秀逸な表現は本当に存在するのか
ドラえもんとバットマンを同じ日に同じ映画館で見たことがある。二作のあまりの対象年齢の違いに、互いの良さが際立って見えたことが印象的であった。
先日行ったLIVE BAR「新宿Ruto」でもそんな感覚を味わった。
抽象的に弾き語る人と、具体的に弾き語る人を、同じ日に同じ舞台で見た。
ぼくとしては具体的に弾き語る人の表現が好みで、とても惹かれたのだが、
同時に、抽象的に弾き語る人を好む人もたくさんいるのだろうと感じた。
もはやそれは好みの問題で、好む人が多い方がいわゆる“売れた”という状態になるだろう。と、そんなことを考えていた。
バットマンと同じ日に観たドラえもんは、視聴者を楽しませようという工夫が際立って見えた。展開の早さ、テンポの良さ、セリフのわかりやすさ、どれをとってもバットマンより秀でていた。
しかし、だからといってドラえもんと同じ日に観たバットマンがつまらなかったわけではない。ぼくはむしろバットマンの方が好きだった。
バットマンは、ドラえもんと比べると話が難解だ。不気味な“間”もよく入っていた。けれど、例えばぼくはその“間”が好きだったりする。
前後の展開によって、その“間”でしか感じれない感情がある。その感情は、安易なセリフではとても説明ができない、いや、できることはできるが、それ(安易なセリフでの説明)をしてしまったらその間で感じれたであろう感情が感じれなくなってしまう。
ぼくにとってこの“間”の表現は、ドラえもんのそれよりも秀逸と感じる表現である。
いわゆる好みの問題だ。
映画をわかりやすく楽しみたい人はバットマンをわざわざ観に行かないだろうし、わかりやすさよりも感情が見たい人はドラえもんを観に行かないだろう。
そして、より多くの人に支持される方が、いわゆる“売れる”状態になる。
ちなみに、ドラえもんもバットマンも文句なく日本で売れている名タイトルだし、ぼくはクレヨンしんちゃんの映画が大好きである。
先日のLIVE BAR「新宿Ruto」でも、対照的な音楽家を前に改めて思った。
優劣の話ではなく、好き嫌いの話だなと。
みなそれぞれ、自分にしかできない表現をしていることに変わりなはない。
ぼくは事実であれ空想であれ、登場人物のひととなりがわかる表現が好みなのであって、それを感じ取れるのであれば、例え歌詞の全部が方言であっても良いのだ(内容が理解できればの話だが)。
音楽であればその音楽家の、映画であればその原作者の、創り手の内側を垣間見たいのである。
よって、万人にとっての秀逸な表現などこの世に存在せず、支持する人が単に多い人が“売れる”という状態になるだけなのであって、創り手でもあるぼくは、これまた、ひたすらに自分の表現を尽き詰めるしかなく、同時に一人でも多くの人に知ってもらうための工夫を凝らし続ける他ないのであるという、壱創り手による先日の「新宿Ruto」への独断と偏見による評価であった。
詰まるところ、ぼくはひとまず、四の五の言わずに日々精進である。