小説「冬の部屋」
「今日、誕生日なんですね」
CT検査をおえて身支度をととのえていると、男性技師がカルテをみながら言った。
おれはCT室の壁にさげられたカレンダーに目をやった。日付の下に製薬会社のロゴだけが書かれた、愛想のないものだ。今日の日付は十二月二十七日、たしかに誕生日だ。
「しかも記念すべき三十歳の誕生日ですね。先輩として歓迎しますよ」
技師はいたずらっぽく言った。浅黒い肌に白い歯を持った健康の見本のような人で、とても「先輩」にはみえなかった。一か月の入院生活を送り、弱々しくなったおれの方がよほど年寄りに感じられる。
検査を終えて五階の病室にもどると、ベッド脇に朋子がいた。
「おつかれさま」
「雨、降ってきたのか」
「なんでわかったの」
おれは下を指さした。彼女の乗る車いすのタイヤのぬれた跡が、床の上にうねっていた。朋子はああ、とうなずいた。
「冷えてきたから、雪になるかもね」
おれは窓に顔をちかづけた。重い灰色の空は、確かに今にも降り出しそうだ。振り返ると朋子がひざの上のビニール袋に手を入れ、みかんを取り出していた。橙色が目に痛いほどあざやかだ。
「おじさんがくれたの。甘いから食べろって。こんなに渡されてもねえ」
ベッドをまたぐテーブルにみかんの山ができたが、袋にはまだ実がつまっているようだ。そのわきには、リボンつきの箱があった。
「今日誕生日でしょ」
「おれに、か」
おれは目をまるくして箱をあけた。入っていたのはグレーと黒の格子模様の手袋だった。
「たいしたものじゃないけど」
「そんなことない、ありがとう」
朋子からお祝いされるとは思ってもいなかったので、おれは心から礼を言った。もう一度カレンダーをながめ、日付を確かめる。ここも長くなったな、とため息が出た。
腎臓の不調がみつかって入院し、一か月がたとうとしていた。
半年ほど前からめまい、疲労感、血圧の上昇といった不調を感じていた。何度か血尿も出ていた。異変に気づきながらもやりすごしていると、一か月前に脳を揺さぶられたようなめまいにおそわれた。病院に運ばれて検査を受けると腎血管の狭窄がみつかり、即入院となった。その夜からまったく尿が出なくなり、顔や手が空気をいれたようにむくんだ。翌日、ふさがりかけた血管をステントで広げる緊急処置を受けた。さいわい処置は成功し、腎臓は息を吹き返した。もうすこし処置が遅かったら人工透析だったと、処置後に主治医から言われたものだった。
「誕生日、お祝いしてもらわないの」
朋子はみかんを手に取った。細い親指を皮にさしこみ、たこの足のようにむいていった。白い筋もていねいに取りのぞいた。
「別に。もう祝う年でもないしな」
「そうかな。私は好きな人とお祝いしたいわね。奮発してワインでも飲みながら」
朋子が大台をむかえるのは来年の秋だ。
「いくつになっても、祝いごとはちゃんとお祝いしたいものよ」
おれはもらったばかりの手袋をみながら、吐息と苦笑をまじらせた。誕生日とかクリスマスとかどうでもいいたちなんだ。そんなことを朋子にほざいていた自分が思い出された。
朋子はそんなおれをみて「ま、人それぞれだけどね」と、みかんをひとつ口に入れた。おれもみかんの山からひとつ抜き取った。むいた皮はたこ足にはならなかった。
「そういえば、さっきから気になってたんだけど」
おれは朋子の肘下あたりをのぞきこんだ。
朋子の車いすが、以前と変わっていたのだ。
昨日の夕方業者さんから届いたの、と朋子はうれしそうに言った。今までの赤いフレームから一転、くすんだコーティングのされた黒いフレームのものに変わっていた。
「気分変えようと思って。いいでしょ」
朋子は満足げに肘掛けをなでた。
おれはうなずきながらも違和感を覚えていた。暖色系の似合う彼女には重々しく、そぐわない気がした。無理に男装をしているような感じだ。
翌日、CTの結果が言い渡された。良好だった。腎臓は道が通じ、しっかり動いているとのことだ。退院は十二月三十日と決まった。
退院の日の朝は、澄み切った冬晴れの空が広がっていた。
朝食をすませ、荷物をまとめようかと思っているとベッドをかこむカーテンがあけられた。朋子だった。
「ひとりでよかったのに」
