人を偶像にすること について 「ドル売り」の生む重圧
(最終的にはアイドルマスターシャイニーカラーズの話をしています。具体的な話ではなく、最近色々見聞きして、考えてしまうことについてです。いろいろなことが起こっている現状、シャニマス好きほど不快に感じる内容かもしれません。)
昨今のオタク向けのキャラコンテンツは、演じている声優さんのメディア露出を前提にしたものが少なくない。
キャラクターと声優は別物だと誰もが分かっているが、その一方でキャラクターと声優をダブらせて、人間をキャラに見立てて遊ぶし、ライブなどでは「声優≒キャラ」的な演出が行われる。
ところで「推し」という概念は、推し対象の誠実さ を前提にしたものだ。2次元のキャラクターも実在の人物(以後3次元と称します)も推すことができるが、対象が2次元か3次元かによって推し方には違いが出てくる。
その違いは一つには信頼性の確度によるもので、もう一つには「彼らが存在するか、しないか」によるものだ。
一つ目、信頼性の確度について話そう。
二次元キャラクターにおいて、彼らはあくまで作られた存在であって、その言動はすべて書き手の意思をもって行われる。彼らは「良く作られている」。だから彼らには文字通り無限の信頼を寄せることができる。
対して、実在する人間は完全には誠実でいられない。程度の違いこそあれ、誰もがそうなのだ。生活のあらゆる場面において、全ての問題に慮った行動をとれる人間なんてどこにも存在しない。
また、誠実さ というのは一種の能力である。その能力が高い人もいれば低い人もいる。それは生まれ持った資質であったり、育ってきた環境などから様々な影響を受け、そしてある一瞬を切り取った時には本人にはどうすることも出来ない能力だ。
今この瞬間を切り取って、生きた人間に対して「あの人はあんなに誠実なのに、この人は不誠実だ」といっても、その発言は傷を負わせる他に何も生まない。この能力は心ひとつで高められるものではないのだから。
(とはいっても直接、不誠実さに傷つけられた場合は綺麗ごとも言ってられないですけど… 無関係な人は徒な批判をグッとこらえましょう…)
二つ目。二次元キャラクターは存在しないから、私たちは躊躇いなく、彼らに全体重をかけて信頼することができる。
信頼されるということは生身の人間には相当なストレスであるから、生身の人間を推すときには推される側の気持ちも考えなくてはならない。
オタク側からしても全幅の信頼を置け、その信頼に一人の人間が押しつぶされてしまうこともないので、二次元キャラクターを推すことは「推す」が生むいくつかの問題を解決している。
推し対象としての2次元と3次元の違いについて、回りくどく書いたわけだが、ここで話は序盤に戻る。
2次元キャラクターと3次元の人間を重ね合わせるエンタメについての話。
広く捉えれば、あらゆる実在の人間を売り出すコンテンツがこれに当たる。声優だろうとアイドルだろうとアーティストだろうと同じだ。
僕たちは彼らを偶像、キャラクターとして持ち上げ、人間一人には過剰とも思える信頼を寄せる。
信頼を裏切られた人々や、過剰な信頼で押しつぶされた人々を僕たちは何度も見てきた。人間をキャラ化して売り出す商売は業の深いものだ。
僕がアイドルマスターシャイニーカラーズにはまった理由の一部は、この業深さに向き合ったアイドルゲームである、という矛盾にあるように思う。
(特段アイドルゲームに精通してる訳じゃないので、よく有るテーマなのかもしれないんですが…w
僕のファーストコンタクトがシャニマスだったということで、許してね)
例えば、アンティーカのイベントシナリオ「ストーリー・ストーリー」。
5人組アイドルアンティーカが、某リアリティショウのような番組で24時間密着取材を受ける。彼女らにも人間としてのやりとり・生活があるが、ひとたびカメラレンズを通してそれを番組にしてしまえば、番組制作スタッフもそれを見る視聴者も彼女たちの生活を「ストーリー」として見てしまう。
このカメラレンズを通すことは「人間拡散器(カメラ)で生きた人間をアイドルにしてしまうこと」だと捉えなおしても良いだろう。
このシナリオ中では、先回りしてストーリーを作り上げることで問題を解決し、「生きてることは…物語じゃない」という言葉で締めくくられる。
人間から物語を作ることと、人間が生きることは物語じゃないということを同時に肯定する というこの考え方は、最初から矛盾しているアイドル商売に対して誠実だ。
(マジで好き このシーン)
(追記:シナリオの完成度がとても高い。面白いです。アイドルをやる以上原理的に解決できない問題をテーマにしているという時点で、個人的には120点の出来だと思います。
ちなみに、このシナリオが書かれたのは恐らく世間の目がリアリティショウの光にばかり向いていたころだと思われます。すごい。)
声優とキャラクターは分けて考えよう というのは簡単だが、実際声優とキャラクターをくっつけて売り出すコンテンツにおいてそれは無理がある。
ファンからキャラクターへの信頼度が高く、また明らかにキャラとシンクロさせようとして声優を選んでいるシャニマスにおいて、声優さんが感じている「誠実であれ」の重圧はひとしおだろう。
このやり方(いわゆる声優のドル売り、アイドルのやり方)がはらむ問題について、シャニマスのライターもよく理解したうえで、さまざまに形を変えてコミュに登場させている。
声優のドル売りをするアイドルゲームが誰よりも痛切にアイドル批判を行っているのだ。もちろん、シナリオ毎に一応の解決を見るわけだが。
(樋口円香のシナリオとか、アイドルゲームでよくこれを言わせられるなと毎回目を回しちゃうよ)
その苦しみ、矛盾の面白さにひかれてシャニマスにはまった私にとってもこういう問題は他所事ではない。
声優さんとキャラクターを重ねるようなやり方にも理解を示しつつ、生身の人間やキャラクターを持ち上げすぎていないか・過剰な信頼を寄せていないかと常に内省すること。
そもそもが矛盾したコンテンツを好きになってしまった者として、この相反した態度は常に意識すべきものだろう。
様々な問題が起き、米国・日本でもリアリティショウは控えめになった。
もし何かが起きた時、「キャラクター」を「生身の人間」に強いて、過剰に誠実さ を求めてしまう2.5次元的な楽しみ方にも、全く責任が無いようには思えない。
(シャニマスのオタクが書くべきでない文章だったような気もします。でも声優さんとキャラクターを重ねてキャッキャしている以上、それが生むかもしれない問題について知らんぷりをしたくないな と思って書きました。
人間をコンテンツにしたものを楽しむ以上、彼らに強いている負担には自覚的であるべきです。しあわせ~って思えることだけじゃあ、いけない時もあると思います。)