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知っているか、知らないか
「梅が咲いたら紫外線」
最近覚えた言葉。
桜は気温で開花するが、梅は日差しで開花するらしい。だから、梅が咲いたら紫外線対策を始めないといけないですよ。
美容部員だった方から教えてもらった、素敵な伝え方。季節ケアをとっても、こんな伝え方をされたらぱっと関心を引くだろうな、と感心しました。
さて、最近つらつら思っていたことを書いてみます。
頭がいいの定義について
偏差値や学力と賢さは別物だということは、なんとなく周知の事実でしょう。
でもたしかに頭がいいなと思う人には共通点があって、わたしはそれが言葉の知識量だと思うのです。
ぐるぐる考えていた中で、一つ立った仮説。
「究極、知性とは『知っているか知らないか』の連続なのではないか?」
知識を知っているか、知らないか。
これがいわゆる受験や博識、雑学王、オタクと呼ばれる人間。
(知っているだけの知識が多い人は「頭でっかち」と呼ばれるのかも。)
その知識の使い方を知っているか、知らないか。
行動への移し方を知っているか、知らないか。
人への思いやりや人の傷みを知っているか、知らないか。
お洒落なカフェを知っているか、知らないか。
美味しい店を知っているか、知らないか。
最近流行りの音楽を知っているか、知らないか。
あの人が好きなスポーツチームの選手を知っているか、知らないか。
その人に伝わる伝え方を知っているか、知らないか。
うまく渡り歩く術を知っているか、知らないか。
人生にいろんな選択肢があることを知っているか、知らないか。
センスも感性もビジネスもアートも
人間とは常に、知っているか/知らないかの二択で生きているのではないか。
知らなかったことを、知れた
知っていたと思っていたことは、知りきれていなかった
その気付きが細かい人ほど、人生の解像度が上がっていって、言葉の数も意味も繊細に膨大に増えていくことになります。
だから語彙力だとか言語化だとかが知性に結び付けられるのでしょうか。
そういう意味で、
揶揄されがちではあるけれど、受験勉強という名の勉強をすることも無駄ではないのでしょう。
でもそれはやはり全てではなくて、
あくまでも知ることの一歩目を教えてもらっていたに過ぎないのだと思います。
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時に私は、知性や感性とは、想像力だとも思います。
人のことを考え、傷みを知り、共感し、寄り添える人を私は知性があり、感性が豊かな人だと感じます。そういう人はとても経験が豊かだったり、また本や映画のような疑似体験のコンテンツに沢山触れていたりします。本を読みなさいと言われる所以はここなのかな。
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だから私は、深く世界を感じ、表せるようになりたい。まるでカメラの画素数のように、よりつぶさに、より鮮やかに、より繊細に。
知性や感性は、生まれつき定まったものではなく身につけるもので磨けるもの。誰にだってできること。手作りしてもいいし、借りてもいい。まるでアクセサリーのようなものなはず。
自分は〇〇だからと決めつけている人を見ると、その鎖は無くてもいいのよと伝えたくなる。
通り一遍の言葉では伝わらないけれど。
*
この仮説が正しければ、
私は日々知性を身につけているわけなので
とても素敵な人間になれるはず。
今日も明日も明後日も、1歩ずつ。
確かめるように日々を歩んでいけたらな、
と思うなどするのです。