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やせっぽちのヒロイン
五歳の時に下半身まひ身体障害を負い、車いすに乗っていた私は養護学校中学部を卒業後、念願だった普通高校に進学した。
あこがれだった学生服。真新しい金ボタンに何度もふれた。
校舎にはエレベーターがなかったので、付き添いの母と共に登校した。母は普段理科準備室で待機し、教室間の移動があると私をおぶって階段を昇り降りし、あらかじめ階段下に据えておいた椅子に私を座らせた後、車いすを運んだ。
母にとってはかなりの重労働だったろうが、私は礼ひとつ言わなかった。学校に親子で来るなんて。階段下の椅子で身を縮めながら、軽やかに階段を駆け、廊下を走っていく生徒たちを見つめた。ひらひら揺れる女子生徒のスカートを目にした時、すごく悪いことをした気分になり、顔をふせた。
友達はできなかった。ずっと養護学校にいたから健常者の生徒たちにどう話しかけたらいいのかわからなかった。向こうもおなじだったようで、私に話しかけてくる生徒はほとんどなかった。腫れ物にはさわらず。そんな空気だった。
授業がすべておわり、鞄を膝に抱えて車いすを階段の方へこいでいくと、母がすでに待っていた。帰りの車のなかはラジオの音だけが流れていた。
今日、おれ、なんかしゃべったっけ?
二年生になってもそんな状態は変わらなかった。相変わらず私は、出入りしやすいからと学校側に決められていた教室一番前、出入口そばの席につながれたままだった。
もうすぐ夏休み、というある日。
二時間目の日本史があと五分ほどで終わろうとしていた時だった。まわりから妙な視線を感じた。後ろからはかすかに小声で話し合う声も聞こえた。
私はあることに思い当たり、こわごわ車いすの右側から下を覗き込んだ。
シートの隙間からぽたぽたと滴が垂れ、車いすの下に水たまりができていた。
おしっこが、漏れていたのだ。
下半身まひのため排泄感覚が失われているので、失禁はしばしば起こした。高校入学からは尿漏れ防止用シートを下着のなかにつけていたが、どうやら許容範囲を超える量が出てしまったらしい。
からだが震え出した。唇があわあわとうごめいた。微妙に大きくなるまわりのざわめき。ノートは一切取れなくなった。
やがてチャイムが鳴った。先生は教科書を手にさっさと教室を出て行った。異変に気づいた様子はなかった。
机から車いすをずらした。鞄に突っ込まれていたくしゃくしゃのポケットティッシュを取り出し、車いすから屈んでおしっこの水たまりを拭った。しかしちいさなティッシュではとても拭いきれない量だった。濃い茶色の床に、沁みが無駄に広がった。
まわりの生徒たちは休み時間のおしゃべりに興じていた。普段とおなじ様子を装いながらも、ちらちらと視線を送ってくるのがわかった。母の手を借りたかったが、こういう時に限って次の授業は数学で教室移動はない。
その時、気配を感じた。顔を上げた。誰かが雑巾を手に、私のそばにしゃがみこんだところだった。
私の列の一番後ろにいる、女子生徒だった。
彼女はとても小柄で、やせっぽちなひとだった。内気な性格なのか私同様、友達らしい友達はいなかった、はずだ。はずだ、というくらい、彼女は教室内で目立たない存在だった。当然、私も会話をしたことなどなかった。
彼女は雑巾を手際よく動かし、おしっこを拭い出した。周囲の視線が強くなる。彼女の横顔は、はっきりとこわばっていた。でも雑巾を動かす手をとめなかった。
羞恥がもたげてきた。私は彼女から雑巾を奪い取った。やけ気味におしっこを拭い取った。床はなんとか元に戻った。
彼女は雑巾と共に持ってきていたビニール袋を広げた。彼女の後ろには掃除用具のロッカーがあるのでそこから出してきたのだろう。無言で袋の口を向けた。私はビニール袋をまたも奪い取り、おしっこを含んだ雑巾とティッシュをそこに突っ込み、口をしっかり結んだ。彼女が手を差し出した。捨ててきてあげる、と目が言っていた。私は無視して、ごみと化したビニール袋を一瞬ためらってから鞄に押し込んだ。
彼女が無言で立ち去ろうとした。ここにきてようやく、せっかく手伝ってくれたのに恩を仇で返すような態度を取ったことに後悔の念を覚えた。
お礼を言わないと。焦ったが一年半近く教室で話していないので口が動かない。数秒後、必死に言葉を絞り出した。
「あ、手、汚れ……」
なにを言っているんだ、おれは。
ここはまずなにより、「ありがとう」だろう。
まごついていると彼女はかすかにうなずき、教室を出て行った。細くちいさな背中を見送った。私はまだ濡れていた手を学生服で拭い取った。服が汚れることに、なぜか抵抗は感じなかった。
彼女がハンカチで手を拭いつつ、後ろの出入口から入ってくると同時に、次の始業チャイムが鳴った。
