見出し画像

アイスコーヒーが入るまで

今日の芦屋は曇り。
春は曇りでも日差しが届きやすいけれど、今日は一段と雲が厚くてそうはいかないようだ。いつもより洗濯をする時間が遅くなってしまい、今日は諦めようかと思っていたけれど、タオルくらいなら乾くのではと考え直して1時間ほど前に干してみた。ベランダに出ると、意外に寒くて驚いた。昨日一昨日が暖かすぎて完全に油断していたけど、”花冷え”という言葉もあるようにまだまだ寒さは去ってくれなさそうだ。今週末なんかは特に寒いっていうし。早く春がきてほしいと思う半面、春を受け入れる懐の広さがまだ整っていないので少し安心した。はやく手放しで春を楽しめるようになりたいものだ。そんなことを考えていると、高校生が正装をした母親らしき人と下の道路を歩いていた。卒業式だったのだろう。3年間、お疲れ様でした、と両方に心の中で呟く。

昨日の夜中、イチロー選手が引退したとスマホに速報ニュースが流れた。ニュースのアプリを取ってみてからというもの、急にテレビの字幕のように画面上部にニュースが流れるからびっくりする。野球を全くといっていいほど知らない私ですらイチロー選手のことは知っているんだから、冗談抜きで日本人全員が知っているんじゃないかと思う。私がイチロー選手を知ったのは小学生のときだったか、既に彼はメジャーで活躍していたから、国内での活躍を見ることはできなかった。ちょっと見たかったなあ。

大学生時代のバイト先だったカフェには、毎日来る馴染みのお客さんがかなりいた。その1人が”チャリ男”さんである。あだ名はバイト先の奥さんが付けた。チャリ男さんはモーニングの時間にロードバイクに乗ってロードバイク乗りさながらの恰好で来るお客さんだ。だからあだ名がチャリ男なんだろう。オーダーは夏でも冬でも変わらず決まってアイスコーヒーのモーニング。アイスコーヒーにはあらかじめピッチャー7割ほどのガムシロップを入れて混ぜ、ポーションは上に浮かべてそのまま混ぜずにストローを差してサーブする。別に本人からそうしろと言われたわけではなくて、奥さんが気を利かせてやっていることを私たちバイト生も真似しているだけだ。
チャリ男さんが来店したらお水とおしぼりを持っていく。席も定位置が決まっていて、2人がけのテーブル席。さっき書いたように、オーダーは決まっているから聞かない。おはようございます、ーおはようさん、今日もがんばっとるなと挨拶を交わして、テレビつけて、と言われるから、テレビをつけていつものBS放送にする。チャリ男さんがテレビを付けて、というときは決まってメジャーで日本人選手が出場しているときだ。マスターがアイスコーヒーをカウンターに出す。それを受けとり、ガムシロを入れて軽く混ぜながら、今日は誰が出てるんですか?-イチローや、あの人も長い間頑張っとるで(チャリ男さんは長い間大阪で働いていたらしく、関西弁がすごい)、なんて話をして、ポーションを浮かべる。最後にストローを先端に触れないように気を付けて差す。これで完成だ。カランカランと氷をたっぷりのコーヒーの湖で転がしながら、2人がけテーブルに運ぶ。おおきに、と言われたが最後、チャリ男さんはテレビの向こうの日本人選手に見入ってしまう。そのあとすぐにとろとろのオムレツとマカロニサラダ、バターの染みた厚切りトーストが乗ったモーニングプレートを持って行ってもあまり気付いてもらえない。彼は今、遠いアメリカの地にワープしてしまっているのだ。

話ができるのはアイスコーヒーを届けるまでの数分間。今考えてみるとそれが堪らなく好きだった。アメリカで奮闘する日本人を、日本の岡山のカフェで応援している人がいる。なんか、いい。

毎日午前9時に開店するバイト先のカフェ。モーニングを食べにいつものお客さんが集う。チャリ男さんはいつものようにロードバイクに乗って、いつもと同じ黒いニット帽とサングラスをして、阪神タイガースのタオルマフラーを巻いてやってくるはずだ。きっと今朝はイチロー選手引退の話で持ち切りだっただろう。寂しいけど、よく頑張ったよなあ、なんてマスターや奥さん、それから新しいバイト生と話しているに違いない。でも、それはアイスコーヒーが入るまでだけの時間、ね。

いいなと思ったら応援しよう!

笠原加帆
もしよろしければサポートをお願いします。頂いたサポートはライターの夢を叶える資金にします。