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仮留めの「正しさ」を生きるということ--壁と卵とリトル・プープル

* 壁と卵

2009年2月15日、村上春樹氏はエルサレム賞の受賞式において「壁と卵」という名で知られる有名なスピーチを行っています。同賞はノーベル賞への登竜門として知られる一方、時のイスラエル政府の強い影響下にある極めて政治色の強い賞としても知られています。

当時、イスラエル政府によるガザ侵攻が国際的に非難されており、授賞式当日、壇上に登った村上氏は周囲から「受賞を断った方がいい」という少なからぬ忠告を受けたことを明かし、受賞を辞退すべきか熟考を重ねた上で、それでも自分は小説家として、あえてエルサレムに赴くことを決意したのだと告げ、次のように述べました。

ひとつだけメッセージを言わせてください。個人的なメッセージです。これは私が小説を書いているときに、常に頭の中に留めていることなのです。紙に書いて壁に貼ってあるわけではありません。しかし頭の壁にそれは刻み込まれていまれています。こういうことです。

『もしここに硬くて大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。』

そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます。正しい正しくないは、ほかの誰かが決定することです。あるいは時間や歴史が決定することです。もし小説家がいかなる理由があれ、壁の側に立って作品を書いたとしたら、いったその作家にどれほどの値打ちがあるでしょう?

(略)

こう考えてみて下さい。我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにひとつの卵なのだと、かけがえのないひとつの魂と、それをくるむ脆い殻を持った卵なのだと。私もそうだし、あなた方もそうです。そして我々はみんな多かれ少なかれ、それぞれにとって硬い大きな壁に直面しているのです。その壁は名前を持っています。それは「システム」と呼ばれています。そのシステムは本来は我々を護るべきはずのものです。しかしあるときにそれが独り立ちして我々を殺し、我々に人を殺させるのです。冷たく、効率よく、そしてシステマティックに。

私が小説を書く理由は、煎じ詰めればただひとつです。個人の魂の尊厳を浮かび上がらせ、そこに光を当てるためです。我々の魂がシステムに搦め取られ、貶められることのないように、常にそこに光を当て、警鐘を鳴らす、それこそが物語の役目です。私はそう信じています。生と死の物語を書き、愛の物語を書き、人を泣かせ、人を怯えさせ、人を笑わせることによって、個々の魂のかけがえのなさを明らかにしようと試みること、それが小説家の仕事です。そのために我々は日々真剣に虚構を作り続けているのです。

(村上春樹『雑文集』より)

*「壁」と「卵」を切り分けることの危うさ

村上氏のこのスピーチには内外から大きな賞賛が集まりました。しかしその一方で「壁」とか「卵」などといったメタファーに頼ったその曖昧な意見表明を批判する声や、このスピーチ自体が安易な人気取りであると断じ去る声もありました。そんな中、このスピーチにおける政治的態度の当否などではなく、村上氏の想定する世界観そのものに疑念を呈したのが宇野常寛氏です。宇野氏は村上氏のスピーチに「かつて春樹自身が否定したものの匂いを感じざるを得なかった」といいます。

その論旨は、かつて村上春樹という作家は「壁」と「卵」の対立関係に見せかけた共犯関係からの離脱を志向していたはずなのに、いまや他ならぬ村上氏自身が「壁」と「卵」を対立関係で性急に切り分けようとしているのではないか、というものです。そして、宇野氏によれば、こうした変転の背景には村上氏のいう「壁」と呼ぶべき存在の変遷が深く関係しています。どういうことでしょうか。

*「壁」の変遷--ビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ

かつて「壁」とは、単一の「大きな物語(社会共通の物語)」を語る「国家」という名の擬似人格体でした。この擬似人格体を宇野氏は「ビッグ・ブラザー」と呼びます。

1970年代末、村上氏はこうした「ビッグ・ブラザー」という「壁」に対する「デタッチメント(離脱)」を志向する作家として登場しました。そのひとつの到達点となった作品が「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(1985)」です。

ところがその後、冷戦構造の終焉やグローバル化/ポストモダン化の加速に伴い「ビッグ・ブラザー」が沈みゆく中で、新たな「壁」として浮上してきたのが、無数の「小さな物語(個人の物語)」が蠢く「市場」という名の非人格的システムです。この非人格的システムを宇野氏は「リトル・ピープル」と呼びます。

