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『陪審員2番』とイーストウッドの「見えないもの」

真実は芸術と同じだ。見る者による。自分の目を信じるんだ。

『真夜中のサバナ』(1997)

「見えないもの」は見えない

 雨に視界を遮られたまま何かを轢いたと思い、車から出た運転手は橋の下を覗き込む。道の上に轢いてしまったものは無く、だとすればおそらくそれは橋の下に有るのだろうという推測が彼にその行動を促したというわけだ。しかし、この時既に真夜中であり、暗闇の中に──暗闇故にそれを見つけることはできない。ふと顔を上げたとき目にするのは「鹿の飛び出し注意」を知らせる看板であり、彼はその見える情報を頼りに最悪の事態の想像から逃れ、帰路に着くことを許される。
 「見えないもの」は見えない。それは当たり前のことだ。だが、『陪審員2番』(2024)の主人公(ニコラス・ホルト)はこの時点で、その「見えないもの」を見えないものとし、見ようとしない。どういうわけか。
 「見る」とは如何なる知覚行動か。まず、見えるものがあり、見るわけではない。まず見えないものがあり、我々はそれはなんだろうと思い、見ようとした結果、見えるものがそこに現れるのだ。しかし、クリント・イーストウッドの映画における登場人物たちは、わざわざ闇の中に光を見ようとすることはせず、「見えないもの」は見えないというトートロジーを唱え、他の見えるものを頼りにその場を去っていくことしかできない。いや、映画において、まず光があった。であれば、映画における闇とは光の次に来るものであり、映画監督イーストウッドは光の中にありのままの闇をわざわざ配置する習慣がある。果たして、その闇、イーストウッドにとって「見えないもの」とは何だろうか。

隠れんぼ

 前作『クライ・マッチョ』(2022)にて、闘鶏場に居合わせた老人(クリント・イーストウッド)は運悪く警察に取り囲まれることとなるが、彼がひょいと物陰に隠れると、次のカットで警察は引き上げているではないか。その物陰に隠れる老人をカメラは主観ショットとして撮るが、その陰への移動が闇を作っている。我々を道連れに闇へと入り、我々と共に光へと出たとき、編集の処理によって時間が少し進んでいる。その空白の時間において既に警察は姿を消している。もしかしたら老人は物陰に隠れたとき、どこか超次元的な場所に転送されたのかもしれない。もしくは警察はアホ過ぎて本当に彼を見つけられなかったのかもしれない。またはここで時間の省略があるため、彼は実は見つかっていて事情聴取を終えた後、解放された可能性さえある。しかし、この監督であり俳優である老人はそこを見せない。何故なら隠れたものは見えないからだ。
 この映画は他にも見えないものがある。前半、誘拐する予定の子供と出会う前、果たしてこの世に目的地などあるのかと不安に襲われる砂漠の旅を眺めていると、老人は車を止め外に出て砂漠の中で寝るではないか。日没直前、辺り一面は逆光になり、老人のシルエットも浮き彫りになる。そして彼は、腰を下ろし横たわるわけだが、彼は大地の陰の中に沈んでいき画面からそのシルエットを消す。すると次のカットでは既に目的地に辿り着いている。

『クライ・マッチョ』(2021)

 また別の場面ではまだ日中だというのに教会は闇に包まれており、疲れ果てた老人はそこで寝ることとなるが、次のシーンで目覚め教会から出てくるとき、その教会の中はやはり完全な闇に包まれている。ここで思い出すのはイーストウッドが寝ている姿があまり記憶にないことだ。もちろん目覚める姿はよくある。しかし、『白い肌の異常な夜』(1971)で寝ている間に起きた悲劇──去勢──を繰り返さないために彼はカメラの前、光の前では眠らない様子だ。闇の中で寝てしまえば、そこは「見えない」ため、誰もそこを見たいとは思わず侵入は起こり得ない、というように。

