『ミッシング』/イーストウッドの不在と囚われた捜索者
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⚠️本稿は『ミッシング』(2024)に関するネタバレが含まれます。よって、映画を鑑賞の上、読んでいただくことを推奨します⚠️
序 失踪の不在
𠮷田恵輔の『ミッシング』が、ミステリーものとして特異な作品であることは誰の目からも明らかだ。そのオチこそ驚かれる観客は多いと思うが、比較的衝撃が大きかったのは映画の始まり方だ。
この映画は、ミステリージャンルにおける誘拐・失踪事件を扱いながら、その誘拐・失踪の瞬間が描かれない。犯人探しを観客と共に行うミステリーというジャンルにおいて、その誘拐・失踪の場を直接写すのは面白さを軽減させてしまうので、もちろんそのシーンを撮る方が珍しくはある。正しく言い換えるならば、『ミッシング』には後に失踪者となる人物──誘拐されたとは言い切れないため「失踪者」と表記する──と共に生きていた人が、その失踪に気づく瞬間が不足している。母沙織里(石原さとみ)の主観ショットによる、失踪前の娘の姿をうつした娘の成長過程を連ねたモンタージュがブツっと終わると、既に娘は失踪している。
失踪者を探すためには、その人が失踪以前まで誰かと共に生きていた必要がある。共に生きているのは家族であることが多い。その共に生きている人が主人公である必要はないが、失踪の事実を強調することで、家族のために彼/彼女を探す刑事や探偵といった第三者に共感しやすくなる。
であれば『ミッシング』が冒頭でその喪失を省いた──具体的には失踪から三ヶ月が経っている──ことには何の狙いがあるのか。比較されたラスト、その未解決というオチと出会って我々はようやく理解する。この映画は失踪者を「探す」映画ではないことを。要するに、失踪が描かれず、その失踪者が帰って来ないこの物語を通して、我々は目に見えぬ停滞と出会うこととなる。
第一章 『ミスティック・リバー』比較論
『ミッシング』という映画は──宣伝の売り文句以外の部分においても──ミステリーという形を物語上予想させながら、それを裏切る秀逸な構成が練られている。その構成として、ミステリーに欠かせないものが他にも欠けていることに気づく。
その不在の重要性を説くために、ここではクリント・イーストウッドによる傑作ミステリー『ミスティック・リバー』(2003)を参照しながら論を進めよう。
第一節 『ミッシング』の三つの視点
『ミッシング』は三つの視点から物語が進行する。一つ目は失踪した娘の母沙織里とその夫豊(青木崇高)という失踪者家族の視点。二つ目はこの失踪事件を取材するTV報道部と記者である砂田(中村倫也)の視点。三つ目は沙織里の弟でありながら捜査に非協力的かつ不審な言動が目立つ圭吾(森優作)の視点。一つ目の家族の視点は描かざるを得ないことは序文でも述べた通りだが、小さな街で起きた事件とはいえ、二つ目と三つ目の視点は何の役割を担うのか、立ち止まって考える必要がある。
何故この三つなのか、代わりはいないのか、そもそももう一つ有り得る視点があるのではないだろうか。それは警察の視点だ。この映画世界において決して警察は存在しないわけではない。画面においても彼等は時折現れる。また、彼等がこの失踪を事件として扱っていることもわかる。しかし、隠されているのはその捜査の進歩だ。それは秘密として家族にも報道部、そして観客にも秘められる。まさに、警察とは物語世界にいるはずだが、映画が採用しなかった視点なのだ。
では、いったい何故採用しないのか。まさにミステリーというジャンルとその物語を崩すためであると言わざるを得ない。警察の物語への介入は、『ミッシング』が志す「停滞」を否定してしまうからだ。
その警察が持つ非停滞性を確認するため、ミステリー映画の傑作と比較してみたい。
第二節 『ミスティック・リバー』の三視点
