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掌編「磔の女がいる部屋」

※本文は投げ銭制です。全文読めます。

 目をつぶりながら、おれは千春の奥にある指を動かし続けている。

 オレンジ色の残光が、瞼の裏に残っている。それは日によってかたちが変わる。ある時はうさぎだったり、ある時は壊れたコップだったり、ある時はいつかどこかで出会った、でももう思い出せないひとだったり。でもたいていはぼんやりした、水ににじんだ絵の具みたいな影に過ぎない。今日は、そうだ。

 耳に、千春のかすかな息づかいが響く。目を閉じていても、彼女がどんな顔をしているのかわかる。磔のように寝かされたベッドの上できつく眉をしかめ、やはりおれとおなじように目を閉じ、口元を手の甲で押さえつけて、本当は破裂しそうなほどの喘ぎ、いや、叫びを、必死にこらえている。でもその残骸のような呼吸はこらえようもなく、唇の間から漏れている。それがずっと、部屋のなかに湿度を与えている。

 う、と千春が声をかたちにした。それを合図におれは閉じていた瞼を開く。指をとめ、彼女からはずす。そばにあるティッシュを抜き、自分の指と千春自身についた液を拭う。そして膝までおろしていたパンツタイプの紙おむつ、だいぶゴムの伸びたショーツ、ピンク色のジャージを千春の下半身に戻す。そういう時、千春は全身のちからを使って尻と腰を持ち上げ、おれが履かせやすいようにする。疲れるから無理するな、といつも言うが、千春はそれをやめない。

「ありがとう」

 後始末がおわると、千春は息をととのえながら礼を言う。

「ああ」

 返事ともいえない返事をおれはする。このやりとりもいつも通りだ。何度繰り返したか、もうわからない。

 テーブルにあった冷めた紅茶の残りを飲みながら、なんとなく部屋を見渡す。ベッド脇の本棚や枕元に積み上げられた古い単行本や文庫、色褪せた雑誌や新聞。昭和の臭いが濃厚な、まわりに花の飾りがついた古臭い手鏡。そしてこれも古臭い、しおれたチューリップのようなランプ。これがさっきから、オレンジ色の鈍い光をはなっている。千春はなぜか、日中もこのランプを消そうとしない。

 高等部を卒業して就職し、車の免許を取り、ぼろいアパートでひとり暮らしをはじめた。そのすぐ後、母親から千春ちゃんから遊びにこないかって電話がきたわよ、と言われた。千春は高等部二年の時点でもう通学はできなくなっていたから、以前配布された連絡網に載っていた実家の電話番号にかけてきたようだ。三年前のことだ。

 まるで『ジョゼと虎と魚たち』のジョゼの部屋みたいだな。はじめてこの部屋に来た時思った。それを言うと、千春は肩までの髪を振り乱して首を振った。

「あたしはジョゼみたいにきれいじゃない。ブスだから」

 この言葉も、いったい何度聞いただろうか。ことあるごとに千春は言う。自分はブスだ、と。

 別にそんなことはない、と思う。すっと横に流れた細めの瞳。ととのった鼻。唇の色が少し青いが、かわいい、きれい、と感じるひともいるのではないか。
 そう言うと千春はやはり首を振る。そして言い加える。あたしはブスだ、と。
 その理由を千春は口にしない。何度聞いても、決して。



 おれと千春は、身障者養護学校中学部からの同級生だった。

 くわしい病名は知らないし、たずねてもいないが、彼女は筋肉が徐々に弱っていく病気を患っていた。たぶんALSとか、そういう難病だろう。実際、中学一年で隣県の養護学校から転入してきた時は、車いすを弱々しくもこいでいたが、今は自宅の部屋のベッドからほとんど起き上がれなくなった。

 千春が転入したきた当時、おれたち男子生徒の間では卑猥な雑誌やDVDがひそかに出回っていた。どのエロサイトがいいのかなんて会話が、休み時間のたびに濁った笑いと共になされた。

 そんなある日の昼休み。皆が体育館で集まっていた時、おれは他の奴に返すはずだった雑誌を忘れ、ひとり教室に取りに戻った。すると教室のおれのロッカーの前に、千春がひとりたたずんでいた。おれは彼女の膝にあったものを見て、彼女はおれを見て、同時に「あ」と声を上げた。

 千春の車いすの膝の上には、雑誌があったのだ。

 千春は慌てて雑誌を閉じて、ロッカーに押し込んだ。そして顔を伏せ、車いすを小刻みにこいでおれの脇を通り過ぎようとした。

「なあ」

 おれは千春を呼びとめた。だが千春はそのまま教室を出ようとした。頬が異様に青ざめていた。唇をぎりぎりと噛んでいた。胸をつかれた。
 それはその前日の夜、おれが浮かべたはずの表情とおなじだったから。

 五歳の時、原因不明の脊髄損傷におかされ、二度の手術の結果、おれの下半身は死んだ。動作も感覚も失われた。
 だが、なくならないものもあった。その証拠が、同級生から借りた雑誌だ。

 夜、家族が寝静まった頃、自室でそれを開いた。女と男が粘っこくからまる写真をみながら、失禁防止用の紙おむつのなかに手を入れた。だが、おれはなにも感じ取ることも、肉体に望む変化がおこることもなかった。ああ、やはりか。もうこれで何度目か。どんな雑誌も映像も妄想も行為も、おれは自身の欲を霧散させることができなかった。そのたび、おれは頬を青ざめさせ、唇をぎりぎりと噛んだ。
 そう、この時の千春のように。

