救済する」に基づいて、ヘレニズム文化の基礎(ギリシア語世界)の上にキリスト教は普及していくんです。
ちなみに、ユダヤ教の神(ヤハヴェ)はキリスト教の神(英語ならGOD)と同じです。一神教における神は一つなので、神に具体的な名前はありません。二つ以上ならアフラマズダ、アーリマンと名づけて区別する必要がありますが、一つならいらないんです。セブンイレヴン、ローソン、ファミリーマートが近くにあれば、「ローソンに行ってくる」と言うかもしれませんが、ローソンしかなければ、「コンビニエンスストアに行ってくる」で通じます。

ローマ教皇という役職は後で作られますが、初代のローマ教皇はさかのぼってペテロとされました。

41年-44年、ユダヤが再独立。総督も赴任している属国ですが、直轄地ではなくなり自治をします。ヘロデ・アグリッパ一世が王位も認められます。死後はまた直轄に戻されました。
48年にアグリッパ二世が王位に就いて、また自治を認められます。
ローマ皇帝のネロは、都ローマで大火が起こった際に、キリスト教徒のせいにして迫害を開始しました。64年のことで、第一次キリスト教迫害と言われます。伝承ですが、ローマでパウロ、ペテロが死刑にされたのも、この頃だと伝わっています。

66年にユダヤ人の不満が爆発して、独立を目指した第1次ユダヤ戦争が勃発します。ちなみにこのAD66年から大祭司の地位はサドカイ派から、パリサイ派へと移っています。 70年にはローマ軍が半年にわたって包囲して兵糧攻めにしたので、イェルサレムは陥落しました。イェルサレム神殿/ヘロデ神殿は破壊されました。BC516年-AD70年を第二神殿の時代と言いますが、この時代が終わります。そしてユダヤ人のディアスポラ(離散)が始まります。これまでにもユダヤ人はユダヤ地方にだけ暮らしていたわけではありませんが、政治的にたくさんの人がこの地を離れたので、ディアスポラと言います。もちろん、とどまった人もいます。ローマによる神殿破壊の結果、神殿祭儀中心の古代ユダヤ教は終焉しました。ユダヤ教の学問の中心はガリラヤ地方に移って、パリサイ/ファリサイ派の伝統を基盤にして、現代ユダヤ教にまで発展するユダヤ教の原型ができます。
キリスト教の聖書である「新約聖書」は30冊前後の書の集まりで、四つの本がイエスさんの言動を記録したもので、福音書と言われます。
「マルコ伝」。人気のある名前なのでマルコポーロなど、西欧の名前に継承されていきます。マークもそうかな。マルコ福音書とも言います。AD65-80年ころに書かれたようです。
「マタイ伝」。マタイさんが伝えたとされているので。マタイ福音書とも言います。英語で言うマシューさん。マテオもそうかな。AD85年ころに書かれたようです。
「ヨハネ伝」。ヨハネ福音書とも言います。英語ではジョン。ビートルズのジョンレノンもそうですね。AD100年以降に書かれたようです。
「ルカ伝」。リュカ、ルークですね。ルカ福音書とも言います。AD70-150年ころに書かれたようです。
この四冊です。コイネ(ギリシア語)で記録されています。イエスさんが生きている間に書かれたものはないんですね。イエスさんの同時代人がイエスさんのことを記録したものは残っていません。カリスマ的な預言者ではあったけれど、支持者は庶民が多いので、文字を知っている人が少なかったことが要因かもしれません。文字を知っている人は神殿で仕事をしている敵対者ですしね。巡回説教をしていたので、一つの街に長くとどまらなかったことも影響したでしょう。説教をしていたのも2年と少しで活動期間も短いし。敵対者などののちの記録、住居などの考古学的な証拠から実在はしていたと学者は言っていますが、同時代の記録がない人なんです。
処刑された預言者はたくさんいるので、その中に紛れてしまったんでしょうね。亡くなってからメシアだと確信されたので、記録を残さねばーと思ったんでしょう。とは言え、メシアだということで記述するので、都合のいいようにイエスさんの言動を改変したりということはあります。
ユダヤ教では「聖書」は一つですが、キリスト教はユダヤ教の聖書(「旧約聖書」と言います)、キリスト教の聖書(「新約聖書」)の二つを聖なる書と考えています。イスラームを信仰する人たち/ムスリムは聖書(「クルアーン」)、「旧約聖書」の一部、「新約聖書」の一部を聖なる書と考えています。

原始教会とも言われる弟子たち/神の使徒たちの布教の様子を記録したものを使徒行伝と言います。使徒から信徒への書簡、最後の審判やキリスト再臨などの予言をした黙示録もあります。
そのうちにイエスさん、直接の弟子/使徒が生きている時代/原始教会時代は終わります。AD95年-140年は使徒後の、「教父時代」。五賢帝時代の一年前です。教父は使徒後の時代の文書家のことです。キリスト教にとって重要な文書を書く人。
だんだんと、長老制に替わっていきます。
このころ、キリスト教に、グノーシス派というものが出てきます。キリスト教+ギリシア哲学+グノーシス主義(「現世と物質は悪だから、真の世界を探せ」と主張)
そして、護教派とグノーシス派が教学、つまり何が正しいキリスト教かで対立するようになります。護教派はイエスは神であって、人ではないと考えます。グノーシス派はギリシア哲学に基づいて、イエスを人間と考えます。結局、護教派が正統派になり、グノーシス派は異教派とされました。

