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みんなが知ってる春木開。みんなが知らない春木開。【第一部】

初めて僕のことを
知ってくださる方もいるかもしれないので

まずは簡単に自己紹介させていただきます。

春木開


岡山県出身1988年6月28日生まれ(34歳)

神戸大学経営学部入学後、起業する為に中退。

SNS総フォロワー数145万人を越す(2022年11月現在)


インフルエンサーとして活動するだけでなく


Tiktok


インスタグラム


YouTube


本業は美容クリニックHAAB BEAUTY CLINICを原宿・南青山・横浜・名古屋・大阪にプロデュースする実業家です。

道頓堀の巨大広告をジャックするなどして話題を産み、2022年には

「ポジティブが足りない」

をKADOKAWAより出版。




大阪難波駅、渋谷駅、トラック広告など、日本にポジティブ旋風を起こした。

また、インフルエンサーを生み出す、オンラインサロン


KAISALON」も運営。


現在会員数700名を突破しております。

SNSは基本的に表面の結果しか切り取られない。
キラキラした煌びやかな自分の派手なSNSの世界観を通じて「ボンボンだろ?!お金持ちなんでしょ!?」とよく言われる。

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しかし現実は儚くもロールスロイスとは程遠い、今にも壊れそうな軽自動車に乗りタワーマンションとは程遠い1階のアパート暮らしの「父親が月給手取り14万円」「母親が専業主婦」の庶民の家庭でした。

家の床が抜けるほどの貧乏じゃないけど、裕福ではなかった。食費も1日1000円と決められていた。
特別に「テストでいい点取った時」と「風邪ひいた時」だけ『マクド』を食べさせてもらえた。

ハンバーガーが食べたいが故に仮病を使ったこともあり、仮病がばれて以来風邪をひいても「ハンバーガー」さえ食べれなった。

この時「ぴえん」って言葉があればまさに
ぴえん 」だ。


誕生日だけは毎年回転寿司に連れてってもらえた。

子供の頃からお寿司屋さんは回るものだと思っていて回らないお寿司があるなんて大人になって初めて知った。

本当は食べてみたい’はまち’や'マグロ'は、いかにも高そうなお皿の色をしていて高いネタをおねだりするのは気が引けた。かといって、気を遣ってるのを親に察せられても気分はよくないだろうから子供ながらに一生懸命考え、マヨネーズが好きだからと「コーンマヨ巻き」ばかり頼んだ。本当は安かったからだ。

家で食べるご飯はおかずでなく漬物ばかり食べて、いかに食費を安く抑えるかしか考えていなかった。気づけば漬物が好きになっていて今でもよく食べるのはそのせいだ。

「開は昔からコーンが好きだったなぁ。漬物が好きだったなぁ。」って言われるけど、最初から好きなわけがない笑



でも好きな母親の為なら喜んでピエロになれた。


祖父母からもらうお年玉も「家計が大変だからこれを使って」と言ってお年玉を渡してしまうと申し訳ないので、僕の為に貯金をしといてと母親に預けることにした。


周りの友達が犬やネコを飼っていて、動物が好きだった僕は「ペットが欲しい」と親に漏らしてしまった事がある。すると連れて行かれたのは用水路。そこで釣ってくれた「ザリガニ」が僕の「はじめてのペット」だ。ザリガニだけど、とても嬉しかった。


2匹ザリガニを飼っててザリ'と"ガニ"と呼んだ。
どこに行くのも一緒だった。大好きな祖父母に初めて飼った「ペット」を紹介したくて、臭い汚水を漂わせながら虫かごにいれて電車に乗って会いに行く。祖父母の家に着いた時'ザリ'と"ガニ"は共食いして死んでた。

これも、本当の「ぴえん」だ。


その後学校でデジモンやたまごっちが流行った。
しかし、おねだりして自分が買ってもらえたのは「ハムスター」だった。
名前は「ぐり」と「ぐら」。毎日小学校のポロシャツの胸ポケットに入れて登校してた。