クリント・イーストウッド監督作『ミスティック・リバー』も、殺人事件の犯人を追う──探す対象が誰だかわからないという点において──ミステリーであり、同じく三つの視点が採用されたサスペンス映画であった。その三視点とは、娘を殺した犯人を探す父(ショーン・ペン)、同じく犯人を探す刑事(ケビン・ベーコン)、事件当日に怪しい行動を行なっていた彼等の幼馴染(ティム・ロビンス)だ。
何故視点は彼らに与えられているのか。『ミッシング』と同じく、被害者家族であるペンはわかる。次に刑事ベーコンの視点であるが、これは犯人捜しのミステリーであるため、その捜査が面白い。では、ロビンスは何者なのか。
第一に、彼等が幼馴染であることがわかりやすい。作品のテーマとも言える「もしあの時、車に乗ったのが自分だったら彼女は殺されなかった」という台詞が意味するのは、幼少期にロビンス一人が車に乗せられ性的暴行を受けた事件をきっかけに、運命が形成されてしまったという劇中人物の推測である。その運命とは娘の殺害の後にも続き、父親であるペンによる誤った新たな殺人が行われてしまうことをも指す。その新たな殺人という運命を描く上で彼等三人は運命の糸で繋がった重要な登場人物であることがわかる。
また、殺人へと至る誤った捜索が描かれるのとともに、『ミスティック・リバー』は本当の犯人探しも進行していく。ベーコンによる捜査はペンには隠されているが、段々と真相に近づいていく独立した面白さがある。『ミスティック・リバー』が三つの視点をとっていることの説明は一旦ここまででも理解できるだろう。運命という主題を徹底させるための誤った殺人を行う人物とその被害者、ミステリーとして探す者、被害者家族、疑われる者等々。そこにはあらゆる三角関係を形成することができる。監督イーストウッドが上手いのはその三角関係において刑事であるベーコンが大きな過ちを犯さない存在として描き切ったことだ。
第三節 イーストウッドと警察、自警団
イーストウッドは、出演作・監督作問わず常に警察や法といった「正義」の腐敗と闘ってきた俳優である。もちろん時代の流れもあったが、保安官が正義であり犯罪者が悪とされる西部劇において、法の不正を裁くイーストウッドはツァラトゥストラ的人物であった。『荒野の用心棒』(1964)は善悪が混在する街に、彼は外からやって来て──善をもたらすというよりは──悪を皆殺しにして帰っていく。決して正義をもたらすわけではなく、悪は一括して皆殺しにする活動はその後一貫して行われる。『許されざる者』(1992)に至っては、もはや彼がそう望んでいるわけではないにも関わらず悪を全員退治してしまうその運命が描かれている。彼は法の外でそうした活動をするため、たった一人の自警団である。
そうしたイーストウッドが『ミスティック・リバー』において、警察を正しい存在として描くのは何故か。それはこの映画においても存在するイーストウッド的存在=自警団であるペンの正義を誤りとして描くためではなかろうか。ここにきてイーストウッドは自警団としての限界を知る。続く『ミリオンダラー・ベイビー』(2004)では、神にとっても自警主義としても許されない選択を、自由な使者であるからこそイーストウッドはその身体によって選ぶ。『チェンジリング』(2008)も同じくミステリー映画の傑作であるが、ここでは警察は再び誤ちを犯す組織として描かれはするものの、一方で自警団による勝利は、後述するように、主人公の目的から逸れたものとして果たされる。『グラン・トリノ』(2008)のラストとは、まさに自警団の死を意味している。
第四節 警察と自警団の不在
