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【小説】いつか扉が閉まる時 3年生・夏休み(5)最終回

 こんな形で久保がうちに来るなんて想像していなかった。

 久保は緑茶と煎餅を前にくつろいでいる。
 ちなみに「冷たい麦茶と温かい緑茶のどっちがいい?」と聞いたら、
「暑い日には緑茶だよ」というお爺さんのようなリクエストに応えた結果だ。

「圭一君は手がかかってね、提出物とか全然出してくれなくて困ったわー」と笑いながら話す母だったが、弟にするのならもっとマシな話はなかったのか。

「でも憎めなくてね、生徒にも人気あったのよ。今どうしてるの?」

「ふらふらしてます」

「…ふらふら?」怪訝そうな母の声。

「あ、冗談です。ちゃんと働いてますよ、元気にしてます」

 そう、と母は麦茶を飲んだ。

「紗枝とは同じクラスなの?」

「クラスは別ですが、一緒に図書委員してます」

「あら、あなたも本好きなの?」

「ええ、橋本さんのおかげで」とすましてお茶を飲む。

 ソツないな。さすがジゴロ…?

 すると母の携帯が振動した。母は別室に行き、私たちはリビングに残される。

「何が橋本さんのおかげで本好き、よ。図書館で本借りないじゃない」

 男子が家にいる状況には慣れていない。気恥ずかしさを隠そうと軽く憎まれ口を叩く。

「俺、本は買う派なの。そんなにたくさんは読んでないけど」

「そうなの?何読んだの?」

 久保と本の話をしたことがなかったので食いついてみた。

「あ、『十二国記』最初の2冊だけだけど一気に読んだよ。陽子を助けたくてもどかしかったー」

 私が去年、紹介した本を読んだのかと嬉しくなった。

「あとはサッカー選手の書いた本とかかな。紗枝さんは?」

「一般向けの小説が多いかな」

「へー、どんなの?」

 私が人気の作家を何人か挙げると、「どれも読んだことない。今度図書館で教えてよ」と笑う。

 見ると久保の湯呑が空になっていた。

「お茶もう一杯いる?」

「いや、さっき学校で麦茶も飲んだし、そろそろ行くよ。お母さんが早く帰ってくるの久しぶりなんでしょ」

「…久保ってさ、意外と優しいね」

「今頃気がついたの?遅いよー」

 久保を見送るために立ち上がる。身長が私と同じくらいなのでつむじが見えた。   

 その時ドアが開く音がして、母が寝室から出てきた。

「あら、帰るの?」

「はい、ご馳走様でした。橋本先生」と久保は母を呼ぶ。

「兄は先生のこと、好きな先生だって話してくれたことがありますよ」

「あら、ありがとう。嬉しいわ。お兄さんによろしくね」

「はい。お邪魔しました」と久保は会釈をして、「それじゃ」と私に笑みを投げた。

 


「今日、早かったね、どうしたの?」と一緒に夕飯を作りながら母に聞く。

「最近帰り遅かったでしょ。ちょっと夏バテ気味で年休取っちゃった」

「大丈夫?もう若くないんだから無理しないで。後は私がするよ」

「若くない、は余計。それよりあの子、手島君と紗枝はもしかして付き合ってるの?」

 私はニンジンを切りながら「違うよ、ただの友達。それに…本当は久保君なんだ」と伝える。

 母は椅子に座って、何か考えたようだった。

「そうか、悪いことしちゃった。違うって言いづらかったんでしょうね」

 切ったニンジンをレンジで温める。

 そうだね。久保は「てしまでいいから」なんて気を遣ってくれたり。

 いい奴なんだな。

 テスト頑張れ、と心の中で応援した。


 次の週、久保からメッセージが届いた。

「テストは何とか合格したよ。その節はお世話になりました(^o^)。奢るからお礼にプールに行かない?」

 なぜお礼がプール。夏の3大デートスポットの1つ、カップル御用達じゃないか。それに久保の前で水着姿になるのもお断りだ。

「よかったね。お礼は気にしないで、お互い色々頑張ろうね。よい夏休みを」と送っておいた。



 夏休み中は勉強に集中できた。結果が付いてくるといいな。

 始業式は8月下旬でまだまだ暑い。

 その週から当番もあったので、図書館に赴く。

 見ると大量の返却本がカウンターに積まれていた。休み前に本を借りた人がたくさんいたのだ。

 そして夏を満喫しきった様子の日焼けした女子たちも来た。

「たっつん、久しぶり!」

「おお、焼けたねー」と久保がジゴロスマイルを放出した。

「うん。皆であの後、海に行ったんだよ。先輩も来ればよかったのに」とショートカットの可愛い子がはしゃいで言う。

「受験生だからねー、これでも」

 どうやら、ここにいる女子は3年生とその後輩らしい。 

「花火大会も楽しかったねー」

「きれいだったよな」と久保もうなずく。

「来年も皆で行こうね、卒業しても」

「そうだね」と久保は帰っていく女子たちに手を振り返した。

 私は本を後ろのカートに並べながら思った。久保は私が断った後、この子たちと花火大会に行ったんだ。

 こんな話を聞くと残念だったかもと感じたりする。でも久保と2人きりで花火大会に行くのは、やっぱり無しだよね。

 私は目の前の返却本をどんどん処理していった。

 すると久保が「花火はサッカー部の何人かで行ったんだ。楽しかったよ」と言った。
 
「そうなんだ、よかったね」

 すると久保は一瞬だけ睨むように目を細めたが、すぐに笑顔になった。 

「紗枝さんは、花火見なかったの」

「うん」

「勉強、忙しかった?」

「忙しかったというより、集中したかったの」 

「そっか…」

 などと話している間にも利用者が来る。その後私たちは予鈴が鳴るまで当番に専念した。



 図書委員の仕事も終盤を迎える。肩書は卒業まであるけれど、図書館での作業は実質9月末で終わりだ。

 10月からの図書館がちゃんと開くのか、受験がうまく行くのかなど悩みは多い。

 でもきっと何とかしよう。私にできる範囲でベストを尽くそう。

 夏の隙間をすり抜けたひんやりした風が、励ますようにそっと私の髪を揺らした。

(了)