「見えないもの」のあらわれ

 近作以外にもイーストウッド監督作では、"「見えないもの」は見えないものである"という法則が顕著に見受けられる。
 『ミスティック・リバー』(2003)で娘を殺した犯人を間違え、無実の友人を撃ち殺した父親ジミー(ショーン・ペン)とは異なり、真犯人を捕らえた刑事ショーン(ケヴィン・ベーコン)は、ジミーの罪を裁くことができない。何故なら、ジミーが撃った死体は川の底に消えて「見えない」からだ。だから、ショーンは見えない川を見ようとせずに、最後のパレードの場面でジミーというはっきりとしたものを「見る」ことしかできない。
 『リチャード・ジュエル』(2019)で、容疑者であるジュエル(ポール・ウォルター・ハウザー)にFBIが尋問を行う場面では、それまで明るかったリビングに闇が射し込む。そこで決め手となる犯人の電話の声と彼の声の類似を求めるFBIは、闇に包まれつつある人物を見ようとしない。結局、彼の疑惑は昼間、事件現場に立ち寄ったジャーナリストが光に沿って歩けば簡単に晴らすことができるものであったわけだが、FBIは「見えないもの」の中に答えはなく、声というはっきりしたものに囚われている。声に囚われているのは『J・エドガー』(2012)も同じだ。キング牧師の不倫から、事実の歪曲までそれは録音や口述筆記といった声を通じて行われる。鏡のみが真実を見せるとすれば、亡き母の女性服を着て鏡の前に立つフーバー(レオナルド・ディカプリオ)が泣き崩れるのは、それを見てしまったからかもしれない。
 『許されざる者』(1992)の冒頭、悪漢が娼婦の顔を切り刻む光景は薄暗く見えづらい。その暗さは、賞金目当てで悪漢を追う老ガンマン(イーストウッド)における、彼女たちの被害やその復讐への興味の薄さを表しているようだ。しかし、街に辿り着き、具合を悪くした老ガンマンは冒頭と同じくらい曖昧な暗さの中で、悪徳保安官(ジーン・ハックマン)よって身体を傷つけられる。看病の末目覚めた時、これまででいちばん明るい晴天の中、彼は顔に傷を負った娼婦を「見る」に至る。同じ闇の中で傷つけられた二人はここで精神的に重なり合い、ようやく復讐が始まる。しかし、途中で離脱した相棒(モーガン・フリーマン)は保安官に捕らえられ、鞭打ちを受けた末に死んでしまう。その鞭打ちの場面は室内でありながら、昼間に行われるため非常に明るい。そこにいないにも関わらず、老ガンマンは──一度死に蘇ったからか──もう一つの被害を超越的に見て、自分自身の復讐が始まる。
 『チェンジリング』(2008)の場合、母親(アンジェリーナ・ジョリー)のもとに失踪したという彼女の息子を届けた警察は、それが別人であるという彼女の主張を聞き入れず、見える子供に固執する。一方で息子を誘拐された母は、映画の最後まで息子を見ることができない。誰の視点かわからない回想シーンで息子は闇の中に消えた。その闇が特定不能な場所であれ死後の世界であれ、彼女はその闇の中に息子がいるにもかかわらずその闇を見ようとしない。そのため死んだとしか思えない息子を見ることができないまま、代わりに絞殺刑に処される誘拐犯をじっくり眼差した後、映画は華やかな街角をとらえながら終わってしまう。
 『父親たちの星条旗』(2005)で日本兵は洞窟に隠れている。米軍はその暗闇目掛けて銃を撃つ。その闇の中で相手の銃撃が止めばそこに生きた者はいないと判断し次の穴へと向かっていく。もちろん、米兵は闇の中を覗いたり攻め行く場面もあるが、本作におけるトラッキングショットは、被写体を正面に構える後退運動により為されており、我々観客は米兵が見る光景を見ることができない。

『父親たちの星条旗』(2005)

それは一種の表象不可能性を提示するからなのかと思いきや、その闇に懐中電灯を向ける場面では手榴弾自殺した日本兵の遺体を見せられるわけだが、これはどこか抑圧しきれなかった外傷、フロイトの言うところのトラウマであり、「見えないもの」に対する強烈な差異として導入された対象とも考えられ得る。
 『陪審員2番』と舞台を同じくする『真夜中のサバナ』(1997)は光に包まれた街だ。本作における最大の「見えないもの」とは亡き犬であり、亡き主人から散歩をするように命じられた使用人は、「見えないもの」に対してリードを繋ぎ散歩をしているではないか。

『真夜中のサバナ』(1997)