改めて『ミスティック・リバー』のベーコンに関してだが、彼の捜査と被害者家族であるペンのそれとを分つものとは一体何か。刑事であるというその職業柄にあるのではないかと筆者は考える。この映画で復讐心に燃えるペンと冷静に捜査を進めるベーコンを純粋に見て、一応の主人公であるペンの方を信用する観客は少ないだろう。仮にペンの視点から警察を疑う観客が存在するならば、それはイーストウッド映画を観続けてきた人に限定されるだろう。まさにそうしたお約束のようなものを監督であるイーストウッドとそのファンが共有しているようで、だからこそ純粋に見た時、ベーコンの疑いようも無さが却って浮いて見えたりもする。しかし、やはり観客は荒っぽいショーン・ペンと比べなくてもベーコンの捜査を信用できる。それは、繰り返し言うが、彼が警察に属する人間だからだろう。
この様に、警察とは物語において信用できる存在だ。間違えることはあっても、それはやがて真相への糧となることをミステリーというジャンル自体がその歴史において保証してくれる。だからこそ、その警察を描かない『ミッシング』が圧倒的な停滞を継続することができるのだ。
そして、また自警団の不在がその停滞に加担している。沙織里夫婦は一応被害者家族であり自ら捜索者であるが、そこには失踪が誘拐に変わる時に現れる誘拐犯に対する復讐心が見えない。もちろんこれは彼等にとって失踪が誘拐に変わることが耐えられない現実であるからだが、しかしそうなると、不審な言動で明らかに誘拐犯であると観客に疑わせようとしている弟の存在が浮くが、彼の失態と姉の怒りとは預けていた娘を監視していなかったことにあるため、結局犯人探しという要素は沙織里の中には存在せず、またその自警主義の不在が物語に悪影響を与えることもない。弟の存在は却って、停滞に加担しているという意味では物語に貢献しているとも言えるだろう。
仮に沙織里に、犯人に対する復讐心・殺意があったならばこの物語はやはり停滞を止め、変化を起こしてしまっただろう。以上の理由から『ミッシング』には警察と自警団が不在なのだ。
第二章 物語批判
なぜ『ミッシング』がミステリーというジャンルを解体しようと試みていると、筆者が指摘するのか──先に言うべきであったが──それは劇中、間接的に言及されている。
第一節 報道批判
まず、『ミッシング』の三つの視点の内、触れてこなかった報道部の視点について考えたい。砂田は地方局のディレクターとして腕は高いものの、業界にとってお荷物的な存在でもある。報道とは、刑事事件一つとっても、決して被害者の救済にその目的が向かうものではなく、常に視聴者の方を向いていることが劇中示唆される。事件のインパクトこそが視聴率を高め、その解決の遅延は目的にとって都合が悪い。解決した際には視聴者の興味は戻って来るかもしれないが、解決に至る過程の部分に進歩がなければ話題にするものがないためだ。砂田は沙織里家族に寄り添いたい意思を優先させた結果、世間が喜ぶスキャンダルを横断的に取り上げる後輩のディレクターに出世の機会を奪われる。そうした彼の姿を通して、被害者に寄り添う世間、彼らの思いやりや興味は時間と共に風化していくこと、その上に報道が成り立っていることを我々観客は知ることとなる。そうなると、警察が不在のまま進む報道頼りの失踪者捜索とは、時間が経てば経つほど手掛かりが少なくなる。そして、捜索者は停滞を余儀なくされる。
第二節 「物語」の罠
こうした批判は決して報道に対するものに終わらない。中村が視聴者を意識するように、𠮷田恵輔が観客を意識していることがうかがえる。要するに報道に関して視聴者が求めていることとは「物語」である。だからこそ、「物語」が求められる報道・映画において停滞は許し難い脱物語的展開である。視聴者・観客がその物語に飽きた場合、次のチャンネルに変えていくように、作り手たちも停滞を迎えた物語は捨て次に進まなければならない。フィクションの場合は嫌でもそこに進展を加えざるを得ないのだが、吉田はそこに停滞を加える。停滞と言っても、映画は一定の速度で進むためそれも一つの進展である。『ミッシング』が面白いのは、そうした停滞を退屈として、観客がこうしたミステリー映画に対して常に「物語」を求めていることを告発するだけに終わらず、捜索以外に釘づけになる対象を用意したことだ。