「最後まで見届けるって決めてたから」
朋子はそれだけ言うと、すぐに持参したバッグを広げた。おれも強くは拒まなかった。
ふたりで荷物をかたづけたり、ベッドまわりの掃除をしているところに主治医がやってきた。ベッドに腰かけると、これからの生活で気をつけるべき注意点について簡単な説明を始めた。
とにかく無理はいけない。血圧の測定を忘れずに。これから寒くなるので防寒対策はしっかりと。お風呂も熱いお湯に長くつかったりしないように。食事は減塩をして、バランスのよいものを食べるように。最後に「よい新年を」と笑顔で言い残し、去っていった。
「先生の言うこと、ちゃんと守ってね」
それまで黙っていた朋子が静かに言い、折り目がつくほど強くタオルをたたんだ。おれはわかったよ、とうなずいた。
すべてのかたづけをすませ、朋子とともに病院を出た。一か月ぶりに外だった。病院内のゆるい空気になじんでいた頬が、寒風にひきしまった。積雪がまだないぶん、かえって風がじかに吹き抜け、肌をつらぬくようだった。朋子にもらった手袋をさっそくつけた。
「来た時にはまだ紅葉が残ってたものね」
朋子がおれを見上げた。確かに入院した時、病院前の銀杏並木にはまだ黄金色の葉が残っていた。今は葉も落ち、細く色のない枝が風にさらされていた。
彼女も寒そうに肩をすぼめながら、車いすをこいでいた。タイヤをまわす手はおれのものより厚い手袋におおわれていた。車いすタイヤをまわすためのリムは、冬はとにかく冷たくなるので手袋が欠かせないようだ。おれもリムをさわったことがあるが、氷をさわっているのと変わりない冷たさだった。
駐車場の奥に、朋子の愛車のマーチが停められていた。彼女はドアをあけ、車いすから運転席に移った。ついで車いすをおりたたみ、右腕だけで車いすを持ち上げ、助手席の後ろへと積み込んだ。
その様子を、おれはじっとみつめた。
付き合ってまもない頃、初めて朋子が車いすを積み込んだところをみた。その時のおどろきは今でも覚えていた。大きな車いすがたたまれ、車の中におさまるのが魔法のように思えたものだ。
それからしばらく、朋子の動きをみつめるのがおれの癖になった。
彼女が車いすをこぎ、前輪をあげて段差を乗り越え、上り坂を前傾姿勢でのぼり、下り坂を駆け降り、広い道を駆け抜ける姿をみてきた。どれもなにげない動作だが、ひとつひとつにおれにはない辛苦がともなっていた。生きるための動きそのものが、生きる力をけずりとっている。そんなふうに感じられた。
朋子は五歳の時、下半身まひの障害を負ったという。その頃から身を減らすようにして生きてきたかと思うと胸がふさがれ、目が離せなかった。
やがておれは手を貸そうとするようになった。しかしそんな時、朋子は決まって拒んだ。できることは自分でやる。どうしてもだめな時だけ手を借りるから。そうやって生きてきたから、と。
「今でもみちゃうのね」
朋子は積み込んだ車いすを固定させながら言った。最後まで眺めてるだけだったな。おれは唇を結んだ。エンジンがかけられた。トランクに荷物を入れ、助手席に座った。
マーチは市街地を南へ走り続けた。赤信号で止まると、歳末のせわしない空気が車中に伝わってきた。二十分後、車は一軒のアパートにたどりついた。静かな住宅街にあるアパートの、さらに奥まった一階一番奥が、おれたちの住んだ部屋だった。
「私の荷物はもう運び出してあるの」
朋子の言う通り、玄関にすえられていた車いす用スロープは取り払われ、窓のカーテンもはずされていた。青いレースのカーテンは、彼女が選んだものだった。
「あなたの荷物も少し整理したから」
「なにからなにまで悪いな」
おれはアパートをみあげた。ひびの走る壁、さびた階段、途中で折れた雨どい。どれも目になじんだ光景だ。
三年間、このアパートで朋子と暮らした。
小さいながらも心やすらげる、どこよりも居心地のいい場所だった。でもそれは朋子といっしょだったからだ。気がつくと朋子がとなりにいた。白い息を吐きながら、おなじようにアパートをみあげていた。
「あとはおれひとりでやれるよ」
「ねえ」
部屋に入りかけると朋子が呼び止めた。
「最後の散歩に行かない?」
