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サスペンス映画の囚われ性と『セキュリティ・チェック』

『キートンの探偵学入門』(1924)で映画に囚われるキートン。

 本稿はジャウム・コレット=セラの『セキュリティ・チェック』(2024)の批評であるが、その囚われ性に着目すべく第一章ではサスペンス映画史を部分的に振り返る。ジャン・ルノワールによる演出の意図、ヒッチコックがルノワールから継承した囚われ性を確認し、ヒッチコック以後の一部の作家に触れる。また、2024年公開の映画の中にはこの「囚われ性」を意識させる傑作が偶然にも多かったため、手短に紹介した後、第二章にて『セキュリティ・チェック』を論じる。一章で確認したことが二章において総括的に映画に見て取れるためこのような構成となっている。『セキュリティ・チェック』に関しては、ネタバレがあるため、鑑賞後に読んでいただくことを推奨する。

第一章 囚われのサスペンス映画史

第一節 ルノワールの囚われ性とヒッチコックによる去勢

ルノワール『黄金の馬車』(1953)

 ジャン・ルノワールの『黄金の馬車』(1953)のラスト、舞台の上にしか自分の人生はないと嘆くカミーラ(アンナ・マニャーニ)のその言葉が意味するのは、旅芸人としての彼女の人生と、フレームに囚われたマニャーニ自身の身体を指したものだと指摘されている。ルノワールは繰り返し映画に演劇的モチーフを導入することを躊躇わなかったが、彼は──カミーラが言うような──舞台を観客を前にして立つあの高台ではなく、映画のフレーム内全てに設定していたことは、彼の作品を観れば察しがつく。『ピクニック』(1946)におけるレストランから覗き見られるブランコを漕ぐ女たちの風景は、その窓枠により風景全体が舞台であることを示す秀逸なフレーム内フレームのショットだ。

ルノワール『ピクニック』(1946)

マニャーニ然り、「役者」たちはその世界からの脱出を諦めざるを得ないが、同時に『ゲームの規則』(1939)の殺人の事故処理や『フレンチ・カンカン』(1954)の最後の笑みには、ある種の開き直りも感じ取られる。
 一方でヒッチコックの場合、舞台に囲われた「役者」たちには諦めどころかそもそもそうした感情はない様子で、目の前の生はもう変えようはなく、非政治的態度を取ることを強いられているというよりは、一つの欲望器官を去勢されているとしか思えない。もちろんヒッチコックの映画とは欲望抜きには語ることはできないものであるが、その欲望の原因を与えるために、彼は主人公たちに生を充分に与えるのと同時にその外側の一切を遮断する。そうすることで主人公は画面の中央に置かれることとなり、スクリーンプロセスとの合成宜しく世界に貼り付けられた形でしか移動することができない。ルノワールの映画におけるよりも遥かに不幸なゲームの駒でしかない「役者」は、不動性を強いられた観客と同じ位置に立ち、サスペンスの主体かつ客体として映画に観客を巻き込むこととなる。
 だが、外側に気づくことのないヒッチコック的主人公がその外側を意識しなければしないほど、観客にとってその外側は気になり始める。その外に誰がいるのか。外が無であれば誰もいないはずだが、ヒッチコックはわざわざその有限世界に顔を見せるものだから我々は気づいてしまう。映画監督という創造主の存在を。彼こそが主人公に生を与え、かつ主人公を支配する諸悪の根源であることを。ヒッチコックはその「男性的」な性格から、自分の創造物に反撃されることを恐れ、世界を検閲する。もし、外の存在に気づいた場合、「外側に出たら死ぬぞ」と鳥を飛ばして見せる。だから主人公たちは内側の世界に目を向けるだけに留まり、空に空いた裂け目は放っておいて目の前に広がるアパートの風景に違和感を抱き観察することしかできない。何か見えているようで見えないものを見ようとすること。こうしてサスペンスが始まる。内も外も同じように。

ヒッチコック『裏窓』(1954)

第二節 ヒッチコック以後のサスペンス映画史

 ヒッチコックという決して倒されることのなかった敵に反撃する方法はあるのか。それがヒッチコック以後のサスペンス映画史だ。
 スピルバーグの場合。彼の映画の子供達は、ある日外からの侵略によってトラウマを植え付けられる(『太陽の帝国』『宇宙戦争』)のと同時に、外の可能性に気付かされる。

