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内藤礼さんの展示は、生かされていることを強く感じさせてくれた。

先日、東京国立博物館で開催中の内藤礼さんの展示「生まれておいで 生きておいで」を観に行ってきた。

東京に行く用事が別にもあったのだけど、かねてからこの展示は絶対に見たいと思っていて、大阪から向かった。

東京の気温は30度。もちろん暑いのだけど、すこし暑さがやわらぎ、秋の気配を感じた。東京駅に降り立ち、上野東京ラインに乗り、上野駅で下車。改札を出ると上野動物園が正面奥に見えた。

上野動物園から右手に歩くとお目当ての東京国立博物館がある。その手前には国立西洋美術館、国立科学博物館、さらに駅近くには上野の森美術館もあって、上野はとても贅沢な街なのだと感じた。


東京国立博物館の本館
水面に映る本館も美しい

内藤礼さんの作品を観たのは、豊島美術館にある「母型」がはじめてだった。5,6年前に行ったので、曖昧な部分もあるけれど、とても厳かで神秘的な空間だったと記憶している。

コンクリートでできた円形の大きな空間。中に入ると現実世界から離れた少し遠くて別の世界に足を踏み入れたような感じがした。天井部分が空洞になっていて、空を仰ぐことができる。

私が行った日は、ぱらぱらと雨が降っていた。雨が降ると、床に水滴や小さな水たまりができた。天気がいい日は陽の光が届き、風が強い日は風を感じる。目に、耳に、体に届く情報が、一瞬たりとも同じ瞬間はない。

床に座ってたたずんでいると、いつのまにか包まれるような安心感を覚えた。最初は別世界に来たような感じだったけれど、今私はここにいる、存在している、そんな感覚があったように思う。

前置きが長くなってしまったが、今回の展示にもその時に感じたような感覚が再度呼び起こされるようだった。

今回の作品の構成は、第1会場から第3会場と3か所での展示となっている。第1会場は本館から少し離れた平成館での展示となり、第2会場と第3会場は本館での展示だ。そのため移動しながら鑑賞することになる。今回はその3会場をレポートする。

※写真撮影が付加のため以下、作品の画像はありません。

展示の詳細はこちらから↓

※事前予約制のようなので、オンラインで事前にチケットを購入することをおすすめします!


繭から生まれたような

第1会場は、横長の長方形の空間で、照明が落とされた静かな場所だった。
横長の長方形の空間に沿って、大きなガラスケースが2つある。そこにフランネルの生地が敷かれ、その上に物質がゆったりと並ぶ。大理石や枝、石、ガラスビーズ、鏡などが目に入った。

その中に、縄文時代に出土された土版や、大森貝塚遺跡公園で発見された石もあった。

この2つのガラスケースの中は、一部並びが違ったり、配置されているものが違ったりするが、ほとんどが対になっている。

内藤礼さんの作品で気になっていたひとつに「死者のための枕」がある。それはガラスケースの中の一番最後に展示されていた。薄いオーガンジーのような素材で作られた繊細な枕は、生を終えたものを癒し、土へと還らせていく、そんな循環の意味合いがあるのではないか、と勝手に想いを巡らせた。

天井からは小さなガラス玉や毛糸玉、風船が吊るされている。両サイドにはガラス窓が配置され、その上部に鈴や毛糸玉が不規則に並ぶ。鑑賞者が通るとその波動で風船やガラス玉たちもかすかに動く。その不安定さもどこか心地よかった。

白くてやわらかい質感を想起させるフランネルが、私には繭のように見えた。今そこに存在したかのような、生まれてきたような、そんな神聖な空気があった。

もちろん何千年も前に発掘されたものもそこにはあるけれど、過去も現在も未来も時空を超えてそこに「ある」ということを実感した時間だった。

目を凝らさないと見逃してしまう日々の欠片

本館のエントランス。壁時計が印象的。

第2会場は本館特別5室。先ほどの第1会場とは対照的で、天井が高く開けていて、たくさんの窓から光が入ってきて明るい。

床に小さなガラスケースが配置され、その中には先ほどと同じフランネルの生地が敷かれ、大理石や縄文時代に出土された足型付土製品、猿型土製品、猪骨、猫の毛を丸めたものを展示。

ガラスケースの上には、小さな石やガラスビーズ、毛糸、枝、小さなキャンバスに描かれた絵など、さまざまな物質が配置されていた。

鑑賞者たちは作品に近づいたり、離れたり、かがんでみたり、低い座椅子に座って俯瞰してみたりと、各々の味わい方が見て取れた。

壁の両サイドには、キャンバスに絵が描かれたものが14枚ずつ貼られている。2023年の12月ごろからと2024年の4月ごろから5月にかけて描かれたものらしい。

目を凝らさないとわからないほど、うっすらとしか描かれていない模様。見ようとしなければ通り過ぎてしまうものが、日常にはいっぱいあるのではないかと思わされた。

些細な変化を私たちは日々遂げていて、変わっていないようで、変わっているのだろうなと思った。

ここに来た時、豊島美術館で見た「母型」がよみがえってきた。あの広い空間にいた際に、他者をすごく近くに感じたような瞬間があった。だから安心感を覚えたのだと思う。

かつて生を宿していたものや、歴史的産物、それらと私たちは地続きの関係にあって、私たちは生かされているのだと感じた。自分の外側にあるものを感じることで、生を感じることができ、1人ではなく、他者とともに生き、生かされているのだと。

タイトルに他者の存在を感じる

タイトルがどうして「生まれて 生きて」ではなく、「生まれておいで 生きておいで」となったのだろうか。それがずっと気になっていた。

これは勝手な推測だけれど、「生まれて 生きて」は1人称の意味合いが強い感じがする。私が生きるというように。

ところが「おいで」が加わることで、他者の存在を感じることができる。同時に生を祝福しているかのような、受容するような、温かさを感じる。

内藤礼さんが発信しているメッセージである「地上に存在することは、それ自体、祝福であるのか」の根底にも通じているような気がする。

第3会場は本館1階ラウンジにある。木の板の上に、ガラス瓶が2つ。下の瓶は下を向いており、上の瓶は水が入った状態で上を向いている。ここでも瑞々しい生のパワーを感じた。

「生」は生きているもののみに存在するのではなく、かつて生だったものにも宿っている。そしてそれらに生かされていると感じられる時間は、贅沢そのものだった。








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