当時一世を風靡したゲームボーイや64やプレステなんて触った事もなかった。


うちの家は貧しいから生まれた時から
「サンタはいない」
「アメリカの文化だから関係ない」
そう育てられた。


代わりに親からは「バイタリティ」と
強いメンタル」をプレゼントしてもらったと思う。



中学生の頃部活動が始まり友達の多くが野球部にいたから自分も野球部に入ることにした。学校の部活動とはいえ、やりたい事の野球も続けていくのにはお金がかかる。「バット」「スパイク」「グローブ」「ユニフォーム」


休憩時間に皆がポカリスエットを飲んで休憩してる時、自分だけは水道水を飲んでた。皆が新しいスパイク買ってる間、自分だけめちゃめちゃ滑るスニーカー履いていた。続けていくだけ惨めになり、劣等感を感じた。


小さい頃からやりたい事より選択肢が
'経済的にやれる事'しかなかったから
やりたい事も夢も目標も何もなかった。


すごく小さい視野で生きてきたし、こんな思いをするくらいなら


「習い事なんてしない方が楽じゃん」
「趣味なんて見つけない方が楽じゃん」
「やりたい事なんてない方が楽じゃん」
そんな風に思うようになった。


結局お金がないと何もできない社会に対して早くお金を稼がないといけないと思うようになり、アルバイトができる高校生になるのを待ちに待っていた。

今は月収1100万中学生の「キメラゴン」君やYouTubeで稼ぐ学生もいて「すごい時代だなぁ」と本当に思う。


野球部を辞めてからも野球が好きな気持ちは変わらない。

ある時、学級委員同士で修学旅行に行く場所を協議して決めるという学校の風習を知った。「学級委員に俺たちがなったら俺たちの行きたいところいけるじゃん」と思い、自分も学級委員になり、友達にも立候補させた。そして中学校創立以来初の修学旅行として、福岡ドームの野球観戦が決まった。笑



ルールなんてものは「守るより作る側に回ればいい

それから高校卒業までずっと学級委員だった。


高校生に入学したばかりの頃、皆が何の部活に入ろうか悩んでる時に自分は
「何のアルバイトをしようか」で悩んでた。


入学した高校の校則ではアルバイトは禁止だった。なので僕は学校にバレないように少し離れたセブンイレブンのオープニングスタッフとして働くことにした。時給650円だった。


ドンキホーテが岡山に初めてできた時、時給が1000円で深夜は1200円だったので学校が終わればセブンイレブンで働き、深夜はドンキホーテで働いた。

食事もセブンイレブンで余った廃棄物を家に持って帰って家族で食べていた。


少しずつ貯金が溜まってきた頃、雑誌のメンズエッグが流行っていた。メンズエッグのモデルが着てた服やメンズエッグモデルのブランドの服が即完売していた。そのブランド発売と同時に買い占めてモバオクで出品して利益を出してた。(今でいうメルカリになるのかな)


そのくらい「お金稼ぎ」(小銭稼ぎ)に没頭してた。


それからは、ボーリングやカラオケなど遊ぶ規模は小さいが遊べる選択肢が増えた事で(俗に言う高校デビューなのかも)、遊びが楽しくなり、学校なんてろくにいかなくもなり、毎日のようにバイトしては遊んでてを繰り返していた。

学校でもぶっちぎりの底辺学力だった。


その辺りから父親との確執が生まれた。


「高学歴でプライドも高い父親」の息子が俗に言う「落ちこぼれ」の現実がよほど納得できなかったのか、母親に再三お前の教育不足だ、育児責任だと怒鳴っていたし、よく喧嘩していた。


自分の出来の悪さで夫婦の関係に亀裂が生じていくのが目に見えてわかった。


気付いた頃から家庭内別居が始まった。


まず僕が朝起きる頃に父親はもういない。僕が帰る頃に父親はもう部屋にいる。父親の食事は父親の部屋の前に置かれ、食べ終わったら空の食器が部屋の前に置かれていた。

トイレもお風呂もどうしてるのかと思うくらいだし、冒頭でも記載したが決して裕福な家庭でない狭い家でどうやったら会わないで生活できるのか不思議になるくらい同じ屋根の下に住みながら2年間くらい会うことはなかった。