『宇宙戦争』(2005)のトライポッドは三脚のついたカメラのようである。

しかし、脱出は毎度のことながら果たされずに終わる(『シンドラーのリスト』『フェイブルマンズ』)。そうした失敗を通して子供達は大人へと成長をする(『E.T.』『ジュラシック・パーク』)、というのがスピルバーグ流のサスペンスフルなイニシエーションである。
 イーストウッドの場合。彼の映画の主人公は彼自身である。圧倒的な権力を宿した身体を持ってイーストウッドはカメラの前に立ってみせるが、しかしカメラの前に立つ存在は誰であれその身体を脅かされる危険がある(『恐怖のメロディ』『ルーキー』)。イーストウッドのほとんどの映画がそうした身体に傷を負った後から物語が始まるのは、映画の内と外が絡み合い、イーストウッドのイメージが映画を超えて別の映画と接続するからだろう。『荒野の用心棒』(1964)で受けた拷問は未だに彼の身体に染み付いていると我々観客は錯覚する。イーストウッドは一度傷つくことで、フレームの不可視の部分である陰に潜り(『ペイルライダー』『目撃』『クライ・マッチョ』)、創造主の力を持って敵を皆殺しにする。この絡み合った両義性はイーストウッドが監督であるのと同時に俳優であるという主客混同にまさに現れている。

初監督作『恐怖のメロディ』(1964)でイーストウッドは自分の肖像画をストーカーに刃物で切り裂かせる。

 ヤン・デ・ボンの場合。止まることを許されない装置(『スピード』)とは映画のことである。それは決して倒すべき対象ではなく、その四角い領野の法に従えば命は保障されている。しかし、チェイサーたちは、最も死に接近した時にだけ得られる快のために、映画という死に近づいて行く(『ツイスター』)。そして近づいたときに行うことといえば、その装置を用いてやはり監視者を騙す映像を作ったり、その死を消すことではなく観測するという映画的欲望に忠実な態度だった。

 トニー・スコットの場合。彼の映画において世界を牛耳る監視者は監視の中に既にいる。カメラやモニターが画面内に写り込む、要するにそこにおいて二重に監視が働いており、この世界の仕組みが我々観客に暴かれている状態から物語が始まり、やがてその監視される対象である主人公もまたその覗き見に気づき逃げることとなる(『エネミー・オブ・アメリカ』)。トニー・スコットがヒッチコックの映画術を一歩進めたのは、その監視者の位置に主人公も立つことができることを示したからだ。主人公は我々観客と同様に椅子に座り映像を凝視したり(『デジャヴ』)、または映像を所持して敵と交渉する。これによって、彼はそれまで監視していた者を監視塔から引きずり下ろし、彼自身が新たな監視者となるのだ。

トニー・スコット『デジャヴ』(2006)

 他にも現代サスペンスの作家にはブライアン・デ・パルマやクリストファー・マッカリーなどが挙げられるがここでは紙幅の関係から割愛する。
 サスペンスにはまず囚われることが必要であったからこそ、私は最初にルノワールを持ち出した。囚われることの不条理、閉じた世界が一瞬開かれたときの違和感からサスペンスが生じるわけだ。その裂け目はヒッチコックにおいては、外から覗き見られるだけだったが、そこに空いた穴を見返すことがヒッチコック以後のサスペンス映画史である。

第三節 近年の囚われ性

 今年公開された映画にはどこかこれら囚われのサスペンスの系譜に連ねたくなる傑作が多い。それこそ『ツイスター』の続編『ツイスターズ』があった。しかし、この傑作はヤン・デ・ボン的なサスペンスを追求することには興味はなく、もう一方の竜巻を死の欲動として捉え、それはつまり映画ですよという宣言が力強い。

 また、囚われ性を追求した傑作だと『エイリアン:ロムルス』があった。この映画は鳥籠に囚われた鳥から、格子状のエレベーターに乗る主人公まで、あらゆる箇所に囚われのイメージを配置している。

 『バッドボーイズ RIDE OR DIE』はマイケル・ベイの名前を忘れたくなるほど、トニー・スコット愛に溢れた映画だった。『エネミー・オブ・アメリカ』の時と同じようにウィル・スミスでしかないウィル・スミスが主人公であり、彼がモニター越しにイラク帰還兵を俯瞰したり、攻撃用ドローンを追うドローンショットという非常に映像論的なショットが豊富で驚かされる。

『バッドボーイズ RIDE OR DIE』(2024)の元兵士はカメラに向かって敬礼する。

また、トニー・スコットといえば赤い帽子を被った姿が有名だが、『SUPER HAPPY FOREVER』はその目配せだろうか。
 しかし、繰り返すようにこれらの作品は傑作であるもののサスペンスの追求としてはイマイチ足踏み状態ではある。では、ここでトニー・スコットの赤い帽子が登場するもう一つの作品である『セキュリティ・チェック』について言及していこう。本作にサスペンスの上手さと、やはりそこに囚われることの主題があることを確認する。

