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私が京都に惹かれるのは、変わっているけど、変わらないから。

わたしは京都という場所が、とても好きなんだと思う。ふだんは大阪で暮らしているが、多いときは1ヶ月に2回は足を運んでいたこともある。

でもなんで好きなのかと言われると、神社仏閣があって歴史を感じられてとか、素敵なお店がいっぱいあって…みたいなありきたりなことばで終わってしまいそうになるのだけれど、いま一度京都について考えてみようと思う。

なんでそう思ったのかというと、友人との会話の中で、この間京都に行ったというと「またー!」と驚かれることも多く、わたしってそんなに京都に行っているのか、と逆に気づかされた。

わたしはなぜここまで京都にひかれているのだろうか。思いを巡らせてみたら、京都には変わっていくものと変わらないもの両方があるからということがわかった。



未練があった

大学時代の4年間を京都で過ごした。入学前から京都に叔父が住んでいたこともあって、母や祖母と一緒に京都に来る機会があって、京都にいい印象を持っていたので、京都の大学に通えることに喜んでいた。

それなのに在学中は、わたしにとって京都はどこか遠い存在だった。

大阪から2時間かけて通学していたのもあって、バイトがあれば一目散に難波方面へ急いだ。ダンスサークルの練習が終わったら電車に飛び乗って帰宅。講義も基本的にさぼることなく真面目に受けた。友達とカフェに行ったり、神社仏閣を訪ねたり、それなりにはしたのだと思う。

でもどちらかというと、京都は通過する場所という認識が強く、そこにどっぷりとつかりきれなかった。

終電を逃して鴨川で涼みながらもう一杯とかに憧れたし、京都の行きつけのカフェで本を読んだり、課題をしたり、自分のお気に入りの場所を持ちたかった。もっとわたしの生活に入り込むような、そんな関わりがしたかった。

だからどこか京都に未練みたいなものを持っていたんだと思う。


これまでたくさんのアートに触れてきた

社会人になって京都との関わり方に少しずつ変化があったように思う。通過する場所からは、半歩ほど進んで、意志を持って京都に行くようになった。

京都にはありとあらゆるすてきで好きなものが詰まっていると思っているのだが、振り返ってみると特に足を運んでいたのはアートイベントだったように思う。

京都には美術館やギャラリーなどが多く、アートを身近に感じることができる。今まで京都でいろんなアートに触れてきた。

小さなギャラリーで展示されている写真展や、京都現代美術館で開催されている写真展、京セラ美術館での様々な展示、NAKEDが主催する神社などの重要文化財を舞台にしたプロジェクションマッピング、寺院で行われる展示イベントなど。

どれもすばらしく、ときどきその情景が浮かんでくる。そしてアートに触れるたびに、満たされた気持ちになった。

その他にも京都では街をあげてアートの祭典が行われる。そのひとつが約10年近く毎年開催されている「KYOTO GRAPHY」という国際的な写真芸術祭だ。

始まった経緯は、世界では写真を一般の人が購入して楽しむことが当たり前なのに、日本では写真文化が根付いておらず、アーティストが作品で生きていくことが難しい現状を変えたいという強い思いから。

私が訪れた2022年の写真祭の展示では、海をテーマにしていた作品があった。

私にとって海は開放的で美しく懐かしい場所として記憶されていたけれど、移民の人の目線から海を捉えると、彼らにとっては生き延びるための一つの手段であり、生命にかかわる切実なものであることを知った。

わたしを広くて未知な世界へといざなってくれた。




変わっていくものと、変わらないもの

これは私が勝手に考える仮説なのだが、京都には伝統を守ってきた誇り高さとともに、変化を後押しする柔らかさがあると感じる。だからこそこの写真展をする場所として白羽の矢が立ったのではないだろうか。

つまりそれは、拓かれた部分と閉じられた部分の両面を持っているということだと思う。

わたしが考える拓かれているというのは、未来に向かって今を捉えているということ。伝統を守るだけでなく、新しいものを積極的に迎え入れていく。
一方で閉じられているというのは、変わらない核となる部分を守り抜くということ。

変わっていくものと変わらないもの、その両方をちゃんと認め大切にしている。その空気感に憧れ、身を置いていたくなる。

わたしが京都にひかれてしまう所以はきっとこれなのではないだろうか。変わっていくことを自然と受け入れ、変わらないものをあわせ持つことが日々の中では意外と難しい。ついつい今までの慣れた場所に居座り手放すことができず、変化を恐れてしまう。また初心や信念みたいなものを忘れてきてしまうこともある。

でも京都という街はそれをやってのけている。と、わたしは思っている。かっこいいな。


答えはなくてわからなさがあるから

それにアートイベントに足を運びたくなるのは、そのアートにはきっと答えはなくてわからなさがあるからだと思った。感じたかった。ただただその世界に浸って。

わからなくていい、でもそこに自分にしか感じられない何かを見出したかった。自分のフィルターを通してアートと向き合う深い深い時間に、癒しを覚えた。静寂。そんなことばが浮かんできた。

京都はわたしにとってそんなイメージ。もちろん京都という街はエネルギーに溢れているのだけど、慎ましやかな空気をまとったように、わたしには見えているのだと思う。

京都にあるドーナツとチーズケーキがおいしいことで有名なお店に行ったときのことを思い出した。そこはどこかヨーロッパを漂わせる雰囲気を醸しだしていた。どうやらこのお店の店主さんは、ロンドンのカリスマ職人のもとで修業をされてきた方らしい。

厨房もよくみえて店主さんの無駄のない動き。お客さんの様子を見る温かいまなざし。こじんまりとした店内に柔らかい光が差し込んでいた。

チーズケーキの概念が壊れてしまうほど、とろんとした切り口。すぐに食べてしまわないとくずれてしまいそうな儚く美しいフォルム。

口に入れると、一瞬時が止まった。濃厚でなめらかでとろける。ことばになんてできないと思った。食べ終わりたくない。

目の前のその瞬間が1番美味しいように、最大の心づかいがなされているのが伝わる。心を鷲づかみにされた。同時に店主さんの想いに心を撃たれた。

ロンドンで培ってこられたすばらしい技術を、この歴史ある京都のひっそりとした場所に寄り添いながら、大切に大切に守って美味しさを届けてくれる。

変わっていくけれど、変わらないものが、ここにもあった。

こうしたひとつひとつの京都での出来事が、わたしのなかで駆け巡っている。

息を吹き返すような伸びやかな気持ちになる場所。そんな場所だと気づけたことはわたしにとっても新しい発見だ。








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