朋子は返事を待たず、アパートの外へと車いすをこぎだした。おれも後を追った。向かう先はすぐわかった。いつもおれたちが歩いていた散歩道だ。
住宅街を少し歩くと細い道に入った。左手に家が並び、最寄り駅の西口に吸い込まれる線路が右手に走っていた。線路と道路を仕切るフェンスの根元から枯れたすすきが、秋のなごりとなって揺れていた。
「押すよ」
おれは朋子の背中にまわり、車いすを押し始めた。
「ありがとう」
朋子はリムから手をはなした。手袋もはずし、そっと膝の上に重ねた。自分のことは自分でするのが彼女の信条だったが、散歩の時だけはおれに車いすを押してもらうのが好きだった。
「なんか照れくさいね」
「いつも押してただろ」
「そうだけどさ」
「この道みつけたの、朋子だったよな」
ふたりでいつもこの小道を歩いた。駅に近いが人通りが少なくて風通りもよく、散歩には最適だった。休日の午後、朋子の車いすを押し、途中の庭の木や鉢植えの花を眺めて歩いた。缶コーヒーを買って飲んだりもした。電車が来た時は立ち止まり見送った。進み方のおだやかな時間だった。
「おれ、ずっとこうして歩いていられるって思ってたんだ」
おれは朋子の背中にささやきかけた。
返事はなかった。膝の上の手を寒そうにこすりあわせていた。その手は出会った頃より細くなったようにみえた。小さな前輪がアスファルトをころがる感覚が、背もたれのグリップを通じ、手に伝わってきた。この感覚も今日で最後だ。
この女をずっと支えていく。
朋子とはじめて過ごした夜、おれは確かにそう心に決めていた。
まひを負い、枯れ枝のように細くおとろえた朋子の下半身をみた時、しばらく彼女にすがりつくしかできなかった。どうしたのと何度もたずねられたが、自分でもわからなかった。しばらく後、彼女を何度も抱いた。幼き日に受けた手術痕が残る背中をなでながら、これからは朋子を支えて生きていく、と胸の中で何度もくりかえしていた……
家の影から一匹の三毛猫が顔を出した。まるっこい黒と茶色の模様が白い毛の上に浮いていた。このあたりを行動範囲にしている猫で、洗濯物を干している時によくみかけた。人なつっこく、朋子はよく草をふりまわして遊んでいた。車いすの前輪を、興味ぶかそうに前脚でつつくこともあった。
おいで、と朋子が車いすから身を乗り出すようにして手を差し出した。三毛猫はいつも通り近づいてきた。のどをなでると針のように目を細めた。おれも手袋をはずして体をなでた。干した布団のようなぬくもりが、冷えた手に心地よかった。
「彼女、猫飼ってるっていってたわね」
朋子は猫ののどをなでながら言った。
「ああ」
「あなたになついてるの」
「全然。じゃれようとするとひっかかれちまうんだよな」
「そう。せっかく夢がかなったのに残念ね」
いつか動物を飼えるところに引っ越せたら猫を飼いたい。そう言ったのはおれだった。この猫のように誰にでもなつく、愛嬌のある猫と暮らしたかった。朋子もいいね、とうなずいてくれたのだった。
やがて、なでられるのに飽きた猫は立ち上がった。フェンスにひょいとのぼり、地面とおなじように歩いていった。これからどこかの家に寄り、えさでももらうのだろうか。
「元気でね」
朋子は猫の背中にささやきかけた。
少し風が吹いてきた頃散歩はおわり、アパートにもどってきた。
「ここでおわり、ね」
膝の上に乗せていた手を再びリムにかけ、朋子は振り返った。
「本当に悪かったな」
おれは彼女のそばにかがみこみ、車いすの肘掛けに手を置いた。
「とっくにあの日でおわってたのに」
おれはあの日のことを思い浮かべていた。
あの日、朋子はまさにアパートを出ていくところだった。おれは玄関に出なかった。正確に言えば出られなかった。部屋の中でめまいにおそわれ、動けなかったのだ。ただならぬうめきに、朋子は車いすから転げ落ちるようにして部屋にもどってきた。すぐ救急車を呼ぶと、おれに寄り添った。
治るまで、私が支えてあげる。
腎臓の異常を告げられ、ベッドで力なく横たわったおれに朋子は言った。なぜそんな決意を固めたのか、たずねなかった。朋子の目が弱ったおれを射抜き、問いかけるのを拒んだからだ。
