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されど空の青さを知る

* 西田哲学の根本課題

日本を代表する哲学者、西田幾多郎は『善の研究』(1911)においてこの世界を構成する実在として主観と客観の二分法という反省が加えられる以前の主客未分の状態である「純粋経験」を位置付けました。その後西田は「純粋経験」を捉え返す「自覚」を経て、その基盤となる「場所」の根源としての「絶対無」へと到達します。さらにここから晩年の西田は「絶対無」を破断的に内在させた「個物」の「行為的直観」が織りなす「絶対矛盾的自己同一」としての世界を描き出すことになります。

このように様々な変転を遂げたかに見える西田哲学の枢要部には一貫して変化していない要素があります。それは一言でいえば「真正の自己の探究」です。本来の自己とはいったい何であるか、あるいは自己の根底や在り処は何であるのか。そのことの解明が西田哲学の根本課題となっています。こうした意味で西田哲学とは真正な自己に目覚める「自覚」の深化の過程として捉えることができます。

* 西田哲学における自覚の深化

西田によれば、ここでいう「自覚」とは「自己が自己を見る」と定義されます。この点「純粋経験」とはさしずめ自覚が自覚として自覚される以前の「直覚的自覚」であるといえます。「自己が自己を見る」には「見る自己」と「見られる自己」が区別されなければなりませんが、そうした区別が生じる以前の厳密な統一的意識現象が純粋経験ということです。

もっとも哲学は反省的思惟の立場においてはじめて成立するため、知的直観としての純粋経験はそれが分別的思惟によって反省されることによってはじめて認識の対象となります。それゆえ「純粋経験」の立場は必然的に「純粋経験」の「意識的自覚」の立場へと展開していくことになります。

そこで第二の主著である『自覚に於ける直感と反省』(1917)において西田は「自己が自己を見る」という「自覚」の立場から出発し、そのような意識的自覚の究極的な境地を「絶対的自由意志」と呼びます。そしてこのような意識的自覚の次の段階が「自己が自己において自己を見る」という「場所的自覚」です。ここでいう「場所」とは「自己において」という部分を指しています。

この点、西田は場所を「有の場所」「意識の野」「絶対無の場所」に分類しました。これは三種類の異なった場所があるのではなく「有の場所」は「意識の野」に包まれ「意識の野」の極限に「絶対無の場所」があります。あるいは「有の場所」も「意識の野」も同じく「絶対無の場所」の顕現であるともいえます。そして、こうした「絶対無の場所」における「絶対無の自覚」を西田は「見るものも見られるものもなく色即是空空即是色の宗教的体験」であるといいます。

ここまでの西田の思索はもっぱら真正の自己の探究にありました。「純粋経験」から出発して、その純粋経験の「自覚」へ進み、さらにそこから純粋経験の自覚の「場所」へと行き着き、その極限が「絶対無」となります。そしてここからの西田の思索は真正の自己の本体ともいうべき「絶対無」の自覚的限定の諸相としての歴史的現実界へと向かうことになります。こうした思索の転回は浄土仏教でいう往相と還相、あるいは禅仏教でいう向上と向下の関係に比せられます。

この点、西田は絶対無の自覚的限定としての歴史的現実界は本質的に弁証法的な論理構造を有していると考え、これを「絶対矛盾的自己同一」と呼びました。このような絶対矛盾的自己同一の世界においてはもはや自己の自覚は同時に世界の自覚であり、また世界の自覚は同時に自己の自覚となるのであり、自己は世界の一要素であるとともに世界全体を表現するものであるとされます。

* 逆対応の論理

そして西田の最晩年の思想は一般的に「逆対応」の論理と呼ばれています。これは遺稿である「場所的論理と宗教的世界観」(1945)において展開されたものです。同論文は当初は浄土真宗の信仰に哲学的基礎を与えようと企図されたものでしたが、執筆の過程で、ただ単に浄土真宗だけでなく、広く宗教一般に通用する論理であることを確信し、禅宗やキリスト教をも含めたすべての信仰に内在する論理として提示されています。同論文においては超越者を表す言葉として、従来の絶対無という言葉に代えて「絶対的一者」という言葉を多用しているのものそのことと関連があると思われます。

ここでいう「逆対応」というのは自己と超越者、あるいは相対と絶対との間の宗教的関係をいいます。西田によれば例えば神と人間、仏と衆生といった自己と超越者の間には相互に自己否定的な対応関係が認められます。この点、宗教においては一方の自己の救いを求める声に対して、他方の超越者からの応答がありますが、ここには自己の側の悲痛な声が強ければ強いほど、また真剣であれば真剣であればあるほど、超越者からの呼びかける声は強くなり確実なものとなり、自己の救済がますます確信されていくという信仰の構造があります。このような絶対と相対との間に見られる宗教的関係を西田は「逆対応」と呼びました。