その日の残りの授業は濡れたズボンのまま受けたが、感覚がないので冷たさもしめっぽさもなにも感じなかった。
そんなことより、彼女のことが気になってしかたなかった。
放課後、私はすぐ教室を飛び出し、後ろの出入口ドアをくぐった。
すぐそばの席で彼女は帰り支度をしていた。彼女が振り向いた。心臓が太鼓と化していた。
「あ、今日は、ども……」
ありがとう、だろう。ばかやろうが。もうひとりの自分が頭で怒鳴った。
「大丈夫?」
彼女がたずねてきた。周囲の喧噪に溶けそうな小声。でも私にはしっかり届いた。それなのに私はなにも答えられず、ただうなずいた。
彼女はちいさなうなずきを返した後、「じゃあ……」と席を立ち、私のそばを抜けて廊下に出た。車いすを反転させてドアから顔を出した。ややうつむき加減の彼女は、あっという間に生徒たちの群れにまぎれてしまった。
しっかりお礼をしないとだめでしょ。失禁と、その時の出来事を車中で話すと、ひさしぶりに母から本気で叱責された。なにも言い返せなかった。
でも確かにお礼とお詫びは言わないと。
翌日、その機会をうかがってばかりいた。休み時間、何度も振り返った。彼女はいつも通り誰とも話すことなく、席で次の授業の準備をしていた。
ようやく話しかけられたのは、昼休みもおわり近くだった。お昼を食べおえ、ひとり席で本を読んでいた彼女のそばに行った。
「昨日は……」
頭だけ小さく下げた。「ありがとう」はやはり出てこない。自分の頬を殴りたくなった。
彼女が、かすかに微笑んだ。
夏休みがきた。うだる暑さのなか、私はひとり、彼女のことばかりを考えていた。小柄でやせっぽちな姿。私のおしっこを雑巾で拭う手。「大丈夫?」喧噪に溶けた小声。細くちいさな背中。かすかな頬笑み。
休みはつまらなかった。友達と遊ぶこともない。家族と出かけることもない。近所の本屋に入り浸り、涼みながら雑誌を読み漁る日々。
こんな夏休みなど、明日にでもおわってしまえばいい。
はやく、彼女に会いたい。
夏休み最後の夜は、ろくに眠れなかった。
新学期。いつもよりはやく車いすをこぎながら教室に入った。
あ、と声が漏れた。
彼女の姿が、なかったのだ。
始業式後のホームルームで、担任から連絡がなされた。
彼女が、学校をやめた、と。
私は放課後、帰るつもりだった母を待たせて職員室に向かった。担任に事情をたずねた。「ちょっといろいろ事情があってな、来れなくなったんだ」と、詳しくは教えてくれなかった。
眠れなかった、夏休み最後の夜。
彼女は、なにを想っていたのだろう。
友人もなく、内気だった彼女があの時、懸命に引き上げてくれた勇気。
まわりの生徒たちの視線が痛かったはずだ。私がそうだったから。でも彼女は私の後始末をしてくれた。汚れるのもいとわず、親兄弟でもない私のおしっこを拭ってくれた。
やせっぽちの、ちいさなヒロイン。
担任から話しを聞きおえ、職員室を後にすると、私は一階奥にある理科室に閉じこもった。
どうして、やめちまったんだよ。
どうして、来なかったんだよ。
「ごめんね」を、言いたかったのに。
「ありがとう」と、伝えたかったのに。
泣いたのは、養護学校中学部一年の運動会で負けて以来だった。
三年に進学した。ようやく少ないながら友人ができた。共に弁当を食べた。ゲームセンターやボウリングに行った。カラオケで四時間、歌いまくった。図書館で勉強もした。やっと高校生らしい時間を過ごせた。
でも、頭のすみでどこか楽しめていない自分がいた。
まだ寒さの残る三月、卒業式をむかえた。
卒業証書やその他の荷物を抱えて感極まる母の横で、私ははじめて「ありがとう」とつぶやいた。
車いすをゆっくりこいで校門をくぐった。
彼女のおもかげと、後悔を、胸にしまいこみながら。
「ありがとう」
日曜の昼下がり、私はコーヒーを淹れてくれたパートナーに礼を告げた。コーヒーにはおやつのクッキーがそえられていた。
生きるのを共にすると約束し合ってから、私はひとつの約束ごとをパートナーにお願いした。
どんなちいさなことにでも、「ありがとう」を言い合おう、と。
今になって、想像する。
夏休み最後の夜。
彼女はひとり、勇気を振り絞っていた。私のような軟弱者には到底わからない、深刻な事情と葛藤していた。苦悩していた。泣き叫んでいた。怒りに震えていた。
夜が明ける頃、孤独な闘いはおわった。
彼女は学校をやめることを決意した。
彼女は、私のやせっぽちのヒロインは、闘いに勝ったのだ、と。
いつかまた、きっと会える。
その時は、しっかり伝えよう。
「ありがとう」と。
私の約束ごとにパートナーは、「いいね、その約束。うん、わかった」と微笑んでくれた。
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