おれは望みを受け入れ、今の彼女には病院に来るなと言いはった。心配と不審で何度もわけをたずねる彼女に、治ったら必ず君のところに行くからと押し通した。それは本心だった。ただ朋子の最後の望みを受け入れたいという思いが強かった……。
その時、あたたかさを感じて視線をあげた。朋子の手の平が、いつのまにかおれの頬を包んでいた。
吸い寄せられるように彼女の膝に顔をうめた。ぬくもりが染み入るようだった。動きもせず、枯れ枝のようにか細くて折れそうなのに、どうしてこんなにあたたかいのだろう。なにも感じないなんてうそのようだ。
目をとじかけた時、静かに引き離された。
「ねえ」
朋子は言いかけ、口を閉じた。あごの下に膝のぬくもりを感じながら、おれは次の言葉を待った。
「ううん、なんでもない」
彼女は首を振った。最後の力を使い果たしたようなしぐさだった。途切れた言葉を読み取ろうとしたが、とじた唇が白い息をまとい、なにもみえなかった。
「からだには気をつけて」
けっきょく、それが最後の言葉になった。
夕方、荷物のかたづけをすませると、おれは部屋のまんなかで立ちつくした。なにもなくなった部屋をすみずみまで、何度もくりかえしみつづけた。
もう一晩だけ、ここで過ごしてみようか。
しばらくそうした後、おれはふたたび座り込んだ。理由は自分でもよくわからなかったが、あえて深く考えないようにした。
かたづけたばかりの荷物から、今夜だけ必要なものをまた取り出した。売るつもりだったヒーターをつけ、毛布を頭からかぶり、病院で使っていたラジオをつけた。カセットボンベ式のコンロでやかんの湯をわかし、近所のコンビニで買ってきたカップラーメンとサラダを食べた。湯気を吹きあげ、ラーメンをすすった。ずっと病院食だったので、インスタントの飯がうまく感じられた。さっそく主治医の注意をやぶるような晩飯だが、少しくらいはいいだろう。
このアパートをみつけた時も、荷物を入れる前の部屋で朋子と一晩を過ごした、とおれは思い返した。
その時もコンロを持ち込み、油揚げと玉子を入れた鍋焼風のうどんをつついた。五月も半ばだったので暑くなり、ちょっと無理があったねと笑い合った。その後はビールを飲みながら、あそこにはテレビを置こう、いやそこにはソファだよとやり合ったり、家事の分担はどうしようと悩んだりして、これからの暮らしの見取り図を描いて楽しんだ。
夜がふけると、朋子の方から求めてきた。通じたばかりの灯りを消すと、街灯から遠いこの部屋は闇と化した。毛布の中で、朋子の体のすみずみにまでふれた。感覚のない細い脚が、強い熱を放っているのを感じた。朋子もおれのすべてにふれていた。体全体でおれを感じ取ろうとしているようだった。
長い時間が過ぎ、毛布の上に横たわっていると、朋子のつぶやきが聞こえた。眠りかけていたおれはよく聞き取れず「どうした」と聞き返した。だが朋子は「なんでもない」と首を振り、目をとじた。
しかしこの時、おれは朋子の言葉を聞きとっていた。
おなじからだなら、もっとよかったね。
朋子はそうつぶやいていたのだ。
おれは聞こえないふりをつづけた。その方がいいと思った。逃げたのだと今ならわかる。うろたえてもどなってもいい、真正面から受けとめていれば、今ここでひとり、毛布にくるまっていることはなかっただろう。
寒さが強くなり、ヒーターの温度をあげた。コンロの湯でホットウイスキーを作った。ひさしぶりの酔いは、毒とも薬とも感じられた。酔いがまわるにつれ、さきほどの朋子との別れ際、彼女がなにかを言いかけたことが思い出された。飲みこんだ言葉は、あの夜のつぶやきとおなじだったのかもしれない。そんな想像をすると、ウイスキーの苦みが強くなった。
ラジオから天気予報が流れてきた。明日の大みそかは全国的には晴れだが、このあたりだけは雪になると伝えていた。
明日は雪景色になるだろう。雪に包まれた街を朋子は好んだ。新年をまあたらしい気持ちで迎えてくれればいい、と心から願った。
ウイスキーがなくなり、もう一杯作った。それを飲むと眠気におそわれ、灯りを消した。変わることのない闇に部屋がおおわれると、夢もみずに眠った。翌朝、おれは振り返ることなく部屋をあとにした。 (了)
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