他の宗教としては、中東の太陽神ミトラス/ミトラを信仰する人が増えて、AD1世紀にはミトラス/ミトラ教が成立しました。牡牛を捧げて、その血や脂肪をすする密儀宗教です。これがローマ帝国に流入します。他には、イシス教なども入りました。これはエジプトの女神ですね。キリスト教が広まってマリア信仰に取って代わられるまでは、女性が信奉していたようです。

131年には第2回ユダヤ戦争がありますが、ローマに鎮圧されました。ローマはユダヤ人のイェルサレムへの立ち入りを禁止します。そしてこの土地の名をパレスティナと改名します。ユダヤ人の仇敵であるペリシテ人の名を敢えて付けたんです。ユダヤ人のディアスポラが拡大します。世界中に離散したユダヤ人は、神殿の代わりにシナゴーグ/会堂を作って、そこで祈りを捧げ、説教をするようになりました。一極集中から分散型になったんです。
132年にはバルコクバの率いた決起があって、キリスト教徒を除く全ユダヤ人からメシアであると承認もされました。彼はイェルサレムで二年半の間、イスラエルの大公/ナーシーとして統治しましたが、この公国は135年にローマ帝国によって征服されました。
迫害されている時期のキリスト教徒は、ユダヤ教のシナゴーグ(会堂。小さな教会のようなもの)を借りて礼拝をしたり、カタコンベ(都市の地下にある墓地)で集会をしました。夜な夜な地下で集まっているので、赤ん坊を食べているんだ、悪魔教だと悪い噂を立てられたりもしました。

□□東欧(エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ウクライナ)

黒海北岸では、スキタイに代わって勢力を持っていたイラン系のサルマタイ人の中でもアラン族が主導して、墳丘墓などを作っていました。牛などを飼う遊牧民です。農耕をしていたスラブ人とともにチェルニャホヴォ文化の担い手となりました。この地域のスラブ人は火葬をしています。農耕をすると定住して埋める土地が減るので、火葬になるのかな。

□□中東

BC1世紀末、パルティアが、イラン、イラク、アフガンを支配しています。
77年、パルティアでゾロアスター教の経典「アヴェスタ/アヴェスター」がまとめられます。訳注書の「ゼンド」もまとめられます。合わせて、「ゼンド=アヴェスタ/ザンド=アヴェスター」を編纂するとも言われます。元々口伝だったものが、BC4世紀のアレクサンドロス戦役で消失してしまいました。伝える人が亡くなったり、散り散りになったんです。その「アヴェスター」の口伝を収集して、書物に編集しはじめるのがAD1世紀のパルティアなんです。
ただ、地域によって内容も文字も異なるので、それをササン朝になり「これが正しい一冊の本だ!」にまとめます。入試ではササン朝のシャープール1世で編集が始まって、6Cのホスロー1世のころに完成が正解とされます。
現存するものは、ササン朝のペルシア語=中世ペルシア語/パフレヴィー語で書かれた訳注らしいですね。ゾロアスターの言行(言ったことと行ったこと)などが書いてあります。
中世ペルシア語/パフレヴィー語ではアヴェスターをアパスターク(Apastāk)、またはアベスターグ(Abestāg)と言います。また、ホスロー一世のころに、祭司の身分や資格が定められたり、偶像は禁止されたり、アフラマズダを象徴する永遠の火を聖所におく寺院を村々に整備しました。

1世紀末になると、パルティアが後漢とローマの交易を仲介するようになります。そうした状況で、97年、中国の後漢の甘英さんがローマ領へ派遣されます。パルティアは一応平和裏に甘英さんを案内しました。ただローマと後漢が直接交易すると、つまり絹はいくらで買うと決められてしまうと、パルティアは困ります。中継貿易のうまみがなくなりますからね。それでパルティアは妨害をしたと、学者は考えています。もしかしたら、挟撃されてはたまらないと軍事同盟を警戒したのかもしれません。または、たんに案内した人間が面倒と思ったのかはわかりませんが、甘英さんが「都のローマまではどのくらいかかるか」を訊くと、パルティア人の船乗りは「順風なら3カ月、逆風なら二年はかかる、食糧3年分を積み込まねばならん、そうでないと船に乗せられない」と答えました。実際には海が荒れて、逆風になって機会を待つにしてもそんなにはかからりません。最短では2カ月で到達したようです。甘英さんはそれを聞いてとても三年分の食料は準備できないとあきらめました。だから甘英さんはシリア(中国では条支国と書きます)までしか行っていないんです。あきらめた甘英さんは漢へ戻りました。
115年、ローマがイラクへ支配を拡大しますが、パルティアは取り返して129年には、クテシフォンを冬都化しています。