第二章 『セキュリティ・チェック』

ジャウム・コレット=セラ『セキュリティ・チェック』(2024)

 それまで囚われていた主人公が、捕らえていた者に復讐をするとき、どうすれば良いか。捕らえ返せばいいのだ。トニー・スコットが描いたように監視塔は部屋であり、そこには主人公も居座ることができる。

第一節 「見られている」ことを知る

 『セキュリティ・チェック』の主人公イーサン(タロン・エジャトン)は監視されている。そして監視されていることを監督のジャウム・コレット=セラは囲うことのイメージで表象してみる。どういうことか。監視カメラを切り返してイーサンを写せば、確かにそれは「監視カメラに見られているイーサン」を表すことになるが、セラはその監視カメラで撮られた映像をリアルタイムで写すモニターを──つまり監視塔の中においてカメラを回し──撮っている。

 我々は普段映画を観ているとき、何故かその輪郭が四角であることを忘れる傾向にある。特に映画館の大きなスクリーンを眺めるとき、視野一杯に広がる映像は視野の左右の死角に入るときさえある。であれば映画の四角いスクリーンとは窓のようなものであり、その四角い形状は映画の本質とは何の関係もないのかもしれない。しかし、ルノワールを思い返せばその形状とは、奥行きのある空間を捕らえるための囲いであった。そして、私がここでルノワールを思い出したように、映画作家たちはフレーム内にフレームを置くことで観客にその機能を思い出させる。フレーム内フレームとは、その映画がフレームを如何に捉えていようと「あなたが見ているもの、それは映画ですよ。そして映画とは〇〇なものですよ」と知らせる点においては一致している。
 だから、我々はフレーム内のモニターに写るイーサンの姿を見て、彼が囚われていることを強く意識する。また、我々は同時に彼が「見られている」ことをも改めて理解する。再びルノワールの『ピクニック』のショットを引こう。

レストラン内から外を撮るカメラの間に例の窓枠があり、その手前に男性二人が座っている。男二人は我々に背中を向けているわけだが、我々は彼らが何をしているのか知っている。彼らは明らかにブランコを漕ぐ女性たちを眼差している。彼らの前に窓枠で囲われた風景があることで、彼等がその風景を見ていることを我々観客は、彼等の視線を確認する必要もなく理解することができる。フレーム内フレームにはこういった不思議な効果がある。
 もちろん『セキュリティ・チェック』において、先に指摘した通り監視カメラが写り次にイーサンが写れば、それは彼が監視されていることを示すのに充分だ。ただ、セラがここでモニターを執拗に挿入するのは、やはり彼も映画の登場人物が四角に囲われた「役者」であることを知っているからだろう。そして、この映画において主人公は「役者」となることを「映画」に強いられるのだ。

第二節 「見る」ことを「見る」こと

 イーサンはイヤフォン越しに監視者(ジェイソン・ベイトマン)から指示を受け、生物兵器を飛行機内に持ち込むことを「見過ごす」ことを強いられる「役者」であるわけだが──犯人は実際に「演技をしろ」とまで言う──彼の職業が「見る」ことに特化した内容であることを見落としてはならない。彼も監視のプロである。彼はモニターを前にスキャンされた荷物の中を「見る」が、先述した通り、画面内にモニターが登場することが、その映画の登場人物たちが視覚を持っており、そしてまさに今、そのモニターを見ている人物がいることを我々映画を観ている観客に知らせる。要するに、ここでの構図としては、旅行客の荷物の中身を「見る」イーサンもまた天井の監視カメラによって犯人から「見られている」──そして犯人も観客から「見られている」と言うのは調子に乗り過ぎか。
 さて、「見る」「見られる」の対立で圧倒的な強者である前者が危機に直面する瞬間とは、「見られる」客体が「見る」主体に変わったときだ。何故強者はそうした恐れを抱くことなく今まで見ていたのだろう。「見る」「見られる」において、同時に両者が「見る」ことなどあり得ず、常にどちらかが「見る」方で、他方が「見られる」方なのだ。そして、それが最も色濃く示されるのは、弱者が強者を見返した時、つまり彼が自分と同じ存在(他者)であることを初めて知った時なのだ。

第三節 現実よりも映像が真実を宿す

 監視者(犯人)はイーサンの前に恥じらわずに姿を見せるではないかという指摘は真っ当だ。二人が対面した時、イーサンの眼差しは監視者のそれには打ち勝てない。何故なら監視者はイーサンが視覚を持った人間であることを最初から知っているからだ。であるならば、監視者の眼差しだってイーサンには最初から同等の価値を持つに過ぎないかと思われる。しかし、ここで一歩監視者が有利なのは、映像によって彼を眼差す権限を与えられているからだろう。

