【小説】いつか扉が閉まる時 3年生・秋・文化祭まで(8)
高木先生は廊下に溢れる人を上手に避けながら歩いていく。
先生の後ろに付いていくと、移動がスムーズだ。
その勢いで事務室の扉を開け、まっすぐに多良先生のところに行かれる。
私は少し後ろで待機する。
多良先生はお弁当を食べているところだった。
「多良先生、お食事中失礼しますが、食事が終わったら図書委員会のところに行ってくれませんか?こいつら、変な大人に何度も絡まれてるんですよ」
「変な大人って?」
「4、50代の男性で、古本を値引きしろって生徒を脅すみたいなんです」
「…値引きくらい、してあげたらいいんじゃないですか?ただでもらったものなんだし」
そう来たか。
話が通じない人というのはいるものだが、その人が司書の先生であってほしくなかった。
「売り上げを全額寄付するから、生徒も職員も無料で図書館に古本を提供しているんですよ。それに生徒が値段を付けたものを、大人が勝手に値引きすればいいってのはどうですかね」
「そんなこと言われても、男性相手なら私だって太刀打ちできませんよ」
「大人が1人でも会場にいれば、言いがかりはつけられないでしょう。生徒の安全を守るためですよ」
「それなら先生がいてくださればいいじゃないですか」
高木先生はいったん何か言おうとして、やめる。そして冷静な声で続けた。
「あなたは司書として雇われていますよね。その発言は無責任だと受け取られても仕方ないと思いますが」
「私、食事休憩中なんです。それに今日は事務室の仕事があるから行けません」
その言葉に高木先生がさっと顔を赤くしたのが、斜め後ろにいた私にもわかった。
高木先生は右手の拳を握って、そして部屋の奥の真ん中にいるボス的なオーラの人のところに行った。
「事務長、少しよろしいですか。多良先生は司書ですよね」
ボスもお弁当を食べていたが、箸を置いた。
「ええ。でも昔と違って専任司書じゃないし、事務室の仕事をしてもらわないと。今日は来客も多いですから」
「生徒が危ない目にあっても、そう言いますか」
「生徒指導はあなた方教諭の仕事でしょう。そもそも司書に任せるのがおかしいんです」
「図書館のことを一番わかっている人が図書委員を指導した方が、生徒や図書館のレベルも上がるし、何より効率がいいでしょう」
「あなた方はそうやって、面倒なことは事務室に押し付けますね」
ボスは座ったまま、高木先生を見上げた。
「例えば、毎日の弁当の発注なんか事務室の仕事ではないはずです。でも我々は先生方がお忙しいからとサービスでやっている。それをさも当たり前のように、ああした方がいい、なんて文句を言う人も出てくるくらいだ」
高木先生は立ったままじっと聞いている。拳はまだ握られている。
私は遠くでその様子を窺っている。
「先生方はあれ買えこれ買えと言う割に、無駄遣いばかりする。
まだ使えるものも平気で捨てるし、こっちが光熱費が高くて予算が厳しいと節電をお願いしても、パソコンや電気は使ってなくても点けっぱなし、エアコンをつけてドアも窓も開け放ったまま帰ったり」
そう言ってボスは立ち上がる。
「他にも言いたいことはありますが、今は余計なことでした。
とにかくこっちは先生方に対して全般的にかなり譲歩しています。
森本先生の件もですよ。そちらは良かったかもしれないが、おかげでこちらは打撃でした。
先生方には事務室の人事にまで口を挟まないでいただきたいですね」
「そのやり方で、未来ある司書を退職に追い込んだのはどなたですかね?」
高木先生は6月に辞めた結城先生のことを言っているのだ、とハッとする。
結城先生の悲しそうな顔を思い出したら、辞めるのに申し訳なさそうな森本先生の顔、そして亡くなった藤井先生の幾つもの笑顔さえ浮かんできて、胸が苦しくなった。
さらに田辺先生が前言いかけた、事務室と先生たちがうまくいっていないという言葉を思い出す。
「あれは、こちらのせいではありません。我々は教育庁人事部のやり方に従ったのみです」
「向こうは現場をわかっていない。だから学校の人員を減らせるんです。
以前はいた用務員、印刷補助、そして今度は司書ですか。
教員の残業が以前より問題視されているのは教員自体が足りない上、仕事量が増えたせいもありますが、校内で教員以外の働き手が減らされているのも理由の1つです」
「予算が減らされているからですよ。上も我々も好き好んで人を減らしているわけではない」
「その結果がこれです。教員の成り手すら減って学校教育が破綻しかけている。その悲鳴は上層部にはきちんと届いていないんでしょう。
そりゃ、たまに視察するくらいじゃ何も見えないし、しかも管理職は概ね良いところしか見せませんからね。
そこをデータや様々な声を元に交渉して現場の状況をわからせるのが、各校管理職の腕なんじゃないんですか?上層部のやり方に何でもかんでも従っていたら優秀な人がどんどん辞めていきますよ」
「だったら、そういったことは管理職になってご自分でなさればよろしい。
もっともなってみたら分かるでしょうが、管理職になったからとて、すぐ変えられるものでもありませんがね。
…とにかく、本日は多良先生にはこちらにいてもらいます」
高木先生は「そうですか、それが事務室のご意見ですか。よく、わかりました」と、聞いている私がゾッとするような低い声で言い放ち、「帰るぞ。橋本」と足早に部屋を出て行く。
私は「失礼します」とつぶやき、事務室を出た。目の端に入った多良先生はお弁当を食べ続けていた。
高木先生は廊下で1回大きな深呼吸をした。
そして「俺が図書委員会に付くわけには行かないけれど、警備係の職員に重点的に巡回してもらうようにする。古本市には図書委員じゃなくても誰か大柄な男子に部屋にいてもらうといい。他の図書委員にもそう伝えろ」と私に戻るように促した。
私は高木先生とはこれまで接点が無かったが、親身になってくれる先生なんだと心が温かくなった。
図書委員会ブースに戻ると、水口さんがいた。
「橋本さん、大丈夫だった?私がその場にいたらそいつを叩きのめしていたんだけど」と物騒なことを言い出す。
「師匠に怒られますよ。そんなことしたら」と園田君が苦笑した。
「わかってる、冗談だよ」と言いながらも目が笑っていない。
あの場に水口さんがいなくて良かった。もちろん手を出したりはしないだろうけど、口くらいは出しそうだ。あの慇懃無礼な切り口上の言葉遣いで。
私は高木先生に言われたことをそこにいた委員たちに伝える。
水口さんはわかったと言い、さっそく廊下に出て知り合いの男子生徒を中に呼び込んだ。
水口さん自身は空手をしているから多分強いけれど、周りからそう見られないことは本人もわかっているのだろう。
まずはトラブルにならないような準備をすべきだ。
「ここは私がしばらくいるから、橋本さんはどこかを回ったり、のんびり休んで来なよ」
そう優しく言ってもらった。
しかし、文化祭中の学校でのんびりできるところなど皆無だろう。
ただ、少し疲れたのでどこかに避難をしたくなった。
でもどこに行けばいいだろう。
体育館のステージ発表はノリが軽い人が集まっていて絶対にうるさいし、図書館は当然開いていない。
青春ドラマだと屋上に行ったりするが、実際は管理上の問題で施錠されているところがほとんどだろう。
(続く)