公園廃止から考えるインクルーシブな世の中
先日、長野県でとある公園が廃止になることが決定しました。
苦情を訴えた方は「廃止してほしいと言っていたわけではない」と話しています。
どんな苦情の内容だったのか、は主に以下だそうです。
・子供の声がうるさい
・夜間に花火やリフティングしていてうるさい
・ボールが宅地に入ってくる
・植栽が踏み荒らされる
・隣接する児童センターに迎えにくる車のアイドリングがうるさい
他にもあるのかもしれませんが、私が確認できたのはこの5つでした。
とにかく“騒音”と“住居侵入”が理由のメインかなと思います。
公園をなくした方がいいか、とかについては
それぞれ意見があると思いますが
私の中で答えは出てないです。
騒音がどれだけのものなのかも分からないし、
子ども達がどれだけこの公園を利用していたのかも
全く分からないので。
個人的には、この問題について取り上げていた
abemaプライムでのEXIT兼近さんの意見の方が興味深かったです。
私はあまり良い時間にテレビを観ないから
EXITを見かけることって殆どないのだけど
この二人はリスクヘッジと自己表現に
テレビやメディアを利用するのが本当に上手くて
令和の芸人として正解なんだろうな、と思います。
私はabemaで見たのですが、公式YouTubeにもあがっていたので
そちらをリンクにしました。
(abemaだと一定期間経つと見れなくなると思うので)
兼近さんら
「子どもを好きな人たちしか住まない場所を作ればいいと思う」
「少なくとも自分はこの地域を選ばない」
と仰ってました。
これは私が抜粋しただけで、他にも色々なお話をしていたので
きちんと動画は見てほしいです。
そして私も、その意見には賛成です。
もし自分に子どもが出来たら、
そんなうるさいこと言われたくないから
「子どもが居ても良い地域」に住みたいって思うと思います。
ところで、日本は国連から特別支援教育の方針について
「特別支援教育の廃止」を勧告されました。
障がい者と健常者を分け隔てることなく教育するべきという
インクルーシブ教育が注目を集めてます。
先ほどの公園の件では“分けるべき”という話が出ていたけれど
世界は今、“分けないべき”という方向に向かっている気がします。
もちろん、障がい者と健常者の教育課題と
お年寄りと子ども達の地域課題を一緒に考えているわけではないです。
だけど、“分ける”という考え方は一定近いところがあるんじゃないかと思います。
安全や治安や幸福のために“分けること”に対して
私たちは比較的寛容です。
例えば、老人介護施設。
施設によって細かく“受け入れる老人”が規定されていて、まだ老人でない人たちと老人が分けられています。
女性専用車両も、女性を痴漢被害から守る、安全のために分けられています。
本来の理想を追求するならば
おじいちゃんやおばあちゃんは家で看取って
女性も男性も安心して快適に電車を利用できて
発達度合いや身体能力問わず、皆んなで学び
同じ地域にお年寄りから子どもまで暮らす社会は
超理想的だと思います。
だけど、そんなことはきっと、
無理なのです。
介護する側は本当に大変で辛い。
痴漢はどうやったってゼロにはならない。
出来ない子に合わせてたら出来る子が伸びない。
身勝手な子どもの行為を“幼いから”で許せない。
優しさを持ち合わせている人はいても
それを強要することは誰にも出来ません。
しても良いわけでもありません。
自分の生活がどれだけ、騒音に晒されても
「子どもだから許してあげよう」と思うことを
強要することはできないのです。
みんなが“個の幸せ”を追求することを優先すれば
こうした“分けること”を止めることは出来ないと思います。
だって、自分が幸せになるためは
介護に時間を費やしてる場合ではないし
自分の子どもの教育機会を奪いたくないって思うは
当然の流れじゃないですか?
自己犠牲は愛だという人がいるけれど
現代社会において、それを本気で思える人は
果たして多数派なのでしょうか。
自分が耐えられるからといって、
相手も耐えられるわけではない、というのは
現代人が自身の幸せのために主張した
理性的で実用的な幸福論だと思うし
私はそれを否定する気は一切ありません。
だけど“道徳的に目指すべき社会”と
“現実的に迫ってくる社会”にあまりにも
乖離がありすぎるんじゃないのかな、
もっと政治や学者は“現実社会”を見た上で
理想を語らないと、厳しいんじゃないのかな、と
今回のニュースを見て感じました。