ここでもイーサンは四角い枠に囚われているわけだが。

 第一節で確認したように、フレームに囚われているイメージによってイーサンが「見られている」ことを知る。そう、まだ監視者はイーサンによってフレームに囚われていないのだ。お互いに眼差しは交わした、しかし、映像に撮られたのは一方のみであるからこそ、前半においてイーサンに勝ち目はない。では如何に勝つか。その方法はイーサンが監視者の監視者となり、彼を映像に捕らえることだ。
 カメラを持って突っ込めば良いというわけではない。まず、イーサンは運び屋役の「役者」──ヘテロカップルのために犠牲になるゲイ💢──から託されたスーツケースに罠をかける。なぜ、犯人はそれまで何度もイーサンの罠を「見」破っていたのに、ここで騙されたのだろうか。二つ指摘が可能だ。
 第一に、彼は実際にはモニターを監視していたわけではない。別の場所で監視している仲間が、彼にイーサンの怪しげな行動を逐一報告していたことを思い出す。犯人はチームで動いており、まさに彼が個人としてスーツケースを取りに来る前後にチームは崩れかけていた。
 第二に、監視者はここで映像を通さずにイーサンと対峙したため、視界に入るものの判断を「見」誤ってしまったと考えられる。つまり、映画内の登場人物たちにとって──イーサンでさえも──、現実の光景よりも映像の中の光景の方が信用に値し、疑いを持って観ることができるというわけだ。何故なら二人はこれまでモニターに写った映像を「見る」ことを仕事にしてきた。だから彼等はその疑い方も信じ方も知っているが、モニターを通さず自分の目で見たことを処理する経験が足りていない。
 というわけで、犯人はここで実際に映像越しにイーサンと対峙することがなかったため、知覚判断を「見」誤った。そして、イーサンといえば日頃の「見る」ことの習慣からか、「見」間違えることを想定し、このトラップ──空港で働く者が精通している、空港という空間を利用した罠──を敷いたというわけだ。

映画の冒頭、寄り道をしたイーサンが職場へと向かう際に通過する近道は、後半の舞台となり、かつ彼がこれらの地理を知り尽くしていることを示す。

第四節 捕らえること

『ローグ・ネーション』(2015)のラストが本作の全編と類似しているのはCマッカリーが大のヒッチコックフォロワーだからだろう。M:iシリーズとは「演じる」ことを追求してきた。

 そして終盤、舞台は飛行機の機内となる。広大な空港から始まった本作が最後に向かう小さな箱。そして、犯人は最後どこにいただろうか。冷蔵庫という箱は檻であり、イーサンはそこに再びトラップを敷いて犯人を誘導した。そこで行われた演技、それは犯人が彼に教えたものだ。
 イーサンはここで三つの方法による復讐を見事に果たす。まず、もうお気づきだと思うが、囚われていたイーサンによる犯人を捕らえるというその行動において。次に、直前に指摘した通り、演技という授けられた術による形式。最後に、ここではじめて犯人がモニターに写ることを見逃してはならない。機長がコンテナの様子を確認する際、そこで犯人は映像に撮られる。これが決定的に彼が敗北することを我々に知らせる。
 更に、この三重の復讐を分析すると、イーサンという演技をする「役者」をそれまで撮ってきた犯人とは、言うまでもなく映画監督的人物であり、最後に彼はカメラの前に立たされ、イーサンを「役者」として「見た」ことを裁かれる。これがまさに映画の登場人物による映画に対する復讐である。脱出不可能な世界で如何に敵を倒すべきか。それは敵を罠にかけ監視塔の外へと誘導し、彼を映画の中の映画に閉じ込めること。映画の中の映画とはそうした力を持ち、そして我々観客にとって映画とは、映画の中の映画と同じ価値を持つものなのだ。

結語

 では、サスペンスとは一体何なのか。目の前に現れたシミ、その違和感から想定され得る最悪の結果を想像しながら現実に対処する方法。その想定、想像とは視覚的な幻想であり、その正体は映画なのだ。登場人物たちが未だ見ぬ想像に思いめぐらしているとき、我々観客は目の前のスクリーンに広がる映像を真実であると思い込む。観客が映画に囚われることではじめてサスペンスは生じる。そのサスペンスの構造をルノワールは用意し、ヒッチコックが構築し、ジャウム・コレット=セラは復讐したのだ。

文:毎日が月曜日

参考文献

  • 三浦哲也『サスペンス映画史』みすず書房、2012年

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