□□インド

BC1世紀末、デカン高原にはドラヴィダ人のサータヴァーハナ朝/サータバーハナ朝アーンドラ王国。南部はチョーラ朝、セイロンはシンハラ国が存続。
45年ころ、中央アジアのカーピサ(21世紀のベグラーム)を都にして、クシャーン人が大月氏から独立して、クシャーン朝/クシャーナ朝を建てていますが、80年頃、カドフィセス二世/ヴィマ・タクトに率いられて移動し、パンジャブ、ガンジス下流を支配します。この出来事によって、中東とインドと中央アジアがつながります。
クシャーンは元バクトリアの人の影響でギリシャ文字を使用するようになり、クシャーン朝の支配下でガンダーラ美術が完成したと学者は言います。ギリシア系の仏教美術ですね。
1世紀末、クシャーン朝はローマに遣使しています。
クシャーン朝はたぶん第3代のヴィマ・カドフィセス王の頃にいったん分裂しているんですが、第4代のカニシカ王/カニシカ一世が再統一します。都をプルシャプラ(21世紀のペシャワール)に移します 。仏教を保護して、第四回の仏典結集を行い、2世紀半ばにはプルシャプラに大仏塔を建立しました。サーンチーの大仏塔と勘違いしないでくださいね。
2世紀半ば、三蔵が出そろいます。仏陀の教えの経蔵、戒律の律蔵、理論の論蔵です。玄奘/三蔵法師の名の由来ですね。

150年、第四回の仏典結集。すでに分裂していた保守派(出家者のグループ)は上座部仏教が主導して、一般信徒の革新派は大乗仏教へと分化します。このとき大乗仏教の聖典たる大乗仏典が成立します。サンスクリット語で書かれています。

上座部仏教と大乗仏教の違い。
上座部仏教は、修行をして自分の救済を追求する。一人乗りのイメージ。小乗仏教という表現は、大乗仏教から見ての軽蔑した表現です。20世紀の初めに互いに取り決めて、上座部仏教のことをもう小乗仏教とは呼ばないことにしました。スリランカや東南アジアに広まるので南伝仏教とも言います。
大乗仏教は、他の民族を救うことまで良しとする。大きな乗り物のイメージ。大乗仏教の出現は、仏教にとって世界宗教への萌芽と言えます。ユダヤ教からキリスト教への展開に似ています。民族や出家、在家の区別なしで救済につなげます。大乗仏教はのちにパキスタンからシルクロードを通り中国、朝鮮半島、日本列島へ入るので北伝仏教とも言います。日本の仏教に出家者が少ないのはこの影響かもしれませんね。

大乗仏教では解脱の為の六つの修行法を六波羅蜜と言います。京都にある六波羅蜜寺の名はここに由来しています。出題はされませんが、書いておきます。
①布施波羅蜜=檀那(だんな)。財施(仏僧への喜捨、寺への浄財)・仏法について教えるなどの修行です。お布施も修行なんです。日本国の昭和時代に、家にお金をもたらす人/夫を旦那と言ったのは、この檀那に由来します。
②持戒波羅蜜=尸羅(しら)。戒律を守ること。
③忍辱波羅蜜=羼提(せんだい)。忍耐。
④精進波羅蜜=毘梨耶(びりや)。努力。
⑤禅定波羅蜜=禅那(ぜんな)。集中し、心を安定させること。瞑想、禅かな。
⑥般若波羅蜜=慧(え)。波羅蜜の最終段階で、静なる心で、真理/真実の道理をありのままに見ぬくこと。単に般若とも言います。
般若は戒、定と共に三学を構成します。三学は基本的な修行で、
1.「戒」。律蔵に書いてある「戒」律を守って、悪を戒める。
2.「定」。経蔵に書いてあることを学び心を鎮かに定める。
3.「慧」。律蔵と経蔵を解釈した論蔵を学び真理を見抜く。

この時代の大乗仏教詩人として名高い人が馬鳴(めみょう)です。中世ヨーロッパの吟遊詩人のようなものと考えればいいと思いますが、先生は「ラッパーのようにリズムに乗って説教をするイメージでいい」と言っています。
この頃、アジャンターに壁画などが描かれ始めたようです。掘削されて石窟寺院になっていくのは5世紀ごろからと学者は考えています。
2世紀末には大乗仏教に菩薩信仰が生まれます。大乗仏教にも出家している人はいますが、そういう人を、他人のために修行する人/菩薩だと思って、感謝するんです。具体的にはお布施をします。そうすると功徳/善行になりますし、自分をも救済してくれると思ったんですね。他力本願の始まりとも言えます。悟りを目指さない修行というのは、よくわかりません。どういうことなんでしょう。

