メイド喫茶と井戸端面談
仕事の合間、気分転換にカメラを提げてスクールの近所をぺたぺたと歩いていると顔見知りのママさんに声をかけてもらうことがあるのだが、街中で「センセイ!」と呼ばれるのは未だにどうもきまりが悪い。
医師・弁護士・大学教員・代議士などの人々はその能力やその職につくまでの努力などに敬意を払われて当然であり、それが高い社会的地位を保証する。どこに行っても「先生」と呼ばれるに相応しい。
一方で町の小さなスクールを営むだけの私は、このような人々とは比べるまでもなくしょぼい個人であり、かろうじてセンセイでいられるのはあの小さな箱の中だけなのである。
要するにメイド喫茶のようなものだ。
お店の外で「ご主人様」なんて呼ばれたらたまらないだろう。
なんてことを考えているうちに「あらこの人センセイなの?」なんてお友だちに紹介などされちゃったりして、ママさんたちと井戸端面談みたいなことが始まってしまう。こんな人間でも頼ってくれて本当にありがたいことだ。
そんな井戸端面談で、まだお子さんの小さいママさんから「うちの子言葉が遅くって...」みたいなことを相談されることがある。
心配になる気持ちもわかるのだけど、いつまでたってもどこにいってもしゃべれないような人ってあんまりいないから、そんなに焦らなくていいんじゃないかなぁなどと、なんだかボンヤリしてしまう。
あくまでも私の観測範囲の話なのだが、そういう人にかぎって進学を意識した規律強めの幼稚園に通わせていたり習い事をたくさんさせていたりすることが多いという印象がある。そしてそのような人の話に耳を傾けていると、表現が難しいのだが、広くまんべんなく学ばせているようで、どこか偏りを感じる。
そんな感覚的なものを内にもやもやと漂わせながら結局
「まー小さいうちはたくさん遊んどけばいいんじゃないですかね!」
と明るく話を終えようとするわけだが、それはそれで
(それは今やってるやん...)
(知ったような顔してうっすいコメントすんなや...)
なんて期待外れに思われてるような気がしてどうも居住まいが悪く、紹介してくれたママさんの顔がまともに見られなくなってしまう。
「たくさん遊んどけばいい」
という言葉は「将来のためのもっと大切なこと」とやらに心奪われている人々にとってはもしかしたら投げやりで先送りで他力本願のように聞こえるのかもしれない。
しかし私は、子どもを従わせて大人都合の学習をさせることよりも、一緒に遊んで楽しい時間を提供することの方が、よっぽど高度な思考と実践を大人に要求すると思っている。
私自身も日々の仕事を通して、経験と技術をもって子どもたちに臨んでいるという自覚がある。笑わせて、笑われて、必死である。
自覚なく自然とこれができる大人には間違いなく才能がある。そしてそれは少なくない数のセンセイが望みながらも残念ながら得られないものだ。すごいのである。
親が心配するのをやめれば、この世の教育問題のほとんどはきっと解決する。子どもが笑っているのに、それを見て親が笑っていられない状況の中にこそ、子育てを見つめ直すヒントがあるのではないだろうか。
センセイと呼ばれていますが、正解は知りません。
支配と期待を手放せば、そもそも正解などいらない。
でもひとつだけ、大切にしていることはあります。
それは
「子どものように感じ、大人として取り組むこと」
です。
育てる日々は難しいよね。
でも、それがいいのだ。
*ちなみにメイド喫茶には一度だけ、デンマークから来たガンプラ好きの友人と行ったことがあります。いい経験でした。