26年間、豆腐に人生を捧げてきた僕の原点を振り返る。(後編)
4000万円の投資の結果、日産最大1万丁の製造能力を持つ工場を新設した6代目一良だったが、
毎日作ったら作った分だけ売れるという天国のような日々はそう長くは続かなかった。
悪化する利益率、ただの作業になりつつあった毎日
スーパーマーケット黄金期を経て、嘉平豆腐店に何が起こったのか。それは、
「スーパーからの買い叩き」である。
通常、スーパーに商品を卸すときは、小売価格から流通時のマージンを引いた「卸売価格」で販売する。
マージン率は20~30%(30%はかなり引かれている方)くらいが妥当なラインなのだが、
その時から、スーパー要望のマージン率がどんどん上がっていき、40%や、ひどい時は50%ほどにまで要求されたこともある。
製造技術・流通面の進歩によって、他の県からどんどんと安い豆腐が流通するようになったからである。
借金の返済・原材料費・人件費もろもろを含めて考えると、小売単価100円の豆腐を50円で卸した場合、完全に営業利益率で見るとマイナスになる。
ただ、当時はまだ主な取引先がスーパーだったため、6代目は「多少なりとも数を売って、赤字幅を減らしたほうがマシ」と考えて、
ひたすら安い豆腐を大量に製造して利益の出ない価格でスーパーに卸す、という苦痛な作業を強いられていた。
ただでさえ豆腐屋は重労働なのに、その労働が利益に繋がらない、
ー3ヶ月に1回は、両親の給料が支払われない時もあったー
というのは、相当な地獄である。
....この時、僕はまだ小学校中学年くらいの年齢だったのだが、家族はみんな早朝から晩まで豆腐屋で仕事をしている状況だったので、夕方、学校から帰ってきても誰も家にいないのがすごく寂しかった。
逆に、夕方家に帰った時に家の電気が付いていたら、「ああ、今日は誰かは居るんだな」と思って嬉しくなったりしていた。
(夜20時まで一人だった時に、さすがに寂しすぎて泣いて豆腐屋に電話したこともある。)
国産大豆100%の豆腐の活路
そんな時代の背景もあり、安い豆腐がスーパーで買い叩かれるようになった一方で、それでもまだ売上が落ずに根強いファンがついている商品があった。
それが、「国産大豆100%使用の豆腐」である。
「国産大豆100%使用の豆腐」は、当時はこんな商品ラインナップ。
・ざる豆腐
・おぼろ豆腐
・本造りもめん
・本造りきぬ豆腐
・手揚げ油揚げ
・揚げ出し豆腐
これらの豆腐・揚げ類は、6代目が、「自分で食べて美味しいと思える豆腐を作りたい」という想いで商品化した、プレミアの商品である。
製造量は全体の2割程度と、そこまで多くはないのだが、味が本当に美味しいので、店頭販売と移動販売を中心にファンの多い商品である。
スーパーの売上が落ち込んでいても、店頭販売や移動販売の売上げが落なかったのは、国産大豆の豆腐の根強い人気があったからなのは間違いない。
(ちなみに、僕の母親は移動販売でこだわり豆腐を売るのが本当に上手い。)
もし、国産大豆を使わない安い豆腐だけを造っていたなら、今の嘉平豆腐店はないと断言できる。
きつい日々の中でも、こだわりの美味しい豆腐を作り続けている父親の信念と、その豆腐を移動販売で売り続けている母親の底力があっての嘉平豆腐店だなあと、つくづく思う。
嘉平豆腐店の最近
元々売上げの9割以上を占めていたスーパーの売上げは、今では7割程度にまで減少した。
それに伴って、全体の売上も年々微減してはいるのだが、国産大豆の豆腐たちは未だ根強い人気がある。
また、こだわった豆腐を作り続けていることで、様々なご縁をいただいており、
新潟のローカルのテレビに少しだけ出演させていただいたり、燕三条地域のラジオに出演したり、地域で開催されているマルシェなどのイベントにほぼ毎月出店させていただいていたりと、
少しずつではあるが、新しい繋がりが生まれて、美味しい豆腐を広める場を作ることができている。
ここから先、ただでさえ5年先も想像できないと言われているこのご時勢で、町の豆腐屋を続けていくのは大変な気しかしないが、
だからこそワクワクするし、僕はこんな修羅場を長年に渡ってくぐり抜けてきた「嘉平豆腐店」を、もっと盛り上げたいと思うわけである。
(次週へ続きます)