「それ、みたいか」

 千春が、車いすをとめた。かすかにおれの方に顔を向ける。
 しばらくの沈黙の後、千春はしっかりとおれに振り返った。そして、小さくうなずいた。唇が震えていた。細い瞳からひとすじ、涙が流れた。

 千春がこの時流した涙よりきれいなものを、おれは今までみたことがない。きっと、これからもそうだろう。



「体調、どう?」

 枕元のボトルを取り、飲みながら千春がたずねてきた。中身は紅茶だ。千春の母親は毎日、娘のために紅茶を淹れている。おれにも何度も淹れてくれた。唯一娘に会いに来てくれるおれに、千春の母親は感謝を絶やさない。友達でいてくれてありがとうね、と。そのたび、おれは小さく、いえそんな、とうなずくしかできない。

「うん、まあ、いいとも悪いとも言えないな」

「クレアチニンは?」

「こないだは〇.九くらいだったな」

「じゃあ、腎機能はまあまあだね」

「でも相変わらず貧血はあってな。また二時間、点滴受けてきたよ」

「ちゃんと食べないからでしょ。今日、お昼なに食べたの」

「ここ来る途中、マックでてりやき食ってきた」

「サラダは?」

「食ってない」

「もう。なんで野菜食べないの。だから点滴なんだよ。ちゃんと食べなよ」

 苦笑いしながら、二杯目の紅茶を飲む。千春はおれの親より、おれの体調や食生活を気にしている。時々LINEで「今日のご飯、なに食べたの」と訊いてくるほど。そういえばジョゼには「息子」と呼んでいる幼馴染がいたな、とふと思い出す。

「ちょっと、小便するから」

 おれは千春の部屋の隣にあるトイレに入る。車いすでも充分使える広さの、この家で一番金のかかった場所だ。
 そこでおれはバッグから自己導尿のカテーテルや消毒液のボトル、性器を消毒する清浄綿を取り出す。ジーンズの前を開けて、パンツと紙おむつをずりおろして性器を出す。手を消毒した後、清浄綿で尿道口で消毒し、使い捨てのカテーテルを挿入する。奥まで差し込むと、小便がちからなく便器に流れていく。
 腎臓を壊し、腎機能を維持するための自己導尿をするようになってから、ちょうど二年になる。

 膀胱からすべて小便が排出されると、性器をトイレットペーパーで拭き取り、使い終わったカテーテルや清浄綿を持参したビニール袋に入れる。捨てていいと言われているので、隅に置かれたごみ箱にそれを捨てる。

「おしっこ、濁ってなかった?」

 戻ってくるとすぐ千春に訊かれた。自己導尿は雑菌感染のリスクが常につきまとう。実際何度か感染し、小便が牛乳を混ぜたように白く濁った。それだけならいいのだが、一気に発熱することがあるのがこわい。それで少し前、二週間ほど入院した。

「大丈夫だよ」

 気づかう千春に苦笑しつつ、ある光景を思い出す。

 二年前、最初に腎臓の治療のため入院した時は、毎日のように千春から携帯にメールがきた。やはり親よりも心配しているような様子が文面からうかがえた。退院してはじめて会いにきた時、千春は「よかった、本当に心配したんだから。このばかやろうが。殺されたいの」と、ねぎらいだか罵倒だかわからない言葉をぶつけてきた。

 その姿に、おれは自然と彼女のベッドに車いすを寄せていた。悪かったよ、と手を握った。千春はその手を弱々しく握りかえしてきた。ぬるい体温が伝わってきた。やがて頬を震わせながら、言った。

「お願いが、あるんだけど」

「なんだ」

 千春は、なぜかすぐに答えなかった。首をひねってもう一度たずねかけた時、下半身にだけかけられていた毛布をはがした。そして、ジャージのズボンを少しおろした。糸のほつれたショーツがのぞいた。

 おれはなぜか、彼女がなにを求めているのかわかった。教室、ふたりきりで沈黙したあの日のできごとが、あの日の千春の涙が、脳裏によみがえっていた。

 おれは胸に刻んだ。これから千春のもとをおとずれるたび、千春を満たしてあげよう。と。



 直幸。名を呼ばれ、おれは目を覚ました。千春のベッドに突っ伏し、いつの間にか眠ってしまったようだ。

「相変わらず、いびきすごいね。彼女できた時、心配だよ」

 千春が笑う。紅くそまりはじめた日差しが、彼女の顔を照らす。ブス、と自分で決めつけているその顔を。

「いらねえよ、そんなの」

 そう言い捨て、おれは千春の毛布をはがす。彼女のジャージを、ショーツを、おむつをおろす。彼女はなにも言わない。ただ、なすがままにまかせている。

 ゆっくりと、千春に沈んでいく。千春が眉をしかめ、目を閉じ、口元を手の甲で押さえつける。おれも瞼を閉じる。オレンジ色の残像がみえる。今度もなんのかたちもなさなかった。

 直幸は、なにが、欲しいの。

 千春に沈みながら、そうたずねられたのは、いつだったか。

 あたし、直幸のからっぽを、満たしてあげたい。

 おれはなにも答えなかった。ただひたすら、千春に沈んだ。堕ちていった。

 瞼を開き、そっと千春をみた。頬が涙で濡れていた。

 あの日、教室でみた、この世でもっともきれいな涙だった。




 


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