仏の分類。先生は、悟りを開いて浄土/楽園に行くことを上がり、本社勤務と表現します。
如来 悟りを開いた存在。本社にいる人。
菩薩 修行中。支社の社長など役員。
明王 修行中。支社の監査。
天部 修行中。支社の先輩。

先生は「釈迦如来は悟った後のゴータマ・シッダールタ。大日如来(東大寺の大仏)、阿弥陀如来(あみだくじの由来。鎌倉の大仏)、薬師如来がいる。そして、如来の特徴は水かきのように指の間に膜があることだ。水を掬うように、人を救うためだ。菩薩は本社に行けるのに、あえて支社にとどまって部下が本社に行けるように尽力してくれているありがたい存在。先発のゴータマ・シッダールタが生きている間はそういうことをしてくれていた。菩薩は忙しいので、56憶7千万年の間は、地蔵菩薩が中継ぎでその仕事を引き受けている。そのあとに試合を締めるクローザーとして本社勤務になった弥勒菩薩(その時は如来)がやってきてみんなを救う。観音菩薩、千手観音菩薩もいる。明確な分担はないが、たくさんの人を救うために手が千もある。明王は不動明王が有名だ。サボっていると文句を言って説教してすぐに怒る。天部は他の宗教/会社から中途入社した実力者で、ヒンドゥー教のインドラが帝釈天、川の神サラスヴァティーは弁財天なので海や池の近くに祀られている。シヴァ神が大黒天、ラクシュミー(ヴィシュヌ神の妃)が吉祥天。様々な支社に転勤になる輪廻から脱して、本社勤務になることで安心して暮らせる。」と言っていました。


2世紀初頭、デカン高原ではサータヴァーハナ朝(サータバーハナ朝アーンドラ王国)にガウタミプトラ(・シャータカルニ)王が輩出して、極盛期を迎えます。ローマと貿易していることは、プリニウスが記述しています。貿易の証として、当時のローマの貨幣が出土しています。同時代のローマと中国とインドの王朝などは出題されます。五賢帝のころ、デカン高原を支配していた王朝を答えなさいという風に出題されます。私は先生から同時代史を一覧できる資料をもらっていますが、受験生は年表や、世界を同時に見られる史料集の地図などで憶えるといいと思います。
従来は王号はラージャだったんですが、ガウタミープトラ・シャータカルニ王の治世になってマハーラージャ(Mahārāja 大王)や、ラージャラージャ(Rājarāja 諸王の王)などが用いられるようになります。他の王国を支配している帝国に近くなっているともいえるし、王権拡大期と見ることができますね。

□□東南アジア

BC1世紀末/AD1世紀にカンボジアと南ヴェトナムを領域として、扶南王国が成立します。「山の王」という名称を、中国人が漢字で当てて扶南と書いたそうです。民族などは不明ですが、東南亜初の独立国です。
ヒンドゥー教/バラモン教が信仰されているので、インド文化の影響を受けているんだとわかります。ヴェトナムは北部は中国文化圏、南部はインド文化圏なんです。当時、オケオ遺跡は最大の港でした。先生は「前から読んでも後ろから読んでもオケオ」と言っています。クシャーン朝の青銅で作られた仏像の頭部や、ローマ帝国のマルクス・アウレリウス・アントニヌスの肖像の彫られた金貨が出土しています。こうしたことから、海上交易が盛んだということも分かります 以降、ヴェトナム北部を除いて、東南アジア全域がインド文化の影響を受けます。つまり、ヒンドゥー化します。5世紀に仏教が入ったりもします。

40年、徴姉妹の反乱が交趾郡でありました。徴側、徴弐の姉妹が決起したんです。兄弟ではありません、姉妹です。ちゅん姉妹/ハイ・バ・チュンと言います。結局、後漢の光武帝が抑え込みます。以降、966年まで北ヴェトナムは中国の支配下に入ります。

2世紀後半、大秦国安敦王の使節を名乗る商人がヴェトナムの日南郡(後漢の支配地)へ到達します。記録には残っていませんが、たぶん、長安まで行ったと学者は考えています。

BC2世紀-AD1世紀の間に、ビルマ/ミャンマーのエーヤワディー川(イラワジ川)中下流域にピューが台頭します。

□□中央アジア

スキタイSKITAIの残存はソグドSOGUDOになり、サカSAKAになった説があります。
この時代、匈奴の単于は代替わりの時に前漢に人質を送る友好政策を取っています。 前漢も貴女を降嫁させています。

