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彼女がスイスで尊厳死するまで(12終)
最期の夜
ツェルマットでの短いバカンスを終えた三人は再びチューリッヒに戻ってきた。いよいよ明日はDignitasへ行く日だ。
チューリッヒ駅で三人は今宵のレストランをどうするか話し合った。三人そろってご飯を食べるのもこれが最後になるのだ。
彼女がフェットチーネを食べたいと言い、娘さんもそれがいいと言ったところでイタリアンに決まった。それじゃあLa Pastaへ行こうと彼が言い、駅からそのまま向かう事になった。
彼女がもうパスタを満足に食べられない事なんて彼も娘さんも分かっていたけど、そんなことはどうでも良かった。
La pastaは人気らしく予約でいっぱいだったが、彼は諦めずにマネージャーに事情を説明してお願いした。その人は彼の説明を途中で遮り、神妙な顔をして暫く黙り込んだあと、ココでもいいかと言いながら小さなテーブルを作ってくれた。どうやらDignitasを知っている様子だった。
三人がテーブルに陣取るや否や店内は混み始め、すぐに満席になった。少し騒がしかったけれど、この騒々しさが三人にはありがたい夜だった。とにかく陽気な客ばかりだ。
三人でシャンパンとワインを飲み、パスタを食べた。彼女には娘さんが食べさせてくれた。
La pastaでの食事を終えてホテルに着く頃には陽が傾きかけていた。ベランダから見えるチューリッヒ湖が夕陽に照らされて美しく、三人はそれを背景にベランダで写真を撮り合った。遠くに虹がかかっているのが見えた。
それから少し飲もうって話になり、館内にあるバーみたいなところで飲んだ。これが最後の夜だなんて事をみんな忘れているかのようだった。
でも、その夜について、彼はそこから先を覚えていない。
旅立ちの朝
朝がやってきた。彼は酔っぱらって少し眠ったようだったが、彼女はいろんな人にメッセージを残していたようだった。きっと朝まで起きていたのだろう。
彼女は私物の処分について詳しく彼に説明した。これは捨てる、これは誰それにあげてなど、細かく決めていた。自分には何も残らないじゃないかと彼は思ったくらいだ。
そして、自分が持って行く物をスーツケースから出すように彼に頼んだ。十字架だったり姪に貰ったぬいぐるみだったり。彼女はクリスチャンだった。『僕の物はなにかいる?』って彼が聞くと、『たくさん持っているから大丈夫』と彼女は言った。
彼女の着替えが済んだところで娘さんが迎えにやってきた。娘さんが車椅子を押すのもこれで最後だ。出会った日から彼女の車椅子を押すのは娘さんの役目になっていた。
ホテルから向かったのはツェルマットに行く前に診察を受けた病院。ポーランド人の医師はその日もつらそうな表情をして、本当にブルーハウスへ行くのか?と聞いてきた。
ブルーハウスとはDignitasが運営している家の事だった。外壁が青色に塗られているのでそう呼ばれているらしい。
ブルーハウス
医師に御礼を言い、合流した通訳さんを含めた四人でそのブルーハウスまでタクシーで向かった。それはチューリッヒ郊外にあるウスター駅から少し離れた静かな場所に建っていた。近くには湖があり、周囲に民家はなさそうだった。
家にはまだ誰もいなかったが、彼女を乗せたタクシーが小径に入っていくのを見つけた男性が駆けつけてくれた。背の高い彼より少し年上のドイツ語を話す物静かな感じのする男性だった。
ブルーハウスではその男性の他に年配の女性も付き添ってくれた。穏やかな雰囲気のなか、彼女はベッドの上で渡された書類の説明を受け、それにサインしていく。もう字なんて書けない震える手で懸命にサインした。
そのサインは彼にしか読めないような字で、決して力強いものではなかったけれど、紛れもなく彼女の強い意志を表すものだ。
もう誰も正気ではいられないけれど、みんな静かに彼女を見守っていた。
さようなら
ひと通りの準備が終わるまでの間、三人は少し話をした。ちょっと寒いねとかたいして意味のない話だ。彼女は明るくて、これから旅行にでも行くような感じにしか見えない。
やがて両腕に点滴用のチューブが繋がれ、電動式の注射器がセットされた。その機械にはボタンが二つあって、どちらかのボタンを押すと注射器に入っている麻酔薬がポンプで注射される仕組みになっていた。
ずっと彼女の手を握ったままだった彼に、付き添いの女性が手を離すように諭した。
これから彼女がボタンを押すまで誰も彼女に触ってはいけないと教えられた。それは、すべての作業を彼女が一人で行った事を証明するためには仕方がないのだと説明され、Dignitasが出来るのもココまでだと言われた。
注射器に麻酔薬がセットされる。
あとは彼女がボタンを押せばすべてが終わる。
彼女が「ありがとう。先に行ってるね。」と言った。
もう笑ってはいなかった。
そして、彼がなにかを言い返そうとした時、彼女の手はもうボタンを押してしまっていた。
彼が「あっ」と声に出した。
その瞬間、最後まで泣かなかった彼女の顔が少しだけ歪んで見えた。彼はその最後の表情を忘れられない。
彼女は大学病院での宣告の時を最後に一度も彼に涙を見せた事がなかった。
それから、彼女は深い眠りについていった。
まるで一瞬の出来事のようだった。
もうすぐ彼女の心臓が止まる。
突然、娘さんが付き添いの男性にしがみついて大きな声で泣きだした。娘さんも一生懸命に我慢していたのだ。その男性は、「ここまでよくやったね」と言いながら娘さんを抱きしめた。
それから男性は彼に向ってこう尋ねた。「もしDignitasが受入れできなかったら二人はどうしたの?」
彼は即座に答えた。「自分が尊厳死させると決めていました」
少し間をおいてから男性は「あなたも強い人だ」と彼に言った。
違うよ。一番強いのは彼女だよ。と彼は思った。
これから警察が来て彼女が死んだことに関する現場検証が行われるから、その間は二人は外にいた方が良いと言われ、二人は近くの公園や湖を歩いて時間を潰した。二人とも抜け殻のようだった。
そして、スーパーに売ってある切り花をすべて買って彼女の元に戻った。
棺桶におさまった彼女はいつもより小さく見えた。
彼女の指から外したリングを付き添いの女性がそっと彼に渡して、そして彼を抱きしめた。
花で埋め尽くされた彼女にお別れを言い、二人はブルーハウスを離れてチューリッヒに戻って行った。
2016年8月10日の午後だった。
その日の彼の日記にはこう記されてある。
さよなら、み~ちゃん。
よく頑張ったね。
また逢いましょう。