主人公(ジョン・キューザック)は最初その光景に戸惑うが、茶番のような法廷劇を終えてそのトートロジーに隷属するところで物語は終わる。
 『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)の映画監督(イーストウッド)は「見えないもの」を見ることができるという確信を持った人物として登場する。彼は、自分はアフリカの地元民族と同化できると思い込み、また彼等やユダヤ人を差別する白人をヒトラーに重ね非難する。しかし、彼の好奇心が最後、最も心を通わせていた現地の青年の命を奪ってしまう。映画監督は、自分ははっきりとものが見えていたと思っていだが、地元民族の心までは見えなかった。いや、搾取される対象の心など、搾取するものには理解できないのだ。それに落胆するのか開き直るのかは不明だが、映画監督はカメラを見つめて植民地主義的な映画を撮り始めるために「アクション」と呟くだけだった。本作のイーストウッドによるいい加減な演技はそうした「見えないもの」を見えると言い張るペテン師のようだ。

『ホワイトハンター ブラックハート』(1990)

「見えないもの」になること、「見えるもの」になること

あんたは消えるのが上手いわね。きっと運がいいのよ。

『目撃』(1997)

 闇の中、見えないものは見えないが、その中に入っていく身体がある。それはクリント・イーストウッドの身体だ。
 ソ連(ロシア)はハリウッド映画においてよく青みがかった画面で登場することが多いが、『ファイヤーフォックス』(1982)のソ連は黒い、闇の世界である。大部分が夜のロケーションから成るソ連を舞台に、「見えないもの」に囲まれながらイーストウッドは最新鋭の戦闘機を探し回る。戦闘機は最も明るく照らされた基地にあり、それに飛び乗った彼は太陽に向かって発進する。
 『ペイルライダー』(1985)の最後の銃撃戦で、イーストウッドは闇の中へ入って行く。闇の先はどこか。闇から死角、見えないものへと移動して行く彼を7人のガンマンは追うことができず、イーストウッドは背後から彼等を順番に撃ち殺す。この闇から闇への超越的な移動が『クライ・マッチョ』でも起こったことが理解される。『ガントレット』(1977)でも彼はバスの中で「見えないもの」となっているために、事情を知らない──「見えないもの」を見ようとしない──警察隊は銃撃を止めることはない。
 ここまで来ると、我々は彼の現れを疑いたくなる。イーストウッドが光の世界に現れるとき、見えないものから生起する形をとる。『恐怖のメロディ』(1971)冒頭の空撮は、風景の中の一点、それまで見えていなかったイーストウッドを見えるように写す。『荒野のストレンジャー』(1973)では、蜃気楼の中よりそれまでそこに無かった彼の身体が現れる。

『荒野のストレンジャー』(1973)

『ペイルライダー』では少女の祈りによって、彼はだんだんと見えない領野から我々の視覚にフェードイン/アウトを繰り返しながら浮かび上がる。見えないものがあることで出現は果たされる。

『ペイルライダー』(1985)

 神出鬼没なイーストウッド、自由自在に光から逃げることが可能なその特性はもちろん彼が映画監督故に与えられた力である。『目撃(原題:Absolute Power)』(1997)で彼は豪邸に設置されたマジックミラーの内側に隠れて、殺人現場を「見る」。彼は決して見返されることはなく、一方的に眼差すばかりであるが、その特権、真実を知っているという点において、イーストウッドの勝利は約束されている。彼を追い詰める警察(エド・ハリス)、彼に追い詰められる大統領(ジーン・ハックマン)がイーストウッドより劣るのは、その権威などは関係なく、ただ彼が真実を見て、それを見られていないからに過ぎない。一方的に見て、かつ先回りして真実を知っているのは映画監督だけだ。知っていることが観客と監督の眼差しを分かつ。
 前節で指摘した『ホワイトハンター ブラックハート』の議論を両立させることは可能である。『グラン・トリノ』(2008)で我々が観たのは光に晒されながら静止する彼の身体であった。白人以外に対して犬のような鋭い眼差しを向けていたイーストウッドは、彼等との交流により、モン族の人々内で勃発した殺人未遂と性暴力に復讐する立場に置かれるが、しかし、人を殺すことにトラウマを覚える彼に、もやは暴力は許されない。そうしたとき、彼は初めて無防備な状態で光の中に立ち、陰に潜む人々を陰の中に留めながら「見られる」ことを選ぶ。その脆さを。その死を。