45年、大月氏を構成する一部族(イラン系のクシャーン人)が自立してクシャーン/クシャーナ/貴霜朝(一般的には、きそうちょうと読みますが、漢字を思い出しくそうです。こういう時は訓読みでと先生の言うように、きしもちょうと憶えています)を建国します。伝承では始祖はカドフィセス一世/クジュラ カドフィセス/丘就卻で、首都はカーピサ(現ベグラーム)です。
80年頃、カドフィセス二世/ヴィマ タクトはインド北西部に進出して、パンジャブを支配します。この時点で、インドの王朝と言えます。
90年、クシャーンは7万の大軍を新疆に送ったと記録がありますが、人数を信頼していいかどうかはともかく、タリム盆地でクシャーンは後漢に敗れます。
AD16年に西域都護府は消滅しているんですが、後漢は91年にクチャ/亀茲に復活させます。後漢の班超が西域都護府の長官である西域都護に任じられます。オアシスのクチャ国王に白氏を就けます。誰を国王にするかを決める、こんな権力も持っていたんですね。「漢書」を書いた班固の弟が班超です。
後漢はパルティアの仲介でローマと交易をするようになります。絹などを送っていたようです。97年には、班長は部下の甘英さんをローマへ派遣しました。日本語では、かんえいと読みますが、先生は「漢字を思い出しにくい時にはあまえいでいい。光武帝、洪武帝も区別がつかんから光の武帝でいいし、杭州はくい州、広州は広い州、膠州はにかわ州でいい。とにかく訓読みしておけば思い出しやすいし、区別できる」と言っています。
この甘英さんは条支国(シリアを、後漢ではこう書きました)まで行きました。

□□中国

匈奴の単于は代替わりの時に前漢に人質を送る友好政策、前漢も貴女を降嫁させています。
前漢では第10代の元帝の皇后である王政君(王氏)の甥の王莽(おうもう)が力をつけて、第11代の成帝(BC32年-AD7年)の外戚として権勢を拡大。成帝の治世では災害が相次いで、外戚や宦官の横暴が激しくなりました。学問を好んだ成帝も酒色に走って、無能になったと伝えられています。そして、王莽は宰相になります。
第12代の哀帝(BC7-AD1)は豪族の力を押さえようとして限田法を発布しますが、実施はできませんでした。宮廷の内も外ももう皇帝の権力が及びません。
哀帝の死後、9歳の平帝を第13代皇帝に立てると、王莽は娘を平帝の妻としました。外戚/皇后の一族が実質支配をしたんです。王莽は14歳になった平帝が死去(毒殺か病死かはっきりしません)すると、次の皇帝を立てずに皇太子の摂政となり、禅譲を受けます。孟子の易姓革命/姓が易わる革命のうち、武力の放伐ではなく、徳の高い人間に譲る禅譲が起こったんです。もちろん王莽の徳は高くありませんが、武力を使わずに平和裏にということで、形式上は禅譲と分類します。実際は簒奪ですし、禅譲の儀式も行っていません。

讖緯説(しんいせつ)というものがあります。悪政の証拠として天災が起こるとされたり、広い意味での占いのことです。王莽は「次の皇帝は王莽だ」と書いたものを部下を使って井戸に隠しました。そして、それを発見させて、「おー、こんなものがあったぞー」「これって天が王莽を指名したんじゃいか?」などの世論を起こさせて、「天命である」として、自らの皇帝即位を正当化しようとしたと伝えられています。
伯母の元皇后(王政君)は王莽の即位に反対しました。そして、始皇帝が作らせたとされる皇帝の象徴である国璽、つまり伝国の璽(じ)を渡すことを拒んだんですが、最後は投げつけたそうです。皇帝としての印鑑ですから、これを持っていると、皇帝を名乗れるんです。
伝国の璽は後漢になってから作られたと言う学者もいます。
AD8年-23年。王莽がという国を建てました。都は長安のままです。形式的にも禅譲なので、やましい所はありません。表立って王莽を攻撃する人もいないので、遷都する必要がないんです。武力で簒奪/放伐の場合、いわゆる乱が起こると遷都をします。遷都していないなら、禅譲とわかります。

王莽は、豪族を押さえるために、土地は皇帝の物、公有地であり、売買も禁止するという王田制を実施します。また、貨泉、貨布などの28種類の貨幣を鋳造しました。こうした貨幣は朝鮮半島や日本列島でも見つかっています。
王莽は華夷の区別の概念を現実に移します。周辺民族の王号を禁止して、「高句麗」を「下句麗」にするなど蔑視を明らかにしたので、こうした民族は距離を置きました。
王莽は儒教を保護します。王莽は儒学学校も設立したり、周王朝を理想とするので、「周礼」(しゅらい)に基づいて、復古策を推進します。
「周礼」は、前漢以前に、古典籍を編集したもので、儒教の政治理念を制度化したものです。王莽がこれを重視して、経典に加えたんです。「周礼」には六卿と言って、王の下に宮廷を司る天官冢宰.教育の地官司徒.祭祀の春官宗伯.軍事の夏官司馬.司法の秋官司寇.国土交通の冬官司空をおくことなどが記載されています。
「周礼」は、儒教の十三経のひとつとされています。
「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」の五経が前漢で定められました。新の時代に「周礼」が加わって、後漢の時代に「孝経」、「論語」などと加わっていきます。「春秋左氏伝」「春秋公羊伝」「春秋穀梁伝」「爾雅」「孟子」も加えて十三経と言います。「周礼」「儀礼」「礼記」は、特に三礼と言います。
「孝経」は後漢で重視された経典で、なぜ孝が徳か、どう実践するかが書かれています。

