パーソナル編集者に伴走してもらったら、具体的描写ができるようになった。
2024年1月からパーソナル編集者のみずのさんに伴走いただいている。
パーソナル編集者についての詳細は、みずのさんのnoteをぜひ読んでほしい。
どんなことをしていただいているかというと、note執筆のテーマを一緒に考えてくださったり、締切設定やその管理、執筆後のフィードバックなどが主だ。
けれどもそれだけではない。端的な言葉でまとめてしまうと上記のような内容になるのだけれど、それ以上のものをいただいているなと感じる。
みずのさんに伴走いただくなかで、できるようになったことがある。
それは抽象的な描写しかできなかったのだが、具体的な描写ができるようになったこと。言い換えると「ありのままを描くことができるようになった」ということかもしれない。
自分を消そう消そうとされているように感じる
土門蘭さん著書『死ぬまで生きる日記』の書評を書いたnoteがあった。そのなかで、自分自身が感じる生きづらさについて触れたところあったのだけど、みずのさんから、以下のような言葉をかけてもらった。
それはつまり、抽象的な言葉が並んでいて、読者からすると書き手のリアルが見えてこなくて、書き手に共感することが難しい状態。どこか遠いところから声が聞こえてくるだけで実態が見えづらく、本当にこの人存在するの?みたいな。
それを上記のような言葉で表現してくれるみずのさん、本当にすごい……!
そこから自分が生きづらさを感じるようになった体験を振り返り、自分と向きあった。最初は苦しい時間だった。
いろんな場面で感じていた生きづらさ。言葉に起こしていくことで、その生きづらさが確実なものになる。
そこで気づいた。あー、その時々の自分のことを認めてあげられていなかったのだなと。向きあうことから逃げていたんだなと。
でも逃げずに向きあい、言葉にできたことで、心が少し軽くなった。その経験があったから今があるなと、思えるようになった。
そしてみずのさんが、「どんなことでも受けとめますよ。」と言ってくださったから、安心して出し切ることができた。書くことにおいて安心感というのは、とても大切なものだと感じた。
エピソードから書き手をイメージさせる
好きな京都について書いたnoteがあった。好きな気持ちに嘘はないのに、理由がどうしてもありきたりになってしまう。
そんなことに悩んでいたとき、大切なのは具体的なエピソードを書くことだと、みずのさんは教えてくれた。
例えば京都のいいところだと感じる部分に、「変わっていくけれど、変わらないもの」がある、と私は思っている。けれどもその言葉だけでは、読者にとってイメージしづらい。
そこで、京都での具体的なでき事を書くことで、抽象的だった京都が好きな理由が、輪郭を帯びてくる。最初は具体的なでき事を書くことに苦戦した。記憶が曖昧な部分もあって、必死で思い出そうとすると余計思い出せない。
そこで気付いたのだが、私はどちらかというと、その時に起きたでき事よりも、感情や印象の方が残っていて、でき事や具体的なエピソードを思い出すことが苦手だった。
それに気づいてからは、当時感じた感情をふわっとでも再起することで、でき事を少しずつ思い出すことができるようになった。そして具体的なでき事やエピソードこそ、その人らしさを感じられる大事な要素だと思うようなった。
ちなみに、京都の良さだと感じる「変わっていくけれど、変わらないもの」を伝えるエピソードとして、ドーナツとチーズケーキがおいしいお店での体験や感じたことについて書いた。
また書き手と京都との立ち位置を明確にすることが大切だとも教えてくださった。書き手は、京都と過去にどんな関わりをしてきたのか、今はどうなのか。ここでも具体的なエピソードが必要。
どんな人が京都について語っているのか。それがわかると、よりリアルにその人ならではのストーリーが見える。
エピソードが、書き手のパーソナリティやその人らしさを引き出してくれることを実感した。
京都についてのnoteはこちら↓
公開するときにはカットしても、必要な内省だった
伊根旅行について書いたnoteがあった。旅行についてのnoteではあったのだけど、旅行に行く前と行った後で、自身の心情の変化があったため、そこにも触れたいと思った。
心情の変化に至るまでの内省部分を前半と後半に書いていたのだけど、みずのさんから思い切ってカットしてみてはどうか?と提案いただいた。
最初は自分の中で大切な心情だったので、消すことに対して少し切なく思っていたのだけれど、みずのさんがこう言ってくださった。
これらの言葉があったから、思い切ってカットできた。カットすることは決してなかったことにするのではないのだ。そのことにとても救われた。
そして自分だけでは気づけない大事な読者目線。読むうえで、内省部分は読者にとって少しヘビーな読後感になってしまったのだと思う。
もちろん自分にとって納得いくnoteであることも大切だけど、読んでくれた方にとってもいいnoteだったと思ってもらいたい。
そのためにはときにすべてを見せるのではなく、削って研いで磨きあげて、多くの人に届くnoteにしたい!と心から思うことができた。
伊根旅行についてのnoteはこちら↓
みずのさんとのやり取りは文通のようだった
noteを通したみずのさんとのやり取りは、みずのさんと文通しているみたいだった。
私が書いたnoteに対して、フィードバックをくださる。そのフィードバックに対して、できるだけ応えたい、近い感触のところまでもっていきたいと思って、手直しする。
手直ししたものは、みずのさんのフィードバックに対しての返事だ。そして私の返事に対して、またお返事をくださる。
なにせ私はフィードバックの強さを、扇風機の風量でいうところの強でお願いしているので、みずのさんもそれに応えようとしてくださって、厳しめのお言葉をくださることもある。
でもそこには、みずのさんがひとりひとりに向きあってくださる温かいエネルギーが常にある。
そんな安心感を感じながら、文章を書いたことはこれまでなかった。書くことは孤独を感じる作業であり、迷走するもの。やりたいことなのに、そんな印象だった書くことへのイメージが、がらっと変わった。
書くことがこんなにも有意義で、温かいものなんだと、教えてくださった。書くことへの不安を完全に拭いされたわけではないけれど、どんな不安も受け止めてくださると思うと、また一歩踏み出せる。
これからも書くことに対して誠実に向きあっていきたい。