高校3年生の頃皆が大学なり進路を決めていく矢先自分は勿論何も考えてなかった。就職も進学も何も考えてなかった。


父親の堪忍袋の尾が切れた。


2年ぶりくらいに会話した父親の言葉が



お前みたいな息子が生まれると思わなかった



その言葉を残して父親は消えた。


正確に言えば自ら転勤届けを出して家から出て行った。


お金の流れがどうなったのかはわからないし母親に聞けるわけもなかったがそこからみるみる家計は貧しくなった。
母親も働き始め、弟も荒れていった。


こう見えて長男だし
生まれて初めて
俺の人生も俺の家族も
「このままではヤバイ」と危機を感じた。



世の中
"お金が全てじゃないけどお金が全てにいる時代"だと肌で改めて感じた。バイトみたいな小銭ではなく、しっかりお金稼ごうと思った。



当日18歳の何も知らない若造がどうやったらお金を稼げるか?


当時の答えは

「いい大学」に通い「いい会社に就職」して「社長になること」だった。


今思えば古い考えだけど、
とりあえず「いい大学」に行くことを一つの目標にした。



高校で350人中348位のビリギャル男の快進撃はここから始まった。
大学受験するにあたり、まずはどこの大学を受けるかを決めることにした。


選択肢的に
・私立大学は行くお金がない
・関東圏まで行くお金もない
・関西圏で国立大学が選択肢
・社長になりたかったから経営学部or商学部


その中で偏差値が一番高いところを調べると

"神戸大学経営学部"だった
国立では一橋大学商学部の方が偏差値は高いが、関東までいくお金はなかったので自分が社長になってお金を稼ぐのはここしかないと思った。



「俺、神大の経営学部行きます!」

皆呆れてたし鼻で笑った先生もいた。

よく僕の名言でも言うが「いきたい」「やりたい」ではなくて

いきます」「やります」願望と行動の間には大きな溝がある
だから、当時から僕の発言は
「神大の経営学部行きたいです」でも
「神大の経営学部受けたいです」でもなくて

『神大の経営学部行きます』だった。


もうそこからはその無謀な選択を正当化するする努力しかしてこなかった。

僕が好きな本の「年収1億円の人の習慣」において

「年収300万円の人は、反対されたらやめる」
「年収1000万円の人は、応援されたらやる」
「年収1億円の人は、反対されたらむしろやる」


という言葉がある。
自分もそう思う。

100人中100人が無理だと言われても
100人中100人が間違えてたという結果にしたらいい


それを証明しようと思い、そこから死に物狂いの大学受験勉強が始まった。


まず大学受験するにあたって「大学受験するにも金がいる」時代だということに気づいた。塾代・問題集・辞書。バイトも以前より増やした。セブンイレブンのバイト中にレジ打ちしながら単語カードをめくる日々が続いた。
皆が高校3年生の頃に
僕は一人進路指導室で1年生の内容からひたすら勉強した。


誰よりも早く学校に行き勉強して
誰よりも遅く学校に残り勉強して
皆が寝てる時に勉強して
皆が遊んでる時に勉強して
皆が勉強してる時はもっと勉強した


当時遊んでた仲間とも全ての縁を切り、誘惑を断ち切り受験勉強に染まった。毎日20時間は勉強し、家中の壁には様々な公式や単語や年号が貼られていた。

「世の中って本当に不平等」だと思う。
お金持ちの家に生まれる人もいれば、両親のいない人もいる。生まれつき病気の人も、障害を持っている人もいる。
 そんな不平等な世の中で唯一平等に与えられたもの。


それが「時間


もし、僕だけ1日が10時間だったら、人生ひっくり返せない。ただ、幸運なことに僕たちはみんな同じ、24時間という権利を与えられている。だから絶対に言い訳はできない。極論、皆が寝ている間に努力をすれば、誰でも人生逆転できる。


努力すれば報われる」なんて綺麗事言うつもりはない。
「報われるのはほんの一握り」だと思う。
それでも結局報われるだけの努力をしてる人間もほんの一握りだと思う。


人の成長ほどあいまいで目に見えにくいものはない。
勉強でもスポーツでも仕事でも結果を出した人ならわかること
圧倒的努力を続けていけば
成長曲線はなぜかある日を境に一気に上昇する

ある日突然売れる
ある日突然理解できる
ある日突然できるようになる

頑張っても頑張っても変化しない時は「潜在期間」そして上昇直前期間が最も苦しいから諦める人が多い。

夜明け前が一番暗いだろ?