王莽の政治は、華夷の区別を明らかにするなど書物に基づく理想主義なので、現実との齟齬(そご。ギャップのこと)が大きくなって社会は混乱したそうです。

AD18年、農民が漢王朝のシンボルカラーの「赤」を眉に塗って、敵味方の区別をした赤眉の乱が起こります。豪族も加わります。AD23年、王莽はこの混乱の中で死去しました。殺された、いや自死したという二つの主張があります。

AD23年、群雄割拠の中で、漢王朝/劉氏の血を引く劉秀(死後、光武帝と呼ばれます)が皇帝になって、漢を再興します。学者は後漢と言います。放伐なので、縁起の悪い長安からは遷都し、都は洛陽に置きました。また、讖緯説で帝位を正当化しました。
西周から東周へ、前漢から後漢へは、長安(鎬京)から洛陽(洛邑)への遷都です。
一つの王朝が終わると、次の時代に歴史書が書かれます。たとえば唐が終わると「唐書」が書かれます。唐の時代に「唐書」が書かれたなんていう問題に、受験生は引っかからないようにしましょう。
前漢の劉邦から新の王莽までを「漢書」として、班固がまとめます。班超の死後は、妹の斑昭が引き受けて完成させました。紀伝体で記述された断代史(テーマ史、時代史、特定の王朝史)です。紀伝体の完成形とも言われます。日本では、ちくま学芸文庫から全八巻で出版されています。「漢紀」は、これを四分の一に短くして、荀悦が編年体で記述したものです。班固は詩の「両都賦」では、比較したうえで前漢よりも後漢の方が優れていると主張しています。両方の都という題は、長安(西都賦)と洛陽(東都賦)を意味しています。

劉秀は、儒学政策の強化をします。五経博士の数を増やしたり、洛陽で官僚育成のための学問所(大学)を設置したり、儒学を必修科目としました。また、儒学的教養や道徳心のある人を登用しました。こうした儒学に則った国づくりをするので、儒(の)教(えの実践)と言ってもいいですね。前漢の武帝は官学化、新の王莽は儒学を奨励して儒学に基づく政治、劉秀/光武帝は儒教を国教化したとも言われます。市井(しせい。民間のこと)に儒教が浸透したのもこれ以降と言われます。
この時代になると、信仰だけではなく、信じて実践するから儒教、官吏として学ぶから儒学という区別になっています。
訓詁学とは、儒学の経典である詩経や書経などの文字の、数百年前に書かれた当時の文字や文章の意味を研究し読解し、正しい解釈を目的とする学問ということは書きました。
「説文解字」(せつもんかいじ)は漢字の辞書で、古文派の許慎が編集したものです。
後漢の後期、馬融は一つの経典の専門家で終わらず、複数の経典に通じました。この人の弟子で鄭玄(じょうげん)が、今文(前漢以降の儒学の経典)派と古典派を集成して、訓詁学を大成したと言われています。

儒学の本流である訓詁学は、宋の時代に宋学(朱熹など)に昇華されます。明の中期には陽明学(王陽明)や、経典から史実を明らかにして実学に役立てようとした考証学が台頭します。実証的に、信頼できる文献に依拠することと、経典を鵜呑みにせずに事実はどうだったかと史料批判をする実証的な学問のことです。清の末期には、考証学の空疎化で、実践重視の公羊学が流行します。孔子の思想を現代的に解釈して、より実践的な経世実用を主張します。実際の政治に結びつく理念を持とうということで、康有為、梁啓超が大成し、清末期の変法運動にも影響を与えました。儒学の歴史は、大問3などでまとめて出題されます。

37年には朝鮮半島で、高句麗が楽浪郡に侵入し、40年には支配地域であるヴェトナムの交趾郡で徴(ちゅん)姉妹が反乱しています。王莽の影響で離反したり、抵抗が継続しているのかもしれません。
そんな57年、周辺環境を落ち着かせようとしたんだと思いますが、光武帝(劉秀)が北九州の奴国(ぬこく)に「漢委奴国王」と刻まれた金印を下賜(かし)しました。金印の文字からすると、王として認めるということなので、冊封の体制に入れたんだとわかります。光の武帝は光り物が好きなので、金ぴかの印をあげたと憶えました。

58年、明帝の時代には道家(道教)で仏教を解釈する格義仏教が生まれて、洛陽に白馬寺を建立します。これが中国初の仏寺です。仏教を広めるために、方便として老荘哲学の概念を利用したんですね。この頃仏教が定着して、漢訳、つまり漢字に訳されます。

班超(兄が班固)の西域東征や、97年には部下の甘英さんがローマ領へ派遣されて、シリアまで行って帰還もしています。166年には大秦国の安敦王(マルクス・アウレリウス・アントニヌス)の使者だと主張する人が、海路でヴェトナムの日南郡に到着しました。
この166年に、一度目の党錮の禁があります。豪族でもある地方官僚のグループ(党人)を禁錮(任官禁止)にした事件です。鄭玄も弾圧されました。二度目は169年に起こっています。

