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生命の〈あいだ〉

* 生命一般の根拠

生命の実体や生命の起源についての研究は現代における先端科学の中心的課題の一つであることは言うまでもなく、この先いつか生命の構造が余すところなく解明される日が来るかもしれません。もっとも、そのような科学的視野に中にある「生命」とはどこまでいっても「生命物質の生命活動」のことです。たとえ物質の生命活動が解明できたからといって、それはあくまで生きている物質に特有の構造が明らかになっただけのことであって、生命それ自身の本態が暴露されたことにはなりません。

生命それ自身とは個々の生命物質や生命現象とは別個の存在様式を示すものであり、生命それ自身は物質や現象のように形を持たず個別的な認識の対象になりません。個々の生命物質に一定の期間、生命現象として現出するような生命それ自身はこの地球上に存在するありとあらゆる生きものにとって、それらが現に「生きていること」の根拠となっています。人間を含む全ての生命物質が「生きている」ということはこの根拠との関係が保たれている、あるいは切れていないということです。地球上にいつどのようにして生命物質が誕生したのかが解明されたとしても、この生命の根拠がどのようにして生み出されたのかという問いが答えられたことにはなりません。

こうした視座から精神病理学者の木村敏氏は次のような仮説を提示します。

この地球上には、生命一般の根拠とでも言うべきものがあって、われわれ一人ひとりが生きているということは、われわれの存在が行為的および感覚的にこの生命一般の根拠とのつながりを維持しているということである

木村敏『あいだ』より

ここでいう「生命一般の根拠」というのは個体の生命活動を超えたレヴェルのものであって、個体それぞれの生死には関知しないものです。この根拠を客体として対象的に認知することは不可能ですが、われわれが世界や自己自身について普段に行ったっている経験を、事実のままに説明するためにはどうしてもその存在を仮定しなくてはならないというものです。

* ヴァイツゼッカーの医学的人間学

そして木村氏がこうした生命論を展開する上で特権的に参照する思想家がヴィクトーア・フォン・ヴァイツゼッカーです。

ヴァイツゼッカーは精神科医ではなく内科医、神経科医であり同時に哲学者でもあった人物ですが、彼は早くから客観主義的な自然科学的医学に対する批判を展開し、医学に「主体」を導入する「医学的人間学」を提唱したことで知られています。このような主張は今日的な医療倫理からみればごくあたりまえのことを言っているようにも聞こえます。しかし、ここでヴァイツゼッカーのいう「主体」とはかなり奇妙な概念です。

彼のいう「主体」とは「客体」と対立する項としての「主体」でも、近代的自我という意味での「主体」でもなく、広い意味での「生きもの」とその外部である「環境世界」との邂逅それ自体を指しています。この点、彼は生きものがその生存を保持するため環境世界との間に保っている接触現象のことを「相即 Kohärenz」と呼びます。生きもの自身も環境世界も絶え間なく変転する中で、この「相即」は絶えず繰り返し中断されることになり、そのたびにそれに変わる新たな「相即」が樹立されて、生きものと環境世界との接触は引き続き保たれることになります。

このような「相即」と呼ばれる事態を、それによって生存を保っている当事者である生きものの側から見たものが、彼のいう「主体」ということになります。すなわち、彼のいう「主体」とは「相即」と呼ばれる環境世界との接触現象そのものであり、いわば生きものとその環境との〈あいだ〉の現象であると理解できます。

こうした意味で彼の主体概念において人間的な「意識」は要件とされておらず、その範囲は人間以外の全ての生物、それも随意運動の可能な動物だけではなく、植物から単細胞生物まで拡大されて適用されます。すべての生きものは環境世界と「相即」を成立させている限り「主体」として生きているということです。

こうしたことからヴァイツゼッカーの主体概念は生きものが「生きている」という事実から切り離すことができません。「生きている」ということは一定の物質的組成を持った物体が「生命」と呼ばれる活動のうちに身をおき「生命」に根ざしているということです。このような生きものと「生命」の〈あいだ〉を、彼は「根拠関係」と呼びます。そして、このような「生命」への「根拠関係」こそが生きものを「主体」たらしめている「主体性」であり、ここから彼は医学への「主体」を導入する上ではこのような「主体」を成立せしめている「主体性」としての「生命」に関与することが必要になると主張します。

このようにヴァイツゼッカーの医学的人間学は「患者さんの主体性を大事にしよう」などという常識的なヒューマニズムではなく、人の生死の問題を個人を超えた「生命」という局面から見ていくという意味ではむしろラディカルなアンチ・ヒューマニズムに立脚するものであるとすらいえます。