『グラン・トリノ』(2009)の終盤で主人公を「見る」アジア系住民。

「見えないもの」を見ることはできない。だからこそ、イーストウッドの身体は「見えないもの」から「見えるもの」として自らを客体にすることで世界に調和、法をもたらす。自らの身体を世界に捧げた預言者のように。

見せること、見せないこと

『陪審員2番』(2024)で橋の下を覗く主人公の主観ショット。

 では、クリント・イーストウッドの『陪審員2番』において「見えないもの」は如何に扱われているのだろうか。
 冒頭で確認した通り主人公ジャスティンは「見えないもの」を見なかったわけだが、そこに車で轢いた女性の遺体があり、彼女を殺した被告人として法廷に立つ彼女の恋人サイスの裁判に、ジャスティンは陪審員として関わることとなる。要するに、イーストウッドはここではじめて「見えないもの」を見なかったことを主題としている。ジャスティンは自分こそが女性を轢き殺した犯人であることの確信と、そこで「見えないもの」を見ようとしなかったことを巡って後悔するに至る。
 しかし、陪審員の中に犯人が紛れているサスペンスとしてだけでも本作は面白いにも関わらず、本作が特異であるのは、ジャスティンが被告人に有罪を突きつけるどころか、無罪の可能性を他の陪審員たちに示唆するところであるのは、映画を観ればわかることだ。

慈悲はまた同一化を含んでいる。私がエディプスについて、自分もそうでありえたかもしれないと思うならば、私は、彼の苦境がどのようにしてなぜ起きたのかを理解したがっているのだろうということになる。私はその動機や行為主体性の特徴すべてに、そして、もしも私自身が同じような苦境に陥ったならば重要な意味をもつと考えるような機会が不運なめぐりあわせにあったことに、意識を集中させるだろう。私は、これらすべてのことがどのようにしてなぜ起こったのか尋ねるだろう──優越者の高みからではなく、彼の悲劇を私自身の人生において起こりえたかもしれないものとして見ながら尋ねるだろう。悲劇とはこのように公平の感覚を、したがって慈悲を養う一つの場面である。

Martha C. Nussbaum, "Equity and Mercy", Philosophy and Public Affairs, vol.22, no.2(Spring 1993): pp.83-125:36.志田陽子訳。ドゥルシラ・コーネル『イーストウッドの男たち』(2009)、御茶の水書房より重引

 Nussbaumが述べるように、ジャスティンは被告に慈悲を与えるべく奮闘するべき正義感を持った人物でありながら、奮闘する必要もなく真実を知っている人物でもあり、加えて慈悲を与えるための同一化どころかまさに自分自身が犯人であるにもかかわらず、ただ保身のために自首ができない複雑な人物として描かれている。よって彼はサイスでもなく、自分でもない別の可能性に他の陪審員を誘導する他ない。
 ここでの誘導は、彼等に何かを見せようとすることとして表される。この映画のファーストカットに写るのは目隠しをしたジャスティンの妻(ゾーイ・ドゥイッチ)であるが、彼女の目隠しは「良き夫」であるジャスティンが手にしている。これは生まれてくる赤ん坊のための部屋をサプライズで見せる些細な描写であるが、法廷の前に建てられた「正義の女神」の目隠しでさえ、彼女が何を見て何を見ないのか、その主導権を彼が握っているかように思わせる。同様のことは、陪審員の一人である元刑事(J・K・シモンズ)を陪審員から除名したのがジャスティンであるという事実に対しても指摘ができる。元刑事はジャスティンと主張を同じくするものの、ジャスティンにとって敵となり得る。この両義性を備えた老人にイーストウッドがこれまで演じてきたキャラクターを当てはめるのは容易だ。だとすれば、彼の退場は、ジャスティンがイーストウッド的な自警主義をも操作する権力を持つこととを表している。ジャスティンは元刑事が持ってきた資料をわざと落とし、警備員に「見せる」ことで、このヒーローを舞台から降板する。この映画において追い詰められるべき彼こそが、判事以上に権力を持っていることを示す場面だ。

