aikoの歌詞が文学すぎる
私がaikoを聴くようになったのは、中学2年生の時だった。
当時、部活の影響でクラシックしか殆ど聞いておらず、友人に「好きな歌手は?」と聞かれたり、カラオケに行った時に“モーニング娘。”と“オレンジレンジ”しか歌えないことに気づき、「え、これ…、やばいじゃん、私。時代に取り残されてるじゃん」となり、慌てて、それっぽい歌手である“BUMP OF CHICKEN”と“aiko”を聞きまくることになった。
TSUTAYAで大量にその二組のCDを借りて、MDを作り、ひたすら歌詞カードを見ながら全曲覚えた。
吹奏楽部だったことが功を奏したのか、覚える作業は全然辛くなかった。
そして、その時借りてきたaikoの「桜の木の下」というアルバムと「暁のラブレター」というアルバムを知った時に「え、この人って天才だったのか」となった。
あらかじめ言っておくと私はaikoの表層的な部分しか知らない。歴史とか全然詳しくないし、本当にアルバム収録曲しか知らないし、ライブも一度も行ったことはない。ほんっとに、にわかである。
だから解釈が違っても「こいつなんも分かってねーな」と鼻で優しく笑ってください。
そして時が流れて、私は大学で日本文学を専攻し、その中でも中古文学(平安前期〜中期、場合によっては奈良も)を研究することになるのだけれど、「aikoじゃん」となる機会があまりに多すぎた。
歌詞に出てくる季節感や抽象表現があまりにも平安時代のソレなのである。
暇な上に桜が散ってしまったので、“桜の時”という超有名な歌詞を文学的に解釈してみた。
これ、割と長めのイントロ明けてからの歌詞なんだけど
この部分のなにがすごいって、その人の性格やこれまでの人生観が見えちゃうところですよね。
一個も具体的エピソードないのに「この子って、そういうタイプね」と思わせるし、この入りに全女子が共感するっていう、システムがすごいです。
入りから一転して、バンバン情景描写入れてくるの天才すぎる。この情景描写の読み方には在原業平も小野小町もビックリだと思います。
雨を「降ってくる雨」って表現するのって意外と難しい。「降りしきる雨」とか「雨が降ってきて」とか「降ってきた雨」とか、そういうのは割と思いつくんだけど「降ってくる」ってすることで、リアルに進行してるイメージを持たせられてるのが天才すぎる。あと「雨が迷惑で」もすごい。人生で一度でも「雨が迷惑でさあ」と思ったことある?ないよ。雨は「だるい」「邪魔」なんだよ。後日読み返して、「雨が迷惑」は言うなあと思ったので修正します。
そして「しかめっ面」になったね。ここで初めて女の子の存在が出てくるんだけど、「しかめっ面」てめちゃくちゃ可愛い。雨にしかめっ面する子、可愛すぎる。あざとくて何が悪いの?
で、そのあと「雨上がりの虹」って、このほんの7小節そこらで3つも情景描写いれてるのすごい。しかも、ただの虹じゃないんだよね。「雨上がりの虹」なんだよね。雨上がりはもはや、虹の枕詞にしてもいいレベルの言葉の美しさだね。これを教えてくれる、っていうので、この相手の子の性格がこの一言でなんとなくイメージできるのがすごい。
雨が降った時に虹について考えられる人が悪い人なわけないやん…。
《追記》
「降ってくる雨」ということは、今はまだそこまで本降りではない、あるいは降っていないという状況の中、すぐ先の未来に嫌なことがあって、女の子の方は「直近起こりうる嫌なこと」について語っている。一方の男の子は更にその先の未来を見て語っている。2人共、未来は見ているんだけど現時点からの距離が違う。この表現によって時空間的に広がりが持たされているから、文学としてZ軸的な広がりも持たせることができてる。(追記日:2022.05/25)
でもこの部分の一番すごいところは最後の「ありがとう」だと思う。
大好きよ、とか、愛してる、とか、あなたがすき、とかそうじゃなくて「ありがとう」なんだよ。この子めっちゃ良い子じゃん、てなる。ありがとう、に全部の想いがこもってる。すごすぎ。しかもこの一言に1小節全部使うんかーい。婉曲的と見せかけてストレート。紫式部ですら感嘆するのでは。
桜を擬人化できるタイプの男ってこの世にいるんか?(桜は擬人化されがちだな、と後から思ったので修正しました)
「めいっぱい咲き乱れる」て、すごすぎる。あとこれの何がすごいって、まだ咲いてないんだよね。
まだ咲いてない桜について話せる人なんだよね、そりゃそうだ、雨降ってる時に雨上がりの虹について話せる人なんだもん。それで、私はうなずく、んだよ。
ここは人によって感じ方が違うかもしれないのですが、ここってなんとなく、あなたは桜の木を見ていて、私はあなたを見ているようなイメージにならないですか。桜の木がばーーーて立ち並ぶ川辺を見ながら楽しそうにまだ咲いてない桜について話すあなたと、その様子に嬉しい気持ちになる私。
「この川辺」と、川辺の前に指示語を入れることで、そこがどんな場所で今どんな様子なのかをこんなに短い言葉で表現できるのすごすぎる。めいっぱい咲き乱れる、という、これでもかーーー!てくらい桜が咲いてる表現もうますぎて、在原業平も喜ぶと思う。
この歌に出てくる“あなた”の性格が私目線で割と丁寧に描かれていたことが、このサビで生きてるのがすごい。
雨上がりの虹について話せる人で、まだ咲いてない桜について想像できる人はきっと、どんな困難も大したことないって言えるし思えるじゃないですか。
手を繋ぎながら、まだ咲いてない桜の川辺を二人で楽しく歩いてる時もあなたは前を見てるよね。この人ずっと前しか見てないもん、基本。
そして、時間を超えてまた違うキスをするのが、ってさ。え?なにこの叙情的な表現。美しすぎて川端康成も感激すると思う。川端康成は中古全く関係ないですが。
この部分、めちゃくちゃ具体的な言葉しか使ってないのに実は感情語がゼロ、っていう超高度なことやってるんだよね。
最後「ように」って付けることで、これが願望になっちゃうんだから日本語すごすぎる。
しかもさ。また違う、って言うことで「あ、この二人キスしたんだ」て思わせるのも上品すぎて天才なんだよね。後朝の和歌ですらもっと下品だよ。つーか後朝の和歌は全部基本下品でしたごめん。
幸せなキスをするのが、で、この人といるのは幸せなんだなあて思わせるのもすごいですね。
現状何をしてるか、じゃなくて、願望の内容を描くことで今の思いや状況を想像させるの本当にすごい。
あと「右手をつないで」って一見大したことない表現っぽいけど、繋ぐ手を表現することで私とあなたがどっち側にいるかということまで明確にさせていて、情景をより明確に描いてるのすごい。
一度も「好き」とか「愛してる」という表現を使わずに、その気持ちを描き切ってる。
こんなことありますか。
出てきた具体的な感情語は「ありがとう」のみ。
この情景で感情を表すっていうのが中古文学との明確な共通性である。
もし六歌仙あたりがaikoの歌を聴いたら、「現代も捨てたもんじゃないね」って優雅に笑ってくれると思う。
語る時に敬語になるのオタクっぽいから本当やめたいな。これは批評ではなくて感想ですね。全体的に。
今回も異様に長くなってしまったのでフォント調整しました。
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