* ノエシス・ノエマ・メタノエシス

そしてこのようなヴァイツゼッカーの生命論を木村氏は「ノエシス」「ノエマ」という意識作用に関する術語を使って次のように読み直していきます。有機体が世界に向かって営む実践的行為は、すべてその中に知覚的あるいは認知的な作用を含んだノエシス的な働きであるといえます。そして有機体が意識を備えるようになると、このノエシス的な行為が自らの代理者(表象)を意識の中に送り込み、そこにノエマ的表象を形成するようになります。我々が世界について意識しているノエマ的心像はいわば意識以前のノエシス的行為が意識に残した痕跡であるともいえます。

ノエシス的行為それ自体は決して対象的・ノエマ的に意識され得ません。本能のレヴェルでの生命行為はほどんど純粋にノエシス的に遂行されていて、我々はこれをほとんど意識することはありません。これに対して人間は生きている限り、自身が「生きている」ということに対して自覚的に関わっています。ただ単に生きているだけではなく、生きていることを知っており、通常は生き続けることを肯定するような方向で生きていることに関わっています。そのため人間には自らの行為・行動を意識に記録し、それに対して知的な制御を加える機構が備わっています。ノエマ的表象にはこうした「生きている」ことに関する自己確認と自己制御の機能があります。

それゆえに人間が実際に遂行する個々のノエシス的行為は、すべて意識に投影されたノエマ的表象に導かれて、その統制下に営まれていることになります。そして木村氏はこのようなノエシス的行為とノエマ的表象の円環構造を「メタノエシス原理」と呼び、これがヴァイツゼッカーのいう「有機体と世界の出会いの原理」であると同時に「生命の根拠との関わり」であるものとして考えた〈あいだ〉の原理としての「主体性」であるといいます。換言すればそれはノエシス面とノエマ面との挟まれたそれ自体ノエシス的な行為としての関係の原理であるということです。

*「自己」の在り処

以上より全体の構造はほぼ次のようになっています。人間は生物として生命一般の根拠との「あいだ」に絶えず関係を持ち続けています。この関係は世界との「あいだ」の瞬間瞬間のノエシス的・実践的な行為的関係を通じて保持されています。この刻々のノエシス的行為は、そのつど意識の中に認知対象として個々のノエマ的表象を送り込みます。

そして、このノエマ的表象は、そのつどのノエシス的行為が全体的な生命一般の根拠とのつながりから外れないようにこれを制御する標識として役立っています。それゆえにこのつながりが個々のノエシスを包む高次のメタノエシスとして作用する際にも、個々のノエマ的表象の複合的な全体、つまり世界表象のようなものが制御の標識の役目を果たすことになります。

このノエシス的行為面とノエマ的意識面との〈あいだ〉で、ノエシスがノエマを生み出すそれ自体ノエシス的な働きが、人間でいうと主体的自己の成立する場面ということになります。つまり「自己」という概念はノエマ的意識を抜きにしては考えられません。例えば「無我夢中」と呼ばれる純粋なノエシス的な行動の中には「自己」というような意識は決して成立していません。それゆえに「無我」とはまた「忘我」とも呼ばれます。

* 生命の〈あいだ〉

そして、このような「自己」が消失する純粋なノエシス的行動をかつて西田幾多郎は「純粋経験」という術語で捉えました。西田は『善の研究』の「序」で「純粋経験を唯一の実在としてすべてを説明して見たいというのは、余が大分前から有って居た考であった」と述べています。ここでいう「実在」とは「実際に存在するもの」「物事の真の姿」「最も確かなもの」といった意味で用いられています。こうした意味での「実在」を西田は「純粋経験」として捉えています。

西田によれば常識的な意味での「経験」には常にその「経験」をした当事者の先入観や判断といった「思慮分別」が入り込んでいるとされます。これに対して「純粋経験」はそのような「思慮分別」が少しも加えられていない「経験そのままの状態」をいいます。

我々の常識的なものの見方では主観と客観との二分法に立っています。すなわち、まず「私」という個人がまず存在して、その外側に「私」を取り巻く世界が存在していると考えます。しかし西田はこうした主観と客観の二分法という反省が加えられる以前の主客未分の状態である「純粋経験」こそが「実在」にほかならないといいます。

そして同書で西田がいうところの「善」とはまさしく主客分離した意識状態のさらにその先にある主客が高度に再統合された理想的な意識状態としての「純粋経験」に他なりません。すなわち、こうした意味での「純粋経験」という「実在」の中にこそ「生命一般の根拠」としての〈あいだ〉を見出すことができるということです。こうした生命論は社会共通の「大きな物語」が消失する一方で人間の固有性が問い直される「ポストヒューマニズム状況」が加速する現代において、人が「生きている」というアクチュアリティを考える上で深い示唆をもたらすものになるのではないでしょうか。







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