わからない / を / わかる
悩むこと約半年、ずいぶん時間が経ってしまった。
普段、悶々と考えることはあれど落ち込むことはあまりなく、落ち込んでも一晩寝たら忘れてケロっとするたちなので、今回はかなりイレギュラーな挙動であった。
簡単に言うと「わからない」との向き合い方の転換期が訪れていて、逆に言えば、人生における「わかりかた」を大きく見直す必要があったということなんだと思う。
世界は広いし、言葉は多い。何かを知ろうとすればするほど、手の指のあいだからポロポロと何かが零れ落ちていくような感覚が毎日続いて、とても苦しく、その割には手のひらには何も残っていない、このさき誰とも知を共有できないのではないか、という絶望感だった。
今まで取り扱ってきたものは、ずっと考えていたらある日突然「わかる」ということが比較的多く、それだけに歯切れの良さやカタルシスがあったものだが、最近の取り扱い物は「わかってるんだかわかってないんだか、よくわからない」。
人に説明するために、わかりたいものを一つずつサイズダウンしていくと、詰まるところ「ベクトルってつまり何ですか」とか「整数ってなんですか」とか「光ってなんですか」「曲線ってなんですか」「記憶ってなんですか」「存在感ってなんですか」とかそういうことになってしまう。他者にそのまま説明すると、ほとんどの人は共感とともに聞いてくれたが、数人には「贅沢な悩みですね」「高尚なやつだ」と言われた。(実際その通りなので、怒りや苛立ちは全然ない。)
わからないことは面白い。
ただ、面白いと思えるにもある一定の知識が必要で、そこに行きつくまでに溺れてしまうと、息ができない。
今までは、「口の中に水が入ろうが泳ぐんだよ」で一応何とかなってきたものが、口の中に入ってくるのが海水だともうお手上げになってしまう。
今朝なんとなく、わかりかたがわかったような気がするのだけど、最近の自分に向いているわかりかたは、「気づいたらわかってた」なんだろうと思う。
わかりたいことがあっていい。
でも、わかろうとしない。
ただぼんやりと眺めたり、見つめたり、対話したりする。
そんな向き合い方を続ける先に、混沌の中にオーダーを見つけられるんじゃないかと、そんな気がしている。
そうこう書いていると、その昔、「カオスの縁」という概念を人の認知を例に教えてくれた人がいたのを思い出した。
世界は広いし、言葉は多い。
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