ではこの逆対応の論理とは如何なるものでしょうか。まず「絶対」とは文字通り対を絶したものです。何かに対するものは「相対」であって「絶対」ではありません。何ものにも対することがないから「絶対」なのです。しかし、何ものに対しないものは無であって何者でもありません。およそ有るものは何かに対して有るのことになります。したがって「絶対」はもしそれが有るもので有るとすれば何かに対して有るものでなければならないが、それは端的に矛盾となります。つまり「絶対」とは自己矛盾的存在なのであるということです。

* 絶対と相対

では我々は「真の絶対」をどのように考えればいいのでしょうか。西田の考えは次のとおりです。「絶対」は自分自身を否定し、その否定した自分自身に対します。というのは「絶対」は「相対」に対することはできませんが、しかし何ものにも対しないのは、それ自身、何ものでもないからです。

「絶対」とは、いわば自己否定の働きであって、不断に自分自身を否定する。そうしてそのように否定された自分自身に対することになります。この「絶対」の否定態こそ「相対」に他ならず、この意味で「相対」は「絶対」の顕現であり、自己限定の諸相であるということになります。「絶対」は自己を否定することによって自己を相対化し、そして相対化した自己に対するのである。これが絶対と相対の真実の関係であると西田はいいます。

同様に「相対」はそれ自身では「絶対」に対することはできません。もし「相対」が「絶対」に対するとすれば、その場合「相対」もはや「相対」ではなく「絶対」であることになります。あるいは「相対」に対する「絶対」はもはや「絶対」ではなく、一つの「相対」であることになります。

では「相対」はどのようにして「絶対」に対することができるのでしょうか。西田の考えは次のとおりです。「相対」は自分自身を否定することによって初めて「絶対」に対することができます。しかるに「相対」が自分自身を否定するとは「相対」であることを否定して「絶対」になることです。それゆえ「相対」は自己を否定して「絶対」になることによってはじめて「絶対」に対することができます。

このように対極の位置にある「絶対」と「相対」は相互の自己否定を通して対面していることになります。そうして「絶対」と「相対」との間のこうした相互関係を西田は「逆対応」と呼びます。宗教的信仰において自己と超越者が相対するのは、こうした「逆対応」によるということです。

* されど空の青さを知る

この逆対応の論理は西田の遺稿において初めて現れたものですが、その論理構造は基本的には絶対矛盾的自己同一における「絶対矛盾的」という要素が宗教的な意味において深められたものと考えて差し支えないでしょう。これに対してその「自己同一」的側面を表示しているのが「平常底」という概念です。「逆対応」と「平常底」は一対の概念として理解されなければなりません。

「逆対応」が絶対と相対との間の宗教的関係を表しているのに対して「平常底」は回心や見性に特有の宗教的立場ないし境地を表しています。それは平常の生活を超越した境地をいうのではなく、むしろ日常の生活を、その底の底に突き抜けたような境地や態度をいいます。そこに人間本来のあり方が見られ、何ものにもとらわれない自由自在な境地があると考えられます。

「平常底」は歴史の始まりと終わりが現在のこの一瞬に収斂する絶対現在の自己限定として自己自身を自覚する立場です。西田はそれを「絶対現在意識」といい「終末論的平常底」と表現します。それは決して日常性を離れることなく、むしろ日常的生の底に徹した立場であり、いわば時間的な面と場所的な面、水平的な横軸と垂直的な縦軸との交差点にあり、したがって最深にして最浅、最遠にして最近といわれます。このような絶対現在の自己限定の世界が歴史的形成の世界であり、同時に宗教的救済の世界であるということです。西田は同論文を「国家は、此土に於いて浄土を映すもの」でなければならないという言葉で結んでいます。

西田が辿り着いた最終的な「自覚」の境地としての「平常底」とは、いわばこの平凡な日常が巨大な井戸の底であるという、垂直即水平の境地をいうのでしょうか。「井戸の中の蛙大海を知らず」という有名な諺の由来は中国の「荘子-秋水篇」の一節「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」にありますが、よく知られるようにこの箴言は日本に伝わった後「されど空の青さを知る」という一節が付け加えられました。こうした意味で「平常底」とは「井戸の中の蛙」でしかない有限を「自覚」することで「空の青さ」という無限が開かれる「無知の知」としての哲学の境域を語っているようにも思われます。











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