入試では後漢末に楷書、行書、草書が成立したとする学者の意見が定説として出題されます。完成させたのは東晋の王義之と一般的に考えられています。順番としては隷書から草書1が作られました。そして、楷書と行書が作られます。この二つの登場を受けて、改変された草書2が現在も使われている草書です。これは蔡倫が表面のざらざらしていない紙の製法を生み出したことで、流麗な字を書けるようになった下地があります。蔡倫なくして草書なしと言えます。
文字を書く記録媒体が竹簡・木簡・絹布から紙へ移行していきます。木簡、竹簡だったから嵩張っていたし、絹布は高価でした。発布するというくらいですから、公的な仕事でないとなかなか使えません。紙はザラザラで薬包紙として西域で使っていました。
蔡倫が製紙法を改良して、麻やごみなどを混ぜて表面が滑らかな紙を発明して、帝に献上しました。これが普及すると、安く持ち運びやすいので手紙、仏典も普及します。751年タラス川畔の戦で捕虜になった紙漉き工が中東へ伝えます。その後はヨーロッパに伝播して、活版印刷と合わさって、キリスト教の聖書の印刷に使われて、宗教改革へつながります。 

張衡(ちょうこう。78年-139年)が地動儀という地震計を発明しました。また、天体観測のための渾天儀も発明しましたた。天体観測のための天球儀はエラトステネスの方が早いんですが、張衡は動力を取り入れたようです。
ここからわかることは、地震がこの時期に多かったということです。必要は発明の母です。
社会不安も増します。讖緯(しんい)説=予言説が流布します。西アジアで異邦人のヘロデが王朝を作り、ローマが支配を拡大しつつあった紀元前後には、ユダヤ人の文化が危機にさらされる中でメシア/救世主が現れるという預言が流行しました。日本の中世期に弥勒の救済が予言され、20世紀末にノストラダムスやマヤの予言が流行しました。
戦乱、飢餓、疫病、洪水、月食、イナゴ大発生など社会不安が増すと、不老長寿の神仙思想などの民間信仰、讖緯説、老荘思想が混ざって、秘密結社の道教団が二つできました。
一つは河北で、軍事組織「方(ほう)」をもつ張角の太平道
もう一つは四川で、入会条件が五斗/一升の米だった張陵の天師道。五斗米道があだ名です。のち、正一教に発展します。いづれも、祈祷による病気平癒が売りでした。疫病がはやるから、こっちもはやります。
道教はすこしずつ展開しますが、老子を本尊と考えて、道観という寺を作るようになる5世紀に、「道教」が確立したと学者は考えています。

184年(「いやよ」と憶えます)、張角の太平道が宗教国家樹立を目指して、黄巾の乱を起こします。黄色い頭巾/バンダナを巻いて敵味方の区別をしました。漢のシンボルカラー/赤=火の次は、土の黄色なので、五行説で王朝交代を色でわかりやすく演出したんですね。張角は「蒼天既に死す、黄天まさに立つべし」をスローガンにもしています。儒教の考える天=昊天上帝 =蒼天はすでになくなったということで、儒教国家の漢の命運は尽きたと言っているんです。中国最初の伝説の皇帝=黄帝にもあやかり、黄帝≒天≒太陽/黄色がこの世界を平らかにする道に従う、のように重ねて考えたようです。こうして病を治し、預言をしてとなるとイエスさんを思い起こします。

□□朝鮮

AD37年から高句麗は楽浪郡に侵入します。118年高句麗は玄菟郡(げんとぐん)にも侵入して、占領していまいます。
BC37年には高句麗建国なので、勘違いしないでくださいね。この年号は出題されたことはないと思いますけど。

□□日本列島

弥生時代後期。世紀の始まりには、100を超えるクニがあったようです。
国境も国民も官僚制度もないので、21世紀の国家とは違います。それで区別するために、日本史学ではクニと書きます。世界史ではどれも国なんですけどね。
登呂遺跡(静岡)はAD 1世紀に人々が暮らしていた集落です。

AD57年、後漢の光武帝が北九州の奴国(ぬこく)に「漢委奴国王」と刻まれた金印を下賜(かし)しました。つまり、あげた。この金印は20世紀に、福岡県志賀島で発見されました。109gあって、福岡市博物館に常設しています。透明の台上にあって、下に鏡があるので、 漢委奴国王という文字も読めます。
これをどう読むかで学者は意見の一致を見ていなくって、漢の配下にある委(わ)にある奴(ぬ)の国王、と言う学者がいます。他の学者は、漢の委奴(いとito)の国王に下賜したと言います。いと/itoは九州にあった伊都国です。そもそも、金印を記録した「後漢書」の原本は既にありません。宋の時代に范曄(はんよう)が書き写した「後漢書東夷伝」を根拠にして、学者はこれが洪武帝から贈られたと言っています。後漢の時代により近い「三国志」には、「倭」と記述してあるので、これが正しい「後漢書」の記述だったとすれば、「いと」とは読めないんです。
こういう解釈まで共通テストでは出題されました。

