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ゆっくりと苦しみをもって 第1番
理神論のようなものを望んでいたのかもしれない。
仮にこの世界を創造した神居て、この世界を創るだけ創ってほっといているという考えであれば、それは理神論なのである。なら、神様も執行人も今だけはどうか二人をほっといてほしいと願うことは、理神論なのだろうか。
ほっとくってのは、ほっとかれたモノにとってはある意味で無責任だし、ある意味で自由だ。逆にほっとかれないということは、強い言葉で言えば束縛的だし、そこに責任が生じているとも考えられる。親にほっとかれた人間は、自身を守る術が欠如してしまう可能性があるし、ほっとかれたことのない人間は、井の中の蛙大海を知らずってなるかもしれない。
ゆっくりと苦しみが身体を蝕んでいく。3/4拍子のゆっくりとしたテンポで。まるで飾りをなるべく取ったかのような、”すっぴん風メイク”ってやつ?(どちらかと言えばアンニュイ風な、、、)独特な哀愁を漂わせながら、俺の脳を通り越していく時、ゆっくりと極彩色の苦しみに慣れ、快楽に変容していく。「サティ、お前天才だよ。」と滑稽なことを言ってみる。日々の生活の苦しみ、俗に言う「ストレス」って奴さえ、洗い流すような音楽。どことなく終わろうとする夏。(これはぼくなつのせいだろう)だけどちょっと、不安になってくる。こんな音楽が作りてぇ。
中学生の時、暗いボカロ曲を好んで聴いていたのは何故だったのだろうかと考える時がある。当時、辛かったことなんて今に比べたらちっぽけなもんで、あんなことで悩んでたなんて、しょうもねーとすら思うし、今と同じような環境に当時の自分を放り込んだら、多分死ぬ。「暗さ」がファッションになり、悲劇のヒーロー的な、可哀想な自分が大好きだったのかもしれないし、単純にメンヘラなのかもしれない。
かと言って現在、暗い曲を聴かないかと言えば嘘になるが、何方かと言えば「独特な哀愁」とやらに惹かれるのである。今当時と同じような暗いボカロ曲を聴くと、人間には歌えない暗さはファッションどころか、人間の醜さの残りカスみたいに思えてしまう。別に否定をしているわけではないが、(俯瞰すんなと思われそうだけど)ほっといてくれ〜〜なんて歌うのは果たして正しいのだろうかとか、ほっといてほしい理由はなんだろうとか思う。それが、社会に対する浅はかな不満なのであれば、中学時代の自分のように思えて、黒歴史的な恥ずかしさを感じてしまう。山田亮一が禅の宿で歌う「ほっといてほしい」はなんとなく子供っぽい大人の恋愛って感じがする。(言語的に大人っぽい表現なのか、ラブホに入れるのは大人だけだという固定概念か、、、)
かと言って現在、ボカロ曲を聴かないわけではない。ただ人間の醜さの残りカスと表現したものに恥ずかしさを覚えるだけで、たまにその羞恥心に浸かると、懐かしい気持ちになる。友達の家で卒アル見てるみたいな。ただ、新しく生み出されていく、暗いボカロ曲に対して貪欲に聴き漁ることはなくなってしまった自分がいる。(おすすめあったら教えて欲しい。)独特な哀愁を帯びたボカロ曲に偏るのは、ジャンルを超えて同じなのだろう。哀愁どころか、ボカロというものの性質上、音楽として人類に問うようなモノが好きなんや。(ボカロなら人間にできないことやってくれるだろっていう。いや、作者は人間か、、、)例をあげよう。
なんやこれ。不気味で美しい。音楽としてビビる。語彙が足りないと思わされる。表現しようのない美しさ、、、こういうのなんすよ、、
それはさておき、なぜ最初に理神論の話をしたのかというと、神という存在にほっとかれているのであれば、自分自身の意見の尊厳がバグると思ったからだ。人生に神の関与がないのであれば、責任は自分自身に全てのしかかる。だからと言って神の関与があるのであれば、責任はないのか?”罪”は人間の性であり、なんて神学的なことを考えると、果たしてこの音楽は神のものか人間のものかとか、滑稽なことを考えてしまうのである。神=義、人=悪という二元論的な考えが蔓延してはならないと思うのだ。
最後に一曲、紹介して終わろうと思う。これ以上「神の存在」について考えると気が狂いそうだからだ。
走り出したら、転んでしまった。まるで今の俺みたいや。哀愁ホリックのワイの好きそうな曲やなと全人類が思っただろうな。ギターリフのキラキラと、ドラムの疾走感、がっちりとしたベースに、この歌詞。頭バグるかと思った。
果たして人生にゴールが存在するのだろうか。「死」を目的とした人生なのであれば、さっさとさよならすることが肯定されるはずだし、「生」を目的とした人生なのであれば、あまりにも虚しい。誰かを幸せにすると願うのならば、自身の幸福は?と聞かれ、自身の幸福を望むのなら、自己中心的だと疎外される。何かを創ること、その創造性が目的ならば、劣等感を感じるし、人間として道徳的で社会的にも正しい人を目指すのならば、そんなこと不可能だって気づく。それなりに食べれてそれなりに幸せだって思えるのが大切ならば、人生にはそれなりの価値しか付随されないし、何かを得ることが目的なのであれば、全てを得てしまった時に目的は消滅する。進化論的に考えるのならば、人間という動物には理性も道徳も秩序もいらないとさえ思うし。
だからこそ、理神論を望んでしまっていたのかもしれない。なにをやっても肯定してくれて、ほっといてくれて、そんな人生。いやでも、責任は持ちたくないし、、、
そんなことを考えて眠れないなんて
なんて自己中。