『陪審員2番』

 しかし、陪審員たちに対しては一筋縄にはいかない。見せるべき対象、それは「見えないもの」なのだ。事故現場への立ち寄りが許されて陪審員たちは真昼間に橋を訪れるが、明るみに照らされた橋の下を覗いてもそこに遺体はない。だからジャスティンの目的は永遠に果たされず、唯一見られることのできる対象である──証拠となる──自分の顔をバーの従業員の視線から背けることしかできない。陪審員の一人は、ここで我々は何も見ていないのだから誰が犯人であるかはわからないが、被告人は悪人であるのだから有罪であると発言する。確かに彼の意見は私刑的な断罪であり間違いであるのだが、一方でそれを聴いているジャスティンは、確かにそこで何が起こったのか見ていないが、誰が犯人であるか知っている。まさに『目撃』の主人公の対極に彼が位置付けられている。裁判の最後に検察官(トニ・コレット)とジャスティンの横並びは『アバウト・ア・ボーイ』(2002)以上に、『目撃』における全てを見ていたからこそ、自分の容疑を晴らすことができるため余裕なそぶりを見せる泥棒と、彼が犯人であると本気で思っていないながら接近する刑事による構図の逆説的な反復だ。

『目撃』(1997)

 また、ジャスティンによる視覚を用いた行動はもう一つある。それは家庭内において彼が闇に籠る癖があることだ。日中、特に法廷においてジャスティンは目を常に泳がせているが、反対に目をはっきり開く描写がある。それは闇の中であり、彼は妻に電気を消されたり、寝室で自分で消した後、長い時間をかけて宙を見つめている。まるで、見なかったもの──それは「見えないもの」であった──を見ようとするかのように。しかし、そこに見えるものはやはりないのだ。何故ならそれは「見えないもの」だから。

マット・デイモン

 ただし、イーストウッド映画において、「見えないもの」を見る存在がたった一人いるのも事実だ。俳優としてのイーストウッドも、暗闇の中に立ち入ることはできたがそれを見ることはできなかった。彼が『グラン・トリノ』で完全に「見えないもの」になった──かと思われた──次作、『インビクタス』(2009)と『ヒア アフター』(2010)において、マット・デイモンは超越的に見ることを許されたキャラクターとして登場する。

『インビクタス』(2009)

 『インビクタス』でラグビーチームが刑務所に立ち寄る場面で、マンデラ(モーガン・フリーマン)が以前収監されていた独房を前に、フランソワ・ピナール(マット・デイモン)はそこで過去のマンデラを見てしまう。独房に腰掛ける反アパルトヘイトの闘士、過酷な労働を行う大統領の過去の姿とは、イーストウッド映画においては本来在り得ない存在である。

『ヒア アフター』(2010)

 『ヒア アフター』のジョージ(マット・デイモン)は霊能者である。要するに死後の世界という最も「見えないもの」を見てしまうキャラクターとして存在する。本作は彼の霊能力が薄れていくこともなければ、それを見たこと、または見なかったことが罪に囚われることもない。ただ他者の喪失に寄り添うことの難しさ故に物語終盤までその力を呪いと捉えているだけに過ぎない。実際に彼は、亡き父の言葉を、その父に暴力を振るわれていた娘(ブライス・ダラス・ハワード)に伝えたために、彼女を苦しめることとなる。ただし、運命が彼を導いた結果、ジョージは、もう一人の主人公である双子の兄を失った少年の心を救うこととなる。
 なぜ、マット・デイモンが演じた2役がイーストウッド映画のルールから逸脱しているのか、ここでそれは問うことは難しいが、しかし、『ヒア アフター』の彼を媒介として、もう一つ重要な存在が見えてくる。それは子供だ。

「見てはいけないもの」を見る

 イーストウッド映画の子供は、大人たちと同様に「見えないもの」は見ないが、しかしその中でも「見てはいけないもの」を時折見てしまうことがある。『センチメンタル・アドベンチャー』(1982)や『パーフェクトワールド』(1993)の子供は、闇の中で行われる義父のセックスを目撃してしまう。それはフロイトの言うようなエディプス・コンプレックスの発芽(後者)でもあれば、近親相関の達成(前者)までも描き切ってしまうこともあるが、「見てはいけないもの」とはトラウマを含んでいることが理解できる。

