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絶対無の諸相

* 純粋経験から自覚へ

日本を代表する哲学者、西田幾多郎の哲学とは真正の自己の探求であると同時に根源的実在の形而上学的な探求でもありました。この点、西田は『善の研究』(1911)において一切のものを「純粋経験」という観念で説明しようとします。同書で西田は感覚や知覚といった直接的経験だけでなく、意味や判断といった反省的思惟もまた純粋経験であるといっています。

けれども論理的に考えればやはり反省的思惟は明らかに主客の分離を前提としており、厳密な意味での純粋経験とはいえず、反省的思惟は純粋経験にとっては外なる契機です。それゆえ純粋経験と反省的思惟を結合する更なる原理が求められることになります。

そしてそうした原理は経験(直観)と思惟(反省)を自己のうちに含んだものであり、それらを自発的な自己の発展の二つの契機とするようなものでなければなりません。こうしたことから西田は『自覚に於ける直観と反省』(1917)において「自覚」という観念を提示しました。この「自覚」においては反省が直観を生み直観が新たな反省を生み自己は無限に発展していくものとして捉えられています。

* 自我と自覚

西田はこのような「自覚」の観念を形成する際、ジョサイア・ロイスの「自己表現的体系」の思想からヒントを得ています。ロイスのいう「自己表現的体系」とは一切の自己の思惟を完全に自己自身の思惟として意識している「完結した自己」のことです。そしてそうした自己の事例として彼は英国にいて英国の地図を描く場合をあげています。

けれどもロイスのいう自己表現的体系と西田の考える自覚的体系との間には顕著な違いがあります。ロイスの自己表現的体系というのはただ全体と部分が一対一の静的な対応関係にあるというものですが、西田の自覚的体系は全体が部分に分化・発展していく動的過程であると考えられています。このように自覚的体系を不断の動的な過程と考えている点で、むしろ西田の自覚概念はヨハン・ゴットリープ・フィヒテのいう「事行」の観念に近いものがあります。この時期の西田は西洋の流行思想であった新カント学派の論理主義とアンリ・ベルクソンの生の哲学を総合統一することが現今の哲学的課題であると考え、その結合をフィヒテのいう「事行」の観念に求めていました。

一般にフィヒテの哲学は自我哲学と呼ばれています。それは自我を究極の原理と考え、その働きによっていっさいのものを説明しようとする立場です。この点で、フィヒテの哲学はデカルトの哲学に似ています。もっともデカルトが自我を実体と考えたのに対してフィヒテは自我とは純粋な活動であると考えました。すなわち、まず自我があって活動があるのではなく、自我の活動があってその活動が自我の存在を定立するのであり、フィヒテはそれを「事行」と呼ぶました。

こうしたフィヒテの考えを受けて西田は「自我は自我である」という同一判断につき「自我は」という第一の自己と「自我である」という第二の自己は「思惟される自己」が直ちに「思惟する自己」であると解釈します。換言すれば「自我は自我である」という命題は二つの意識の根底にある統一的意識の表現であり、内面的当為の表現です。そして、この具体的全体を西田は「自覚」と呼び、それを「自己が自己を見る」とか「自己が自己を写す」という定式で表現しました。このような自覚においては自己が自己を写すということが同時に自己が発展していくことです。こうした自己写像的発展という「自覚」の概念によって西田はいっさいの学問体系を基礎づけようとしました。

* 意識的自覚から場所的自覚へ

ところが、この「自覚」の観念から様々な学問体系を基礎づけようとするとき、論理的体系や数理的体系のような理念的体系を説明する場合は順調に行きましたが、そこから現実の経験的諸体系を説明しようとする段にあると様々な問題が生じてきます。こうしたことから、この問題を解決しようとして試行錯誤を繰り返した西田は問題はいっさいの反省的意識の根源である「意識する意識」をどう捉えるかという問題に尽きるという結論に到達しましたが、当の「意識する意識」を反省的意識の立場から捉えることの不可能を悟り、結局そうした反省的意識の極限として自覚の自覚としての「絶対的自由意志」の立場に行き着きました。

ここでいう「絶対的自由意志」とはあらゆる思惟の極限であり、あらゆる意識を超越した「意識する意識」であり、反省的思惟を超越するとともに反省的思惟を成立させる根拠であり、ア・プリオリのア・プリオリです。そして世界はこのような「絶対的自由意志」の自覚的体系として位置付けられることになります。