AD107年、帥升が後漢に対し生口(奴隷)を160人献上したようです。身分制社会へ移行していた証です。農耕が始まるとそうなるということはシュメールのところで書いたと思います。ただ、文字はないんですよね。縄文時代に奴隷がいたかどうかは学者が研究していますが、今のところ証拠はありません。帥升って誰?倭国の王だという学者がいますが、名前なのか王号なのかさえわかっていません。

奈良県橿原(かしはら)市の瀬田遺跡で、弥生時代後期/2世紀後半のものらしい台座/脚の付いた編み籠が、円形周溝墓(しゅうこうぼ)の溝から出土しています。土の上に直接置かないようにするためなのでしょうか。とても珍しいもののようです。脚はブナ科のツブラジイ製。上辺9cm、下辺11cm、高さ3.5センチの台形の板を四つ組み合わせ、植物で結んで脚同士と籠を固定しています。籠は、笹類の茎で編まれ、直径約30cm。部位によって茎の厚さや幅、編み方を使い分けています。食料の運搬や貯蔵などに使った日用品のようです。古墳時代まで、奈良県や山形県までの範囲で使っていたようです


□□アメリカ大陸 
□□北米

オハイオを中心にして、ホープウェル文化があります。382mの長さになるマウンド(盛り土)はくねっていて、蛇を表していると学者は考えています。サメの歯、土の煙管、雲母製の鏡などが威信財で、こういうものをもっていると「おお、すごい」と思われます。交易を通じて手に入れています。自分たちに生活範囲では手に入らないものを持っていることはすごいことなんです。

□□中米

テオティワカンは、のちに廃墟になりますが、それを見たアステカ人が「神々の場所」と名付けたんです。つまり、この時代の人がテオティワカン/神々の場所と自称していたんではありません。この時代には、23.5㎢の碁盤目状に道が通った都市で、6-8万人が暮らしていました。わからないでしょうけど、京都の上京区、中京区、下京区を合わせたくらいの面積ですね。南北は北野天満宮から京都駅までくらいです。この三区で人口は29万人くらいです。テオティワカンは東京の千代田区の二倍の面積で、人口は同じくらいのようです。
上水路もあって、集合住宅もありました。ほとんどは農民で、都市民は60-100人ごとの集合住宅に住んで、石器や土器を半専業で制作していました。

AD1世紀、マヤ地域(グアテマラ)にティカル王朝が成立します。人口5万人なので、一般的な5000人‐1万人のマヤの集落を圧する人口です。
マヤの祭祀センターはテオティワカンのような大都市ではありません。神殿、石碑、球戯場と神官の居住地区があって、その周辺に焼き畑の農家が広がっています。

ワシャクトンは祭祀センターの一つで、基壇上の三つの神殿の位置が太陽の運行に合わせて配置されています。夏至、冬至に両側の神殿の外壁に沿って日が昇ります。春分、秋分に真ん中の神殿の中心線から日の出になります。また、ワシャクトンはマヤ文化の土器がいつ制作されたものかを調べるときの標準になっています。つまり、長い時間様々な土器を作って、それが保存されているということです。ワシャクトンの土器と比較すれば、模様や形から時代がわかるということです。

ナフ・トゥニッチ洞窟にはBC250年-AD800年にかけて、89の壁画が制作されています。放血儀礼、踊る人、香をたく人、日付、紋章文字、王の名前などが描かれています。巡礼者の儀礼用の洞窟だと学者は考えています。

□□南米

ペルー北海岸にモチェ文化/Moche/Mochica/モチカ文化が継続しています。天体・動植物などの自然崇拝です。
神官王-貴族/戦士-平民の身分制度が作られました。モチェ河口に建てられたワカデルソル(太陽の神殿/太陽のピラミッド)は、アドべ(粘土や砂の日干しレンガ)を1億4300万個積んでいます。高さ40m、長さ380m、幅160mで、長さ90mのスロープ付です。ワカデラルナ(月の神殿/月のピラミッド)は、高さ20mで、高い壁で囲まれていた頂上部に三段の基壇がありました。

AD1世紀、ペルー南部の沿岸にナスカ文化が作られます。イカという都市や、リオグランデデナスカという川が中心です。陸上動物、魚類、海獣、栽培植物をモチーフに、12も顔料を使って、釉薬なしで発色する多彩土器を作っていました。
ナスカは地上絵で有名ですね。パルパ谷ではじめられたんですが、初期は石を積み上げて表現をしていました。

ボリビア高地には、ティワナク文化が形成されています。のちに祭祀都市を形成して、それがインカに影響します。

今回はBC27年-AD184年の世界を書きました。
次回はAD184年-AD395年の世界を書きます。
コンスタンティヌス帝、三国志の時代ですね。
次の皆伝11はこちらです。
https://note.com/kaiden_juken/n/nbbdb2b48de63

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