「成功」まであと少しの一番暗い時
最も辛い時を強気で乗り越えれば「その先は明るい」

"虹が見たければ雨に耐えろ"

イチローも言っていた。

「あくまでも測りは自分のなかにある。自分なりに測りをつかいながら限界をちょっと超えることを繰り返す。いつの日かこんな自分になっているんだという状態。少しずつの積み重ねでしか自分を超えていけない。


死ぬ気の努力の1秒の積み重ねが
自分すら想像することのできない未来を切り開く


高校3年生の頃から大学受験に挑み、学校でも350人中348位だったビリギャル男が1位になりE判定で誰からも全力で反対されていた(無謀だと言われていた)神大受験も見事。

『ストレートで合格』した。

奇跡だと思った。「その時の心情を母親が語る

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部活はせず、こっそりと学校に禁止されているアルバイトをしながら 貯金をしていた様子。廃棄処分のお弁当が我が家の食卓に並ぶ日も珍しくなかった。
志望大学は就職を見据えて選び、そこにむかっての方針を決め、目の色変えての勉強を始めたのは高3になってから。家中の壁には様々な公式や単語や年号がはりまくられ、おそらく、ろくに寝ないで受験勉強していた様子。無理しないで岡山大学で親としては十分なのに、難しい判定でも神大に向かっての努力の日々だった。
ここでも家庭事情を汲んでか私立大学は一校も受験することなく、前後期とも神大と決めていた。
どうか受験が終わるまで健康でいられますようにと願わない日はなかった。
そしていよいよ前期日程の入試の日。わざわざ一緒に前泊して神戸のホテルに付き添い、余裕をもち朝食をとらせ、電車に乗った。私がこの電車、と誘導して乗せたのがなんと、大学の最寄り駅に止まらない特急電車。間違えた。電車を止めようにもなすすべもなく、次の駅から引き返してタクシーに飛び乗り大学へ、トイレに行く暇もなく彼は試験場に。19分遅れで駆け込んだ。落ちたら私のせいだ、精神統一などできるわけがない、わざわざついてきて何やってんだか。
泣けて泣けて大学の入り口でしばらく動けなかった。
そして前期日程、案の定落ちた。
彼は不合格をうけとめ、しばらくは部屋から出てこなかったが一言も私の事を責めなかった。翌日から後期試験まで益々試験勉強に打ち込んでいた。当時の後期日程の判定はE。あの後期試験までの2週間、親として申し訳ない思いといつもの大きな二重の瞳が血走っている彼の体のことが心配でもなにもできない無力な自分にやるせない日々、あの日々は二度と味わいたくはない。
そして、後期試験の発表の日。PCの画像をあけ、前期と違い、1回だけのスクロールで受験番号が映しだされる。クリックする前に彼が一瞬だけ振り返り一言。「落ちてたらごめんな」と言い、キーを押した。
番号が目に飛び込んできたあの一瞬、喜びと安堵が押し寄せて涙が止まらなかった、一生の宝物の時間となった。
彼の父親は後期日程はランクをさげて横国にしろと長年の経験値で何度もアドバイスしてくれたが聞き入れない彼に呆れ匙を投げていたようだがおめでとう、すごいな、とメールをくれた。
いい夢をみせてもらったと思っている。

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そして見事神戸大学に入学して入学式の時に思いがけない言葉が僕を襲う。



今回僕のnoteを読んで誰かの励みになったり誰かの背中を押せたり前向きになれる言葉をかけれたらと思い、自分の過去をありのままに振り返り執筆してます。

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春木 開
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