『ミスティック・リバー』(2003)で性暴力を受けたデイヴは窓越しに親友2人と向き合うが、このカットで母親と思わしき人物がカーテンを閉め、彼は「見えないもの」となる。

 イーストウッドの映画においてトラウマは、時に真相と重ねられることが多い。『チェンジリング』で誘拐犯による残酷な殺害を目撃したのは子供であったし、『ミスティック・リバー』で3人の主人公のマスキュリニティが形成された要因は、明らかにその内の一人が性被害を受けたトラウマが関係している。他の二人は直接的にその暴力を見てはいないが、彼らの間で見たことと見なかったことによって、自我が三つに分裂することになったと指摘することは可能だろう。またトラウマは、『父親たちの星条旗』で唯一登場する大量の死体を見ることができた原因とも言うことはできないだろうか。兵士たちが映画の最後に子供のようにビーチではしゃぐ姿を思い出せば、彼らは子供だからあの光景を見ることができたのだ。
 一方で、ジャンル問わず、イーストウッドにより何度も演じられる子供との復縁のドラマは、子供、主に娘に対して家庭崩壊という一種のトラウマを与えてしまった父という関係性が前提となっている。これは監督作だけでなく出演のみの作品においても繰り返されている(『タイトロープ』『目撃』『トゥルー・クライム』『ミリオンダラー・ベイビー』『運び家』)。
 そして、子供のときに見たトラウマは大人になったときに回帰するとフロイトは説く。マット・デイモンはトラウマとは言い難い過去のマンデラをはっきりと眼差すことができたが、他のイーストウッド映画における回想シーンは、断片的なフラッシュバックを用いた細かいカット割りが印象的で、その内容のほぼ全てがトラウマである(『荒野のストレンジャー』『アウトロー』『ファイヤーフォックス』『ダーティハリー4』『ブラッド・ワーク』『ハドソン川の奇跡』…)。例えば手紙や、年老いた主人公による自身の過去についての語りそのものが映画となる場合も、それは全体がトラウマをめぐる物語となっている(『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』『J・エドガー』『15時17分、パリ行き』…。『マディソン郡の橋』における母の伝統的な規範から脱した情事は、それを読む息子にとって最大のトラウマだ)。

その覆いがあまりに本物らしくなかったので

ゼウクシスとパラシオスに関するあの古い寓話において、ゼウクシスの優れた点は鳥を惹きつけるほどの葡萄を描いたことです。ここで強調すべきは、この葡萄が完璧な葡萄であったということではなくて、鳥の目を欺いたということです。その証拠は、彼の相手、パラシオスがゼウクシスに勝ったことです。つまり、パラシオスは壁の上に覆いを描き、その覆いがあまりに本物らしかったのでゼウクシスは彼の方を向いて「さあ、見せてくれたまえ、君がこの向こう側に描いたものを」と言うほどだったのです。これによって、ゼウクシスが騙したのは目だったということが示されています。勝ったのは目を騙したものではなく、眼差しを騙したものでした。

ジャック・ラカン『精神分析の四期本概念』(1964)、岩波文庫、小出浩之・新宮一成・鈴木國文・小川豊昭訳、上巻、pp.222-223

 本稿はイーストウッド映画に見られる多くの「見えないもの」について言及してきた。彼の映画世界は“「見えないもの」は見えない”という法則に支配されており、この世界内における彼自身の身体はその法則を利用し隠れるのみならず、自らをカメラの前に「明るみに出す」ことも演出してきた。
 『陪審員2番』が革新的なのは、過去のイーストウッド作品に倣って見えないものを見えないままにしてきたことが過ちとして描かれた点である。「見えないもの」は、ベールを被っていてもしかし我々観客には見えるのだ。そのベールを被った「見えないもの」は確かにそこに在り、そして、やがて我々は劇中の登場人物と同じくそのベールを剥がすどころか、そのままのあらわれに酔いしれるしかなくなるのだ。「見えないもの」を見えないまま見ること。欲望を捨てながらものを見る行為を、イーストウッドの目を通して我々もできるはずだ。

10,550字
文:毎日が月曜日
校正:donotkickme

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