もっとも、このような「絶対的自由意志」というのは一種の極限概念であり神秘主義的傾向の極めて強いものでもありました。この辺りの経緯を西田自身「刀折れ矢竭きて降を神秘の軍門に請うたという譏を免れないかもしれない」と率直に述べています。

そして西田が「絶対的自由意志」をさえも自己のうちに包むものとしての「場所」の観念に到達するのは『自覚に於ける直観と反省』を上梓してから実に10年近くも経ってからです。この間、西田はもう一度、哲学を古代ギリシアから学び直そうと決心し、その過程でプラトンの『ティマイオス』における「コーラ」の概念からヒントを得て「場所」の思想に到達しました。それは「自覚」の概念の更なる展開であるといえます。いうなれば「自覚」が「自己が自己を見る」という意識的自覚であったとすれば「場所」とは「自己が自己に於て自己を見る」という場所的自覚であったといえます。

* 絶対無の場所

この点、西田は「場所」の思想を論理化するにあたって判断における主語と述語の関係と概念における特殊と一般の包摂関係を手がかりにしています。一般に人の認識とは「SはPである」という主語と述語からなる判断によって成立します。そしてこうした判断の典型は包摂判断であって、あらゆる判断は包摂判断に還元されるといわれています。しかるに包摂判断とは文字通り「特殊」である主語(例えば人間)を「一般」である述語(例えば動物)のうちに包摂する判断です。

ところで判断における主語が特殊化を重ねていって個物に近づけば近づくほど、その主語を包摂する述語はより大なる一般者となります。だとすれば一般者の特殊化ないし限定が、その極限において個物にまで到達したとき、その個物を包む一般者は無限大の一般者、つまりあらゆる述語を内に包む「一般者の一般者」とならなければなりませんが、それは判断の対象としては無であることを意味します。それゆえにこの無限大の一般者を西田は「絶対無の場所」と呼びます。

このように特殊化の極限にあり無限大の述語を持つ「超越的主語面」である個物は一般化の極限にある「超越的述語面」である「絶対無の場所」においてあると考えられます。そして、このようなあらゆる述語一般を超越した個物を判断の対象とするとき、それは主語である個物自身が自己の述語となると考える他はないでしょう。換言すれば個物は自らを無にして自己の内に自己自身を写すということです。

こうして「包むもの」が同時に「包まれるもの」となり、反対に「包まれるもの」が同時に「包むもの」となり、個と普遍は相即相入の関係にあることになります。すなわち、最も普遍的なものが最も個物的なものであり、もっとも個物的なものがもっとも普遍的なものであり、我々における各々の自己が絶対無の場所なのであるということです。

* 絶対無の自覚

こうして西田は『働くものから見るものへ』(1927)において自覚の立場から場所の立場に転じたのち、次作『一般者の自覚的体系』(1930)ではそのタイトル通り「場所」の思想を一般者の自覚的体系として論理的に体系化しています。

ここでは「有の場所」「意識の野」「絶対無の場所」と呼ばれていた三種の場所がそれぞれ「判断的一般者(自然界)」「自覚的一般者(意識界)」「叡智的一般者(叡智界ないし超越界)」と呼ばれるようになり、そして叡智的一般者の極限に「無の一般者」が考えられています。

さらに『無の自覚的限定』(1932)においては逆に様々な一般者が「絶対無の場所」の抽象的限定面として論じられるようになります。ここで一般者の自覚的過程は、その往相(ノエシス的超越)の過程においては「判断的一般者」「自覚的一般者」「叡智的一般者」「無の一般者」の四層から構成されており、その還相(ノエシス的限定とノエマ的限定)においては「無の一般者」「行為的一般者」「叡智的一般者」「表現的一般者」「自覚的一般者」「判断的一般者」の六層から構成されています。

そして、このように自己の極限が「絶対無の場所」であるという根源的事実についての自覚こそが西田のいう「絶対無の自覚」です。それは見るものも見られるものもない世界であり、色即是空・空即是色の世界であり、ある種の宗教的境地であるともいえます。

しかしこのような根源的事実そのものはただ体験されるだけであって、このような境地そのものを我々は「知る」ことはできなません。それは純粋経験そのものを「知る」ことができないのとパラレルです。

けれども、こうした境地そのものを知ることはできずとも、そうした体験を思惟によって反省し、概念的知識の対象にすることはできます。確かに体験は反省に先立っていますが、しかしそうした体験の内容はそれを反省することによって初めて詳らかになります。「純粋経験」から「絶対無」へと至る西田哲学の思索の軌跡はまさにこうした哲学的反省の軌跡として跡付けることができるように思います。










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