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【小説】あなたの願う「扉」が開きますように

※『いつか扉が閉まる時』1シリーズの最終回のスピンオフ。

登場人物
橋本紗枝:県立高校2年生。図書委員 
藤井先生:学校司書(逝去)
増野先生:藤井司書の代替職員
田辺先生:図書館には詳しくないが図書委員会担当教員。女子バスケ部顧問。生徒指導部


 射すような寒さが緩み、桜の開花予想が始まるこの季節をいつからか私は好きではなくなった。 

「申し訳ないが今度、正規が配置されるから」
「国語の定数が1減ってね」

 記憶の中で気の毒そうに言うのは全員、雇用の安定している管理職。
 これまで私にそう告げた人々の中で、本心ですまないと思っている人は果たして何割いるのだろう。
 それくらい学校に「非正規雇用」の「常勤講師」は何人もいて、もはや欠かせない存在になっている。そうでなくとも年度末の管理職は一講師の気持ちを考える余裕がないほど忙しい。


 正規の人事異動が発表されると職員室では悲喜こもごもだ。
 意に沿わなかった、希望通りだ、なんて自分の話は親しい人にしかしない。
 その代わり「△△先生、異動なんて向こうの学校、大変だね」「◯◯先生がいなくなるなんて、ここどうなる?」などひそひそと交わされる異動の噂話で、その人がどう思われていたのかわかることも多い。

 でもこちらはそれどころではない。
 ようやく私たちの番なのだ。来年度の仕事があるか、毎年眠れないくらい苦しくて、でもそれを誰にも悟られないよう平静を装って。
 そしてその学校にはもういられなくなると決まった時の、何に対して悔しがればいいかわからなくなる気持ち。
 友人が作れず私にばかり話しかけてくる子、私の授業が好きと言ってくれた生徒、部活動で仲良くなった頑張りやさんたち、反抗的で接し方を手探りしていた生徒…。
 4月からはその子たちと私は別のところで生きることになる。
 もちろんそれは異動が決まった正規教諭も同じだけれど、それでも「別の学校」に行くだけだ。異動1年目は文化祭や体育祭への案内が来て、来校すれば生徒たちと再開できる。
 非正規雇用の私に案内は来ないし、下手したらこちらが「学校の先生」でなくなっている可能性もある。

 ふだん、こんなことは考えない。
 でもこの、家を出る時間に少しだけ明るくなり昼間のんびりしたくなるような気候になると、心の奥にある暗い沼が波立つ。

「先生、仕事を辞めたくなったことってありますか?」

 だから、核心を突かれたようで一瞬固まった。
 次年度ここにいられるか不安でたまらない反面、同じことの繰り返しで鈍い痛みに慣れてしまった、ぼんやりしたこの季節。
 春風の中に小さな針を感じながら図書委員の橋本さんを誉めていたら、脈絡もなくこう聞かれたのだ。

 何度もあるよ。
 数え切れないくらい。
 いつかは採用される、そう思いながら管理職や先輩教師の無茶振りも笑顔で応え、「お手すきの先生は…」と言われたならどんなに仕事がたまっていようと率先して加わった。残業だって人一倍している。授業も部活も手を抜いていない。
 でも、採用されない。
 わが県は国語教諭が多いから正規雇用が難しいと聞く。
 ――他県は人手不足だからそっちを受けたら?
 仲良くなり、親身になってくれた正規の同僚からそう言われたことも1度や2度ではない。
 でも妹とこまめに会えなくなるのは避けたい。幼い頃から病気がちで、私のことを頼ってくれる妹。
 忙しくても時間を見つけて会いに行けるのは、近くにいるからだ。
 だから、私はこの県だけを受け続けている。
 たとえ職場で理不尽な目にあったとしても。
 教科内の面倒な役割は大体私に回ってくる。
 顧問なのも土日がつぶれる運動部で、正顧問は隙あらば私に引率を押し付ける。正顧問が担任で面倒な生徒を抱えていて忙しいと頭ではわかっていても時々やりきれなくなる。
 おまけに国語教諭というだけで学校図書館担当にもさせられた。私の所属する生徒指導部は図書館とは関係の無い部署なのに。
 それでも司書の藤井先生が存命だった頃は、私の状況をわかっていたのか負担にならないようにしてくれていた。
 それが、彼女の代わりに来たのが本当に図書館のことを何にも――は言い過ぎだけど、ほとんどしなくて、顔見知りの書店外商担当者にも「年度末が近いのに発注が無いようですが大丈夫ですか」とさりげなく尋ねられるような人になってからは。
 図書館のことなんか専門外だからわからないし、それでなくても入試や生徒の進級のことで頭がいっぱいだったのに、図書費の残予算を確認し、増野先生とパンフレットを見て図書館用の本を選んだりした。
 そんな小さな積み重ねが、私の何かを削っていく。
 いっそのこと教諭を辞めて違う仕事を探そうと、ハローワークのHPや転職サイトを覗いたこともある。
 塾講師になろうと本気で思ったことも何度もある。

 でも。
 一部の子、でなく、成績の良い子も悪い子もやんちゃな子もおとなしい子も。きっとどこかで光り輝く一瞬があって、それを見られる喜びは多分「学校」でしか味わえない。
 だから。
 やりがい搾取と揶揄されても。
 そんな苦しみながら働くなんてバカだと言われても。

「無い…と言いたいけれど、あるよ」と正直に答えてみる。

 橋本さんが真面目な顔になった。

 この子も何かを悩んでいるんだろう。
 彼女は藤井先生と仲がよかった。司書室で楽しそうに作業をしているのを何度も見かけた。
 だから訃報を聞いた直後、まっさきに彼女を気にかけた。
 司書の代替が決まらない時、昼休みに私が図書館を開けて監督していると彼女はやってきた。礼儀正しく挨拶するが、目が腫れているのは近づかなくてもわかった。
 大丈夫?と声をかけたその瞬間、張り詰めているものが崩れてしまいそうなくらいに。 
 私は見守ることしかできなかった。
 でも彼女は彼女なりに図書館で懸命に委員としての職責を果たそうとしていた。
 そういう姿を見ることができるのは、やはりここが学校だからではないだろうか。 
 今は少し元気になって、図書館とは関係のない会話ができるようになった。
 ただ、今回はいささか唐突過ぎるきらいはあるけど。
 
 だから私は付け加える。

「でも私は辞めない。きっと。月並みだけどさ、生徒が好きだから」

 橋本さんが笑顔になった。
 曇りのない日差しのような。
 そして思う。
 ああ、こんな生徒の一瞬が見られてよかった、だから私はこの仕事をし続けるんだよなあ、と。

  

                (了)