駅_6

26年間、豆腐に人生を捧げてきた僕の原点を振り返る。

この世に生まれて既に26年が経つが、これまで豆腐に人生を捧げてきた僕の原点こそ、「嘉平(かへい)豆腐店」である。
一つの豆腐屋を現在の6代まで存続させてきた先祖の方々の想いには並々ならぬ強さがあって、
僕はこの店の長男として生まれてきたことを心から誇りに思っている。
今週は、生まれてこのかた僕の原動力となっている、この嘉平豆腐店について書いていこうと思う。

嘉平豆腐店の歴史

嘉平豆腐店の創業は、「明治時代初期」。
どのくらい前かというと、明治10年が142年前になるので、だいたい140年前くらいの歴史ということになる。
これまで、全国の色々な豆腐屋さんにお邪魔させていただいたが、140年まで続いているお店は珍しく、歴史の長さは尋常じゃない。

1800年代から続いているので、もちろん第二次世界大戦も経験している。
この時期は兵器の生産用にマグネシウムが必要で、豆腐を作るために必要なにがりにはマグネシウムが最も多く含まれているということで、にがり手に入れるのが難しかった。
また、新潟が東京からの疎開先だったりもあり、一時期は豆腐製造を休んでいる時期もあったと聞いている。

それでも、そこから祖父の一郎(5代目)が豆腐屋を継ぎ、父の一良(6代目)が継ぎ、これからの7代目へと続いている。

規模はというと、5代目までは一日の生産量が豆腐100丁~200丁ほどの、小さな町の豆腐屋だったが、
6代目にして、1日の生産量の最大キャパが1万丁を超える生産工場が誕生した。
そんな、6代目の改革があった。

6代目:一良の豆腐屋改革

五代目一郎がまだ代表だった頃、6代目一良は東京の食品メーカーでサラリーマン生活に明け暮れていた。
そんなある日、突然一郎から電話がかかってくる。
「ちょっともう豆腐作るのしんどいっけ、そろそろ豆腐屋やってくんねぇか?」

そんな父からの一声で新潟に戻ってきた一良は、まずは分業ということで豆腐の移動販売を自ら始め、
一日で20~30万円を一人で稼ぐ凄腕販売員になったのだが、いよいよ5代目の限界が見えてきて、豆腐の製造の方を引き継いでいくことになる。

ちょうどその時期は、全国的に食品スーパーが急速に注目を浴びていた時期で、嘉平豆腐店にも、豆腐を大量に卸さないかというスーパーからのオーダーがあった。
これは紛れもないチャンスで、豆腐の販路が一気に拡大するきかっけになると判断した一良は、銀行からの融資をいただき全額約4000万円の大型投資を決意し、日産で豆腐1万丁のキャパを持つ豆腐製造工場を設立した。

ちょうど僕はこの頃、母親のお腹の中にいたらしい。ここまではまだ自分自身、生前の話である。

順調に拡大する豆腐の卸売販売

大型の投資の末完成した新工場の生産性は、当時の町の豆腐屋としては恐るべきものがあった。
それまでは1日200丁程度が限界だったのが、新工場では多い時では8000丁~1万丁もの生産が可能となった。
工場の立ち上げから、食品スーパーの勢いに便乗し、売上も順調に拡大していたし、それに人手も当然足りなかったので、パートの方々や配達員も採用し、地域に雇用を生み出すこともできた。

...が、状況は徐々に変わってくる。

それはまだ、僕が小学校中学年くらいの、算数ドリルと漢字ドリルをひたすら解いていた頃の話だったような気がする。
(来週へ続く)

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