この物語の停滞は、何も変化を生まないのか。不確かな情報に騙され遠回りし、結局最初の地点に戻り続ける夫婦だが、その夫婦、特に沙織里の感情と身体はこの映画で変化し続ける。それはキャラクターの成長などでは決してなく、その崩壊だ。失踪者家族の心情の変化であり、まさにこの映画は、停滞により増す不安で壊れていく沙織里の身体を観るしかない見世物的悪趣味をも告発する。我々観客はミステリーものとしてあまりに事件が解決に向かわないため、次第に沙織里の感情と身体が壊れていくところを期待し見入ってしまう。砂田も仕事の焦りからその壊れた彼女にふとカメラを向けてしまう。また、彼による娘不在の誕生会の開催やビラ配りの姿勢に対する提案などは、まさに停滞を恐れた結果動き出してしまった「物語」とも言い得る。中村の働きにより、我々は再び「物語」に浸ってしまうという罠に陥ってしまうのだ。
そして、最大の罠とはラストに訪れるビラ配りの協力者の存在だ。彼女の存在は、それまで見向きもしてこなかった世間の変化を表しているかのように見える。しかし、彼女は別の失踪者の母親であり、その娘が失踪した際に沙織里夫婦に助けられた恩がある。無事に誘拐犯から娘を取り返した彼女は、その恩を返そうとしたに過ぎない。印刷屋の店主の好意はどうか、世間の温かさを代表しているのかもしれない。しかし、それが何だと言うのか。時間の経過と共に壊れていった沙織里にとって、その「優しさ」は大きなものに感じられるかもしれない。しかし『ミッシング』という映画は決して「良い話」として話を終えていない。そう見えるのが罠であり、結局物語が閉じれば、報道と同じくそこで「物語」も観客の中から消えていくことをも示している。
第三節 イーストウッド再考『チェンジリング』
しかし、筆者としては、全くもって観客が無責任だと言いたいわけではないし、𠮷田もそれは同じなのかもしれない。要するに、この映画は、その存在を以て「映画とは何か」という問いの延長線上に位置する、ミステリーとは何か、ジャンルとは何か、「物語」とは何かという問いに対する批評のようなものだと考える。
ここで思い出すのはイーストウッドの『チェンジリング』だ。そこが映画の本質ではないためオチを明かすが、あの映画も『ミッシング』と似た終わり方をする。
またもや警察は腐敗しており、失踪した息子を発見した手柄欲しさに根拠なく母親(アンジェリーナ・ジョリー)に別人を差し出し、彼女がそれを訴えると精神病院にぶち込むといった最低な組織であった。とすればイーストウッド映画の伝統に則ってジョリーは自警団となるのか。確かに自分を騙した警察を告発し、精神病院に理不尽に入れられていた患者を解放する点において、彼女は自警団である。しかし、それは警察の腐敗を恨む神父(ジョン・マルコビッチ)の手助けであると共に彼自身の欲望であった。マルコビッチは被害者である彼女を主体とする自警団を作り、自らの欲望を叶えていく。勿論、それは彼女の復讐に重なるがそれは彼女の欲望ではない。精神分析家のジャック・ラカンの言う「欲望とは他者の欲望である」ことを逆転させて、マルコヴィッチはジョリーを利用する。同時に彼にはジョリーの息子を探したいという欲望が欠如している。
さて、マルコヴィッチとの共闘とは別の所で逮捕された誘拐犯に対して、彼女は復讐心をむき出しにするだろうか。否、彼女は彼を前に怒りを露わにする一方で、その怒りは息子がまだ生きていると信じ、どこにいるのかを問うているに過ぎないのだ。後にジョリーは誘拐犯の処刑を見つめる。周りの聴衆は彼が死ぬと彼の遺体から目を背けるが、ジョリーは見続ける。その死によって息子が、彼女が見続けて来た対象が消えたことにはならないからだ。