そして、このような「壁」の変化を鋭く察知した村上氏はその倫理的作用点を転回させ「リトル・ピープル」という新たな「壁」に対して「コミットメント(介入)」する姿勢を打ち出します。こうした問題意識が強く現れた作品が「ねじまき鳥クロニクル(1994〜1995)」です。

*「卵」たちの無限連鎖としての「壁」

こうして村上春樹という作家は単一のビッグ・ブラザーからのデタッチメントから、無数のリトル・ピープルたちへのコミットメントへと展開していきました。この「壁と卵」というスピーチもまた、このような文脈の中に位置づけられるでしょう。

ここで村上氏は「壁=システム」を「卵=個人」の外部に位置付けて、両者の間に対立関係を導入します。ところが、宇野氏によればシステム=リトル・ピープルとはむしろ無数の「卵」たちの無限連鎖によって形成された不可視の環境であり、このような無数のリトル・ピープルたちの集合が発揮する不可視の力こそが、現代においては時に「悪」として作用する「壁」となるのであるといいます。

すなわち、かつて村上氏が敵視した「壁」と「卵」の対立関係に見せかけた共犯関係は「壁」がビッグ・ブラザーからリトル・ピープルへ変遷することでより一層、強固かつ緻密なものとなっているということです。

* 権力は下からくる

宇野氏の論じるリトル・ピープルという世界観はフランス現代思想を代表する思想家の一人であるミシェル・フーコーの権力論と親和的な立場であると言えます。フーコーは「監獄の誕生(1975)」「性の歴史Ⅰ(1976)」において「規律権力」と「生権力」という概念を提出し、近代以降、現代に至るまで権力とは「上から下」への外在的な支配ではなく、むしろ「下から上」への内在的な欲望として作動していると論じています。

権力は下からくるということ。すなわち、権力の関係の原理には、一般的な母型として、支配する者と支配される者という二項的かつ相対的な対立はない。その二項対立が上から下へ、ますます極限された集団へと及んで、ついに社会の深部にまで至るといった運動もないのである。むしろ次のように想定すべきなのだ。すなわち生産の機関、家族、極限された集団、諸制度の中で形成され作動する多様な力関係は、社会体の総体を貫く断層の広大な効果に対して支えとなっているのだと。

(ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅰ』より)

ここでフーコーのいう「支配する者」と「支配される者」の関係性は、そのまま村上氏のいう「壁」と「卵」の関係性に相当するでしょう。かつて村上春樹という作家は「支配する者=壁」と「支配される者=卵」という二項対立から鮮烈に「デタッチメント(離脱)」しました。けれど今は翻り「支配する者=壁」と「支配される者=卵」という二項対立へと強力に「コミットメント(介入)」しようとしている、ようにも見えます。

これに対して、宇野氏やフーコーの議論に依拠するのであれば、この「壁」と「卵」の二項対立は、リトルピープルという名の「卵」たちの織りなす無限連鎖=無数の権力関係のネットワークへと脱構築されます。ここには絶対的な「壁」は存在せず、しばし「卵」達の接続過剰が相対的な「壁」を作りだしている世界があるということです。

* 仮留めの「正しさ」を生きるということ

こうしてみると「壁」と「卵」の関係は常に相対的であるといえます。ある人にとっては「卵」だと思っていた存在が、他のある人にとっては「壁」となっていることもあるでしょう。あるいは多くの人から「壁」だと名指される存在が実は「卵」だったりもすることもあるでしょう。

我々はしばし自分こそが絶対的に「卵」であると思い込み、自分の「正しさ」を主張することがあります。けれどもその「卵」の「正しさ」とは他の「卵」にとっての「壁」となる時もあるでしょう。

ここでいう他の「卵」とは、言い換えれば自分自身と世界観を共有することのない存在としての「他者性」です。結局のところ、我々は様々な「卵=他者性」が泡立つ世界を生きているということです。

そんな世界においてせめて我々にできる事があるとすれば、ひとつの絶対的な「正しさ」の中に引きこもり思考停止するのではなく、様々な「卵=他者性」の泡立ちを織り込んだ上での仮留めの「正しさ」を日々丁寧に更新しながら生きていくしかないのでしょう。そして、それが本当の意味で「卵の側」に立つということなのではないでしょうか。






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