なんならもう、終わったと思っていたのだが…。カレーを食べにカレー屋に行ったはずなのに、いきなりシャンパンタワーが出てきて上からガンガン飲まなきゃいけないみたいな、そんな感じだった。
「まだ繰り返してるってことは、変わっていないってことですよね?」と言われて、正直むかっときた。知らんがな。もうそういうのはこりごり。トラウマとか、治療とか、癒しとか、そういうのはもうお腹いっぱいやってきたんだから。
…しかし。今日ここにわざわざ来たのは自分なのだ。
まっすぐ見られて目が背けられない。最初のうちは腹も立っていたし、不快な気持ちを隠しながら「来なきゃよかったなぁ」と思いながら相槌を打っていたら、あれよあれよというまに込み上げてくる。
涙。
ソマティック・エクスペリエンス期間を終えてから、こんなふうに絞り出すように泣くことはなかったなぁ。
爽やかな涙じゃなくて、重苦しい涙。全くもって泣くつもりなどなかったから、コンタクトなんだが…。
母。
去年のクリスマスに「私があなたが嫌いです」と、クリエイティブ・ライティングで書いた。
家を出て一人で暮らしていてもなお、誰かに監視されているようで休まらない時期があり、いろんなことを経て、今はだいぶ家が安らぐ場所になった。
それでも、常に他人の目を通して自分を自分で「監視」していること。間違わないように、外れないように、それが愛だとして「外に出さない」ようにしていること。だから自分を裁き続けて、他人も社会も裁き続けていること。
本当に言いたいことを言ったら、自分の好きな人たちを傷つけてしまう。
本当の自分なんて、出したらいけない。何にもできないのがバレてしまう。そうしたら、誰にも愛してもらえない。
喉を締める。
とても苦しい。
そんなふうに決めてしまう過去の出来事があり、そこから世界を見ていること。
凍りついて固まる体に少しずつ気づき、寄り添うようにいたおかげで、世界を見る「レンズ」があることを認めることができた。体が恐怖に固まったままでは、とてもじゃないけどそんなこと、レンズのレの字も触れられなかった。
何年も生きてきたのに、凍らせたまま。
それって本当?本当に自分がそう考えている?思いたい?と自分に尋ねる。
観察して客観的に思えば、「それ、なんか繋がってないよ」とわかる。そういう冷静さを持っているのは、自分のいいところだ。あの環境だから育ったことでもある。
ぼんやりしながら帰宅して、そこから目につくInstagramの投稿やら本の紹介やらは、何から何まで全部、メッセージに溢れていた。
新しく買い替えたばかりのiPhoneは、やっぱりこっちの話を勝手に聞いているんじゃなかろうか?
あれはコロナが始まりかけていた何年か前の冬、友達が紹介してくれて正月に一気見したQueer eyeで、その後の生活が大きく変わった。
そのQueer eyeに出ているJonathan Van Nessと、Tan Franceの著書が日本でも手に入ると知った。(これもおそらくiPhoneが賢い。)
二人の話し方のトーンを日本語にすると結構な違和感があるけれど、あんまり何も考えずに、買った。
天体を確認してみた。生まれた時の月に、進行中の冥王星が0度でのっかっていた。……やはりな。
本当のことを言うのは、本当の自分であろうとするのは、とても怖い。
本当に、怖い。
でもこのまま喉を締め続けても苦しいことは変わらないし、このレンズはそんなにいいものじゃない。
感情は重だるく、そりゃぁ、辛い、と言えるものだと思う。けれど、そのために「準備」としてSelf Compassionを学んだ。(Jonathanも、Braneeの著作に言及していて共感した)準備はできている。
喉を締めずに、レンズを破るんだ。
※ちなみに、5月に初めて幻覚を見た…と思っていたんですが、違う可能性も教えてもらって、それは笑えました。