時が経ち、フランク・キャプラによる幸福な映画がアカデミー賞を獲った夜、彼女は一本の電話を受け取る。彼女が警察に駆けつけて我々観客が知らされるのは、見つかったのは同じく誘拐されていた別の子供だったという残酷な結末だ。それでも彼女はその子供を見つめながら、まだどこかに生きていると信じている息子を眼差し涙を流すのだ。そして彼女は生涯息子を探し続けたことを知らせる字幕が画面に出て映画は終わる。
『チェンジリング』は『ミッシング』とは異なり、停滞はせず、常に緊張感あるサスペンスが張り巡らされた映画だ。ジョリーが見ていない光景、聞いていない情報が観客に映像で示されることもある。しかし、ジョリーは決して観客と共にそのスリリングな展開を享受せず、息子を探し続ける。「物語」が終わっても、映画という内的世界において。正義が悪を打倒する、というわかりやすい物語の中に、捜索者の居場所はない。喪失を知った者がそれを取り戻すために捜索する、ということが物語化される過程で、いつ再び出会えるのかという観客の期待・スリルさえ、当の捜索者は抱かない。彼等はただ観客にミステリーの引き立て役として消費されるだけになりかねない。 『ミッシング』はそうした喪失者を客体としてしまう映画の露悪さを暴き、『チェンジリング』はその観客の消費する眼差しを気にすることなく、自分の目的を生きようとする強き主体の物語なのだ。
最後に何年も探し続けて来た人が、憎む相手の「所有物」になっていたことを知った瞬間、それを手放そうとした男を描いた『捜索者』(1956)を思い返さずにはいられない。彼は最後、物語化する暴力(フレーム)の中に残されたまま生きていかなければならない。
結語 囚われた捜索者
直前に挙げた『捜索者』のラストショットが表すのは、繰り返すようにフレームから出ることのできない──何故ならば、それは彼が過去の罪や後悔に囚われた人だからだ──カメラの前に立った俳優の運命なのだ。この直後に強引に閉じられるドアは決して彼をフレームから解放するわけではなく、強制的に世界を閉じることでその囚われを永遠のものとする。誘拐された姪以上に囚われた人であるジョン・ウェインはそうした世界の不条理に諦めた様子さえある。
『チェンジリング』のジョリーも、息子と同時に囚われた子供を取調室の外で見つめるが、ガラス越しに彼女が見つめる先にはあるのは、他人の子供と反射した自分の顔という二つの映像だ。『ミスティック・リバー』の終盤、己の運命を嘆いた後にペンとベーコンを収めた移動ショットは、幼少期のロビンスが車で連れ去られた際の切り返しの反復であり、車に囚われたロビンスと相対するようにフレームに囚われた二人を映し出す。車とは動く窓であり、カメラと共犯関係を結ぶ。ジョリーはガラス越し見た面影と自分の運命に囚われ、ペンとベーコンは過去と罪に自分たちが囚われていることを知る。それはいずれもフレームで囲まれた表面とその内側を見るという、映画鑑賞的態度によってもたらされる。
『ミッシング』においても、視点の所有者である沙織里、砂田、圭吾は一人一人ガラスに収まるショットが用意されている。フレームに収まる彼らの声がガラス越しに遮断されるのは何故か。まさに彼等が声を持たない客体として囚われた存在であることを示すためだろう。
イーストウッドの『ミスティック・リバー』『チェンジリング』そして『ミッシング』を通して、我々は失踪者を探すうちに画面に囚われ続けてしまう捜索者を見ることができた。果たしてそれが映画の運命なのだろうか。捜索者たちはガラスを通してフレームの外側にいる失踪者をただ眼差すことしかできない。
文:毎日が月
校正:donotkickme
8,895字
参考文献
三浦哲也『サスペンス映画史』(2012)、みすず書房
濱口竜介『他なる映画と 1』(2024)、インスクリプト
吉田広明「傷の消滅、裸形の顔」、『ユリイカ』2009年5月号収録
佐藤雄一「ミスティック・リバーをめぐって」、同上
木村有理子「卑